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清水高志「トライコトミー(三分法)、禅、アニミズム)」(奥野克巳×清水高志『今日のアニミズム』所収)/道元『正法眼藏』

☆mediopos-2591  2021.12.20

アニミズム的な思考や経験は
西洋の理性や科学知では
捉えることができない

釈迦時代の六師外道のひとりサンジャヤから
ナーガールジュナの『中論』
そしてそこから展開されてきた
華厳の世界観そして
それを背景にして深化された禅などもまた
西洋の理性や科学知ではとらえることはできない

とはいえそれを現代において
あらたな形でとらえなおすためには
思考・経験を拡張させ得るような
またかつてのそれらを理解可能にするための
思考法がどうしても必要となる

西洋の論理の基本は
古代ギリシャ以来矛盾律(「Aは非Aではない」)が
基本となってきた

インドでは「Aである」「非A]であるという命題に加え
「Aであり、かつ非Aである」
「Aでもなく、かつ非Aでもない」という
二つの命題が加えられ
西洋的な二者択一に対して
テトラレンマとよばれている

それをふまえながら清水高志は本論考において
「主体/対象」「一/多」という二つの二項対立に加え
「内/外」という二項対立を加え組みあわせた
トライコトミーという思考法を提案している

それは主体と対象が関係しあっているネットワークに加え
「一が多を包摂し、多が一を包摂」し
過去や未来という時系列の変化にかかわらない
「状況に非 − 依存的な、独立した「今」どうしが
シンクロニシティの状態となったネットワークとして
イメージすることができる

そうすることではじめて
矛盾律に囚われた思考・経験を
拡張させていくことが可能となっていく

論考では
道元の『正法眼藏』の現状公案から
三つの例がひかれているが
ここで引用したのは
その「一五」「うを水をゆくに」だ

魚と水・鳥と空とが例にとられ
「一なる存在が万象にじかに繋がること(「一/多」)、
主体と自然(環境)が一体であること(主体/対象)、
被包摂と包摂(「内/外」)という二項対立の三つ組みが、
しっかりと組み合わさって機能している」
というトライコトミー的な視点がが示されている

そのほかにも「〇八」「生というは、たとえば、
人のふねにのれるときのごとし」では

「全機現」という言葉で
「ある瞬間のある自然の現れが、
全宇宙のいのちと響きあっており、
そのあらゆる機関が全部同時に働いているということ」が示され

「〇九」「たき木、はいとなる、さらにかえりて
たき木となるべきにあらじ」では
「「生」と「死」もお互いに独立しており、
それぞれに《全機現》」であることが示されている

西洋では古代ギリシャ以来
アニミズム的な思考・経験から離れ
対象論理を中心にした世界観が展開されてきたが
古代インドの思考法やそれを継承したであろう仏教
とくに大乗仏教においては
ある意味でアニミズム的な思考・経験を
論理化しそれを悟達のために用いてきた

科学という名のもとに失われてきた思考・経験は
量子力学においてもそれが示唆されることもあるように
今世紀に入ってから次第に
そしてやっと現代において
人類学という分野からの示唆としても
あらたなかたちでのアニミズム的な思考が
クローズアップされてきているが

それらはこれからどのように
西洋の理性や科学知を拡張し得ていくのだろう
現実の政治・経済状況等をみるかぎりにおいては
まだその時が訪れているとは楽観できないけれど

■清水高志「トライコトミーTrichonotomy(三分法)、禅、アニミズム)」
 (奥野克巳×清水高志『今日のアニミズム』以文社 2021/12 所収)
■道元『日本古典文学大系 81 正法眼藏/正法眼蔵随聞記』
 (岩波書店 1965/12)

(清水高志「トライコトミーTrichonotomy(三分法)、禅、アニミズム)」より)

「科学の対象を関係づけ、記述する主体が、その主体と切り離されてもともと存在している対象についての知識を得ていくのが科学であるという近代人の思考は、実はその過程において起こっているさまざまな複雑な主体と対象の交錯、一と多の交錯を隠蔽しており、実態とは大きくかけ離れたものであるといわざるを得ない。アクター・ネットワーク論による分析は、それら複数の二項対立の潜在的な協働を可視化し、ときに組み換える方法を提示してみせているのである。
 アクター・ネットワーク論においては、「主体/対象」という二項対立は、「一/多」という別の二項対立との結びつきが意図的に変えられることによって、「作用において」対等な関係になっている。」

「先の二種類の二項対立に、三種類目の「内/外」という二項対立が組み合わさることによって発生するのは、次のような事態である。

 Ⅰ 内にも外にも(一方的に)還元されない独立した対照が分離される。
 Ⅱ その対象をめぐって、「一が多を包摂し、多が一を包摂する」というかたちで、「多/一」という二項対立の調停が、その対象の内部にも外部にも同時に、あらゆるスケールと方向において拡張される。
 Ⅲ さまざまな状況に非 − 依存的な、独立した「今」の状態の並存、それら端的な「今」どうしの、シンクロニシティの状態が生じる。

 自覚的、段階的にここまでの局面において展開する思考を。ここでトライコトミーTrichonotomyと命名することにしたい。」

「二元論や二項対立の克服もしくは調停という課題は、そもそも東洋の思想的営為においても古くから問われていた。西欧の形式論理では、古代ギリシャ以来矛盾律(「Aは非Aではない」、といった論理)による議論、二元論的なロジックはむしろ常套であったが、インドで発達したのは四句分別と呼ばれる独自の論法である。たとえば①Aである、という命題に対して、②Aでない(非A)という命題が立てられるのはギリシャでも同じだが、インドではこれにさらに、③Aであり、かつ非Aである④Aでもなく、かつ非Aでもない、という二つの命題が加えられるのだ。西洋的な二者択一 dilemma に対して、これはテトラレンマ tetralemma とも呼ばれている。」
「第三レンマまでが状況依存的であって、二項対立の真の調停になり得ていないという問題意識は、トライコトミーTrichonotomyの観点からすると、「主体/対象」と「多/一」という二種の二項対立の組みあわせが、局所的、状況的に考えられていた状況を、いかに超えて多即一、一即多の世界観に超出するか、端的な「今」における他者としての対象、自然との遭遇を期するかという、そうした課題が溜めこまれている状況である。
 四句分別は初期仏教の以前からあるロジックだが、『中論』ののちの大乗仏教の思想は、まさにその葛藤を孕んだうえで、爆発的に自己展開し、初期仏教にないさまざまなあらたな表現を生んだ。多即一、一即多という世界観は、文字通り華厳仏教においてとことんまで展開され、賢首大師法蔵らによってさまざまな角度から具体的に検討された。禅はというと、たとえば有名な臨済義玄の問答のように、「脱人不奪境」「奪境不奪人」「人境倶奪」「人境不奪」といった具合に展開される。禅者どうしの出会いがしらの劇しいぶつかり合いと揺さぶりを事としたが、そこで出逢われたのはまた、岩田(慶治)がいうようなアニミズム的な、他者としての自然、その宇宙的ないのちでもあった。たとえば道元の『正法眼蔵』には、そうした経験の、実に鮮やかで豊かな表現が溢れかえっている。その一部を採り上げて、ここではトライコトミーTrichonotomy的にそれらを分析していくことにしよう。
 「内/外」の問題、自然や環境とそれによる包摂の問題、いのちということについて、道元は「現状公案」のうちで、こんな風に雄弁に語っている。

  うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふ事なく、処処に踏飜せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし(道元 二〇〇四a:五一 - 五二)。

 鳥はそらをもっていのちとし、魚は水をもっていのちとする。鳥や魚のいのちは、それらの身体のうちに封じこめられているのではない。それらを包み込む環境、そらや水そのものが鳥や魚のいのちであるというのだ。しかもこれはただ有機体の輪郭を境界にした、内と外の反転を語っているのではない。「みずのきわなく」「そらのきわなし」と言われるように、そこには際限のない無限の世界そのもののあからさまな啓示がある。包摂、「内/外」、そして自然(環境)、鳥や魚の、躍動するひとつのあり方が。世界のすべて、つまり万象にそのままじかに通じて一体であることがここでは謳われている。そらをもっれいのちとする鳥、水をもっていのちとする魚は、文字どおりその環境と一体となって滞ることなく生きる。−−−−そこには有限ではあるが、主客が渾然とした生のありかたがある。そして、この生、このいのちが、たちまち万象に、きわのない無限な宇宙的規模のいのちに包まれている。隔絶しながら、しかも繋がっているのだ。
 ここで。包摂する、されるということが、きわめて大きな意味を持っていることは明らかである。「現状公案」のこの短い文章のうちでも、一なる存在が万象にじかに繋がること(「一/多」)、主体と自然(環境)が一体であること(主体/対象)、被包摂と包摂(「内/外」)という二項対立の三つ組みが、しっかりと組み合わさって機能しているのだ。
 環境と主体の主体混淆的なあり方については、まだしも理解しやすい、とはいえそれが全世界にまで繋がってゆくという機序は、先の引用だけだと充分には分からないのではないだろうか。ここに「全機現」という言葉がある。ある瞬間のある自然の現れが、全宇宙のいのちと響きあっており、そのあらゆる機関が全部同時に働いているということを表す表現である。「生は全機現なり、死は全機現なり」(道元 二〇〇四b:二六八)ともいう。」

「禅が自然と、また全世界とどのように出逢ったか、その経験のうちに働いている複数の二項対立の機構がどんなものであるかについては。そのごく一部をここに垣間見ることができた。しかしさらに重要なのは、どこで働いている経験そのものであろう。つまり、鳥や魚を眺め、川で舟を漕ぎ、薪が灰になってゆくその炎を前にして、それがどう実際に悟達されたかである。−−−−その経験、その出逢い、その根源的な感情が、どのようなきっかけで感じられているのか。また、それが獲物を狩る狩猟民のアニミズム的な思考とどのように共鳴しているのか?」

◎奥野克巳×清水高志『今日のアニミズム』《目 次》
まえがき(清水高志)
第一章 アニミズム、無限の往還、崩れる壁(奥野克巳)
第二章 トライコトミー Trichotomy(三分法)、禅、アニミズム(清水高志)
第三章 対談 I (奥野克巳×清水高志)
第四章 他力論的アニミズム(奥野克巳)
第五章 アニミズム原論ーー《相依性》と情念の哲学(清水高志)
第六章 対談 II (奥野克巳×清水高志)
あとがき(奥野克巳)

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