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護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」(『談 no.130 トライコトミー』)/「仏教認識論の射程」(『未来哲学 創刊号』)・『仏教哲学序説』

☆mediopos3557(2024.8.15)

mediopos3549(2024.8.7)でとりあげた
『談 no.130 トライコトミー』から
三つめのインタビュー
護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」について

インド仏教のプラジュニャーカラグプタの「未来原因説」
つまり過去と未来は対称性の関係にあり
過去が結果を生み出すならば
未来もまた結果を生み出す作用を持つというようように
現在は未来からの影響のもとに成立している
という視点を検討することを通じ

仏教の教えの核でもある「縁起」を生きることで
「過去・未来・現在」という時間の枠組みや「時間の矢」
そして「原因」と「結果」の常識から自由になって
ものを考える視点が示唆されている

さてプラジュニャーカラグプタの「未来原因説」だが
その説明のためにまず「縁起」について語られている

「縁起」とは「原因」によって「結果」が生じる
「因果関係」と理解することができるが
「この世界のあらゆる出来事にはしかるべき原因があり、
その原因が取り除かれれば、その出来事は生じない」といえる

そこで問題とされたのが
「これがあればかれがある」という「因果関係」は
「時間的な関係」
つまり「「原因」というものが時間的に先行し、
「結果」であるものが時間的に後にある」のか

「因果関係のなかに時間的な関係を読み込む必要はなく、
「原因が結果に先立つ」という考えを
根底から問い直すことができるのかということである

「「Aが原因で、Bが「結果」とすれば、
推論の基本式は「結果があれば原因がある」となり」
「「結果」を観察することから「原因」を導くのであり、
「結果」から「原因」を推理する」ことはできるが

ダルマキールティは「「原因」と「結果」との間に
わずかでも時間的な幅があるとしたら、
その間にそれを疎外する要因が生じる可能性がある」がゆえに
「原因から結果を推理する」ことはできないとしている

そのようにダルマキールティは
「結果から原因は推理できるが、原因から結果は推理できない」
という仏教論理学の基本テーゼを立てる

このことは「過去→現在→未来」という「時間の矢」や
「原因」から「結果」が生じるという日常的な常識とは逆だが
私たちの堅固なまでの日常的なリアリティの世界は
あくまでも「言葉や概念による分節化をとおして、
その投影をとおして見ている」世界であって

「そういった馴染みの概念の関係を解体し、
そこから自由に」なるために
こうした仏教的な「縁起」に基づいた価値観から
新たなリアリティを創造していくことも可能ではないかという

もともと仏教は
「何かを「業」と考え何かを「果報」と考え、
何かを「原因」と考え何かを「結果」と考えるという、
そのこと自体を一つの執着として、それすらも超え」
「完全なる自由な状態に到達すること」を目的としている

護山真也はインタビューの最後に
仏教を哲学することを通じて
「縁起」というものの見方を取る(「縁起を生きる」)ことにより
「時間」をはじめとした常識から自由になって(「時間を遊ぶ」)
ものを考えられるようになる可能性を示唆している

■護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
(『談 no.130 トライコトミー …二項対立を超えて』水曜社 2024/8)
■護山真也「仏教認識論の射程————未来原因説と逆向き因果」
 (『未来哲学 創刊号(二〇二〇年後期)』未来哲学研究所 ぷねうま舎 2020/11)
■護山真也『仏教哲学序説』(未来哲学研究所 ぷねうま舎 2021/3)

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「プラジュニャーカラグプタの未来原因説とは」より)

*「・・・・・・護山先生は、『仏教哲学序説』で仏教哲学全体について広く目配りしておられますが、『未来哲学』創刊号掲載の論考「仏教認識論の射程————未来原因説と逆向き因果」では、未来と過去が相似形をなしているというようなプラジュニャーカラグプタの考え方について論じておられますね。その考え方自体にも、それが論理性をもって説かれていることにも大変驚きました。(・・・)

 まずは、その一見奇妙にも思える「未来原因説」についてご説明いただけますか。」

*「未来原因説を提唱したのはプラジュニャーカラグプタですが、その考えを知るためには、その師であるダルマキールティという思想家のことを少しお話しておく必要があります。七世紀の学僧ダルマキールティはインド哲学全体でも最大級の思想家の一人として名前が挙がる存在ですが、日本ではほとんど知られていません。というのも、彼のテキストは漢訳で紹介されることがなかったからです。七世紀にインドに渡った玄奘三蔵も彼のことを伝えていません。彼の思想が広く知られるようになったのは、二〇世紀以降のことです。とくに、一九六〇年以降、チベットからインドに亡命したダライ・ラマ一四世などが世界に向けてチベット仏教の教えを発信するようになったことで、チベットに伝えられていたダルマキールティの思想もアメリカやヨーロッパで注目され広く知られるようになってきたという流れですね。」

「「未来原因説」を説明するために、まず仏教の教えの核となる「縁起」とは何か、というところからお話したいと思います。」

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「縁起とは何か————「これあるとき」の解釈をめぐって」より)

*「「縁起」はブッダの教説の中心にあり、「あるものと邂逅して/あるものを条件として、あるものが生じること」、「縁(よ)りて起こる」こと、つまり「原因」によって「結果」が生じることを意味します。「因果関係」と理解してよいと思います。この世界のあらゆる出来事にはしかるべき原因があり、その原因が取り除かれれば、その出来事は生じない、と考えます。

 ブッダは、人間存在がかかえる苦しみにも必ず原因があることを、「無明」から始まり「老死」に至るまでの一二項目を並べ、因果の連鎖で説きました。「十二支縁起」といわれるものです。この縁起の公式の最初の部分に、サンスクリット語で「asmin sati,idamu bhavati(アスミン サティ イダン バヴァティ)」という文章があります。「これあるとおき かれあり」というふうに訳されます。「Aがあれば、Bがある」という関係です。この文章にはさらに、「これが生じることにより、かれが生じる。これが滅するとき、かれが滅する。これが滅することにより、かれが滅する」という文章が続きます。大きく分ければ「Aがあれば、Bがある」、そして「Aがなければ、Bがない」という関係が成り立つ時に、AとBという二つの項目の間には「縁起」という関係がある、ということになります。」

*「インド仏教のなかでも、日本の近代仏教と同様の論争がありました。そこで問われたこともやはり、縁起は「時間的な関係」なのか、「論理的関係」なのか、という問題でした。」

*「ダルマキールティはこの「asmin sati,idamu bhavati」というフォーミュラに関して、「ここにあるのはAとBとの間の、ある必然性の関係だ」と論じています。ダルマキールティの発言を受けて、「では、その必然性の関係とは何か」というのが、その弟子たちの間で問題化され、直弟子のデーヴェーンドラブッディは、この関係は「時間的な関係だ」と明言します。「原因」というものが時間的に先行し、「結果」であるものが時間的に後にある、という解釈です。

 その一世紀ほど後に登場したのがプラジュニャーカラグプタ。彼は、この縁起のフォーミュラに時間的な関係を読み取ることができるだろうか、という疑問を呈します。和辻(哲郎)の言うように、「これがあればかれがある」という論理的な関係、条件付けの関係としてこのフォーミュラを理解すれば、因果関係のなかに時間的な関係を読み込む必要はなく、「原因が結果に先立つ」という考えを根底から問い直すことも可能になる。その場合、「未来を原因として現在が結果となる」という極端な見方であっても、それが「縁起のフォーミュラ」に何ら反するものではない。これが「未来原因説」の基本の考え方なのですが、この背景には、「輪廻の論証」をめぐる特殊な事情がありました。」

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「輪廻の証明————唯物論者たちとの闘い」より)

*「輪廻を証明するためには、唯物論者が立てている前提を否定することが必要です。唯物論者の前提は、四元素から成り立つ私たちの物理的な身体が一番の基礎だというものです。心は身体を原因として生じる、という考え方ですから、その不合理を説くために、仏教側は「では、本当にどんな場面でも私たちの心は身体を原因として生じるのだろうか」と問いかけ、それに反する例として「滅尽上」という深い瞑想を挙げます、その状態にあっては意識すら消えるのですが、それにもかかわらず身体は存在しています。唯物論者の考えでは、身体が原因として心が生じるのですから、身体がある限り心は消えないはず。しかし、それでは身体があるのの意識がないとい仏教の瞑想体験の一部が成り立たない。意識を身体とは独立した流れとして認めることが必要ではないか、身体を一切の原因とすることは論理的にできないのではないか、というのが議論の主な筋になります。

 仏教の考え方によれば、意識というものは、「刹那滅」といって瞬間ごとに「生じては滅する」ということをずっと繰り返しています。その意識の流れ(識相続)が身体から独立したものとして証明できれば、それで輪廻の証明になるという理屈です。」

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「結果から原因は推理できるが、原因から結果は推理できない
     ————ダルマキールティによる基本テーゼ」より)

*「Aが原因で、Bが「結果」とすれば、推論の基本式は「結果があれば原因がある」となります。つまり、「結果」を観察することから「原因」を導くのであり、「結果」から「原因」を推理するわけです。そして、この正しさは、ブッダの縁起のフォーミュラによって保証されるものと考えられました。

 でが、それを逆にして「原因から結果を推理する」ことはできるでしょうか? ダルマキールティは「できない」と言います、なぜならば、「原因」と「結果」との間にわずかでも時間的な幅があるとしたら、その間にそれを疎外する要因が生じる可能性があるからです。たとえば「種を蒔いたら芽が出る」というのは確かにある。さらに、「芽が出たらそこに種が蒔かれていた」と推理することはできる。しかし、「種があれば芽が出る」と必ず推理することができるかというと、日照時間が足りなかったり土の養分が足りなかったりすれば芽は出ないことがある。だから原因から結果の推理は妥当しません。

 「結果から原因は推理できるが、原因から結果は推理できない」。これが仏教論理学の基本テーゼとしてダルマキールティが立てたものでした。」

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「時間的関係を外す————プラジュニャーカラグプタによる「未来原因説」」より)

*「輪廻の証明にこのテーゼを当てはめると、「誕生時の意識(=結果)から、その前の生存(過去世)の臨終時の意識という原因を推理する」という前世の証明はできるけれども、「臨終時の意識(=原因)から、未来の新しい生存の意識(=結果)を推理する」というふうに、つまり、「原因」から「結果」を証明する逆の方向の推理はできないことになり、輪廻の証明が不十分になってしまいます。

 輪廻の証明を完成させるためには、「原因」から「結果」の推論を別の理屈を使って証明しなければならなくなりません。そこでプラジュニャーカラグプタが導いたのが、先ほど言った「時間的関係を一旦ここから外してしまう」という方法でした。必然的な関係で結ばれた二項のうち、「それなしには他方がない」ものが「原因」なのであり、時間的先行するものが「原因」なのではない、と考えるのです。そうすれば、未来の意識を「原因」とし、現在臨終時の意識を「結果」とすることで、「現在の結果から未来の原因を推理する」というかたちで、ダルマキールティのテーゼを守りながら、意識の連続体があること、つまり、輪廻があることの証明が可能になります。」

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「「未来原因説」と時間の概念」より)

*「仏教でも時間に対する複数の考え方があります。プラジュニャーカラグプタの場合にも、時間について、ある種観念的といいますか、「人間の心を離れて時間は存在しない」という考え方が観られます。というのも、彼の思想は、「世界の一切は心が生み出した現象に過ぎない」という「唯識」という考え方をバックボーンいしているからです。一八世紀のアイルランドの哲学者ジョージ・バークリーによる「存在するとは知覚されることである」というテーゼのように、世界を心の現れとして見る見方ですね。唯識から見る時間は客観的、物理的な時間とは違う流れとして現れてくるはずです。

 さらに言えば、唯識は瞑想の実践と切り離すことはできないので、自分の心を見つめる瞑想の体験のなかで流れる時間というものがもう片方にあって、それが、この「未来が原因である」というラディカルな見方につながっていったのではないか、と考えられます。瞑想の時間と日常的な時間との間の関係は大事な問題です。

 同時に、私たちは「過去・現在・未来」と言葉や概念によって時間を三つに分けていますが、この言葉や概念による分け方がわれわれの体験している時間と本当に合致しているのか、というところも考える必要があるように思います。分節化されたこの三つはあくまでも概念的な虚構ですから、大乗仏教の空の立場からは、最終的に「過去・現在・未来」の区分そのものを無効化する境地が説かれたりもします。

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「インド哲学の外部との接続、仏教における「業と果報」、
     因果応報とプラジュニャーカラグプタ」より)

*「因果というと、私たちはどうしても物理的世界における因果をベースにして、それだけで考えてしまいます。しかし、インドにおける文脈で因果を改めて見直してみると、「業(カルマ)」とその「果報」という関係がベースにあることがわかります。「善い行いをすれば善い結果が返ってくる」といわれる時の、あの「カルマ」です。業と果報の間には必然的な関係があり、ある行いをしたならば、その行いは潜在的な力をもって、それにふさわしい結果を生み出す、あるいは結果を引くのだといわれます。行いが結果を「生む」という側面と、未来の結果を「引く」という側面、そういう両面をもった因果の捉え方です。

 私たちが普段生きているなかの因果には、「物理的なレベルの因果」と「業と果報というカルマのレベルの因果」というものとがある。つながるようでいて、実際は分けられるかもしれない二つの考え方です。」

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「因果応報から解脱へ————意識変容の可能性、ヨーガ行者の直観」より)

*「仏教では、「業」と「果報」という因果のその結びつきを最後に解いていきます。それが「解脱」です。つまり、何かを「業」と考え何かを「果報」と考え、何かを「原因」と考え何かを「結果」と考えるという、そのこと自体を一つの執着として、それすらも超えていく。その「業と果報」との結び付きが解き放たれた状態、完全なる自由な状態に到達することが仏教の目的だということ。もはや「業」であるとか、その「報い」であるとかにこだわることすらからも抜け出ていく。それを「不二」といいます。同じ内容で「空」と言ってもいい。こういう二元性を超えていくところまでいって始めて、「業と果報」との結び付き自体を乗り越えた状態に達するのです。」

*「考えてみれば、私たちが生きているこの世界だってどの程度まで幻覚から離れたものなのかは疑問です。ここに机があり椅子があると私たちは考えるけれども、その机や椅子という存在は、自分たちの言葉や概念と切り離せない。ここに本当にあるはずの原初的な世界とは別の世界を、私たちは言葉や概念による分節化をとおして、その投影をとおして見ているわけです。私たちが日常的に経験する世界は、本当はそのとおりに実在しないはずのものに対してある種の実在性をもたせることで成り立つ仮構のものに過ぎないのかもしれません。ここにもある種の「存在化」の働きがあると言えるでしょう。

 日常的なリアリティの世界は堅固ですが、仮構のものである以上、その概念の大系にも綻びはあります。いったんその意味の世界を解体する「バーヴァナー」を行えば、「過去」と「現在」と「未来」、そして「原因」と「結果」、そういった馴染みの概念の関係を解体し、そこから自由になれる。そして、今度は別の価値観のもとで世界に新たなリアリティを創造していく。そういったものが仏教的な「意識の変容」であるのだろうと思うのです。そして、それは、神秘的な何かというよりは、「未来原因説」のような、ある種の哲学的な考え方をとおして近づいていけるような何かなのではないか、というふうに思っています。」

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「時間の方向性————死に向かうベクトル、未来から照らし出される現在の私」より)

*「今の時間というものは、死に向かうベクトルと共にあると同時に、未来の救済によって意味付けられた存在であるということ、これは時間のベクトルを逆にする見方ですね。死者の目というのでしょうか。生者の目線ではなく、生の向こう側にある死ないしは死者の世界からの眼差しをとおして自分というものを眺め返してみるようなものかもしれません。これは、「自然法爾」の世界ともつながります。一切が仏の力によってそうあるべく動かされるものとしてある世界。そのような世界を前提にすると、未来から現在へと、そういう風にベクトルを逆にした見方というものも同時にあるのかなと。プラジュニャーカラグプタの議論とは離れますが、個人的にはそういうふうに思ったりしています。」

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「向こうからやってくる「他力」」より)

*「過去から現在、未来へという「時間の矢」に従うある種の近代的な時間の見方、常に前に向かうものの見方を支えているのはたぶん、確固たる自分という主体を中心に置いた見方なのだろうと思います。自分の目線から、この自己という主体から見渡せる世界のなかで時間というものを捉えていくと、進歩史観というか、「過去→現在→未来」という矢印に従った時間の見方になりますね。その見方は、意思決定をする自分の中心とするフレームのなかでものを考えるということに縛られている印象もあるわけです。これに対して、未来から照らされる現在というものを考えること。時間の向きを変えてみるということは、確かに神秘主義的な側面もあるかもしれませんが、その狙いは、自分を中心とするものの見方から自由になることにあります。「自分」をいったん括弧にいれて、物理的な時間とはまた違う意味で、自分ではどうにもならない、外部の何かしらの力の側から————まさにそれが「他力」ということですけれども————影響を受けている事態を眺め返してみるということです。」

*「どこまでが自分の要素であり、どこからが世界とつながる要素なのか。自分のコントロールの及ぶところ及ばないところを含めて、まさに相依性としての縁起的な関係性のなかにある自分というものを捉えていくと、極大の宇宙まで行けるかどうかはわかりませんが、少なくともこの肉体に囚われた自己とは違うレベルで自分というものを捉えられるでしょう。それは、いわゆる他者といされている存在を、自分と切り離さず、どこか自分の要素と必ずつながったもの、その存在なしには自分というものが成立しないものとして捉えるということです。自分以外の一切の要素とのつながり方を見直していくことにもなるのかなとは思いますね。そうなれば自己の見方は大きく変わっていきます。そして、自己の見方が変われば、「生」や「死」の見方も変わり、時間の見方も変わることになるでしょう。」

**(護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
   〜「時間を遊ぶ、縁起を生きる————信仰と理性の中道」より)

*「「縁起」というものの見方を取ることによって、私たちは「過去・未来・現在」という時間の枠組みや、先ほど言われた「時間の矢」の一つの常識、あるいは「原因」と「結果」という常識から自由になってものを考えることができる。ブッダがそういうふうに考えたかどうかわかりませんが、少なくとも「縁起」を学ぶことによて、哲学的な思索のなかだけでも常識かた解き放たれるような瞬間、ある種の自由を味わうことができるわけですね。「時間を遊ぶ」と言えばいいでしょうか。時間というのはわれわれが考えている常識よりももっと自由なものなんだ、というふうに、ものの見方を変えさせてくれるところがあります。「縁起を生きる」と言った方がいいのかな。「縁起を生きる」ようなことにつながっていくことが仏教を哲学することではないかと思いますね。」

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