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エリック・ホッファー『大衆運動 新訳版』

☆mediopos2642  2022.2.9

「沖仲仕の哲学者」エリック・ホッファーは
今年で生誕120年となる(1902年生まれ)

ホッファーはドイツ系移民の子として
ニューヨークに生まれ7歳から15歳まで失明
世紀の学校教育はまったく受けていないという

視力がもどってからは
農園や金鉱・港湾などで働きながら
1951年に処女作として本書を発表し
それが大きな反響を呼び
社会思想の古典的名著となっているが
その後も65歳までで沖仲仕として働き
1983年に80歳で亡くなっている

学者のための学者としてではなく
こうして沖仲仕をつづけながら
そこから思索するひとの言葉は
深くずしりと響く

本書は愛読書のモンテーニュ『エセー』にならって
みずからの思考をはじめて言葉にしたものだという

本書『大衆運動』のなかでホッファーは
宗教運動・民族主義運動・ファシズム・ナチズム・
コミュニズム・排外主義といった
さまざまな大衆運動の特に狂信的段階を考察し
それらに共通する特性について熱く語っている

すべての大衆運動は
さまざまな違いがあるとしても
「同じような種類の人々のうちに
初期の支持者をみいだすのであり、
同じような心の持ち主に訴えかける」といい

そうした支持者の中心となるのが
「欲求不満を持つ人々」だという

そして大衆運動は
「その人の自己の全体像に代わるものを提供するか、
あるいは自分個人の力によっては
生み出すことのできない要素を提供することによって、
生きがいを与えることができる」

「わたしたちの個人的な利害や展望が、
人生の目的とするほどに価値があるものとは思えない場合、
わたしたちは自分のほかに何か生きるに値するものを
絶望的なまでに求める」のだという

政治的な運動であれ宗教的な運動であれ
共通しているのは
狂信的にじぶんをその運動の中に託すことである

ホッファーはこうした言葉でも表している
「わたしたちが大衆運動に参加するのは、
個人の責任から逃れるためであり、
熱心なナチ党員の語る言葉を借りれば
『自由から自由になるため』なのである」

そして「個人の独立性を喪失してしまうと、
わたしたちは新たな自由を獲得する」ともいう
そして「恥じる心も後悔の念もなしに他者を憎み、
いじめ、嘘をつき、拷問し、殺し、裏切る行為」さえも
平気で行うことができるようになる

この視点をひとことでいえば
個の魂を集合的な魂のなかに
無自覚なまま解消させることだといえる

ナチスのような極端な例ほどではないにしても
こうした集合的なかたちでの言動・行動は
さまざまな権威を持ち出すことで
みずからを偉く見せたり
それで人を従わせようとしたりというように
日常的にも頻繁に目にすることができる

健全な権威や尊崇の念は重要だが
それがたしかな個としての責任と自由に
裏付けられていないときそれらは容易に
『自由から自由になるため』の手段と化してしまう

■エリック・ホッファー(中山元訳)
 『大衆運動 新訳版』
 (紀伊國屋書店 2022/2)

「大衆運動には、宗教的な運動や社会革命や民族主義的な運動などがあるが、本書ではこれらすべての大衆運動に共通してみられるいくつかの特徴について考察している。」
「どのような大衆運動でも、運動の支持者のうちに自分の生命までも捧げようとする覚悟と、統一行動を求める傾向を生み出すものである。大衆運動においてどのような教義が教え込まれるかにかかわらず、さらにどのような綱領が提起されるかにかかわらず、つねに狂信と熱狂と熱烈な希望と憎悪と不寛容が育まれる。そしてすべての大衆運動は人生の特定の領域において激しい活動の流れを生み出すことができるのであり、どのような運動もその参加者に対して盲目的な信仰と一途な忠誠を求めるのである。
 すべての大衆運動は、それが求める事柄と教義に違いがあるとしても、同じような種類の人々のうちに初期の支持者をみいだすのであり、同じような心の持ち主に訴えかける。
 狂信的なキリスト教徒たち、狂信的なイスラーム教徒たち、狂信的な民族主義者たち、狂信的な共産主義者たち、そして狂信的なナチ党員たちのあいだには明かな違いが見られるが、これらの人々を動かしている狂信的な考えは、同じものとみなして同じものとして扱うことができる。これらの狂信的な人々を、運動の拡大と世界支配に駆り立てる力もまた、どれも同じものとみなすことができるし、同じものとして扱うことができる。あらゆる種類の献身と信仰と権力の追求と自己犠牲には、共通したところがあると言える、こうした運動の聖なる大義や教義には大きな違いが見られるものの、大義や教義を有効なものとする要因のうちには、共通したところがみいだされるのである。
 本書では主として大衆運動のうちで、運動を興隆させる初期の活動的な段階を取り上げる。この段階で中心を占めるのは忠実な信奉者たちであり、聖なる大義のために自分の生命を犠牲にする準備ができている狂信的な信仰を抱いている人々である。こうした人々がどのようにして生まれるのかを追跡し、このような人々の性格の輪郭を描くことを、本書では試みているのである。
 この試みに役立てるために、二つの作業仮説を立てている。すなわちすべての大衆運動の初期の支持者のうちで中心となるのは「欲求不満を持つ人々」であり、これらの人々は運動に自発的に参加するのが通例であるという事実から出発して、次の二つのことを仮説として想定した。

  (一)外部から運動への参加を迫る刺激がまったく与えられないとしても、欲求不満そのものが忠実な信奉者に特有にみられる特色のほとんどすべてを生み出すことができる。
  (二)人々を運動に参加させることのできる効果的な技術とは基本的に、欲求不満を持つ人々の心にもとからそなわっている傾向と反応を育て上げ、固定することにある。」

「欲求不満を持つ人々に、大衆運動はその人の自己の全体像に代わるものを提供するか、あるいは自分個人の力によっては生み出すことのできない要素を提供することによって、生きがいを与えることができる。」

「聖なる大義に対する信仰心はかなりの程度まで、自信喪失の埋め合わせになる。」

「自己が卓越した人物であると主張する根拠がないと考えれば考えるほど、人は自らの国や宗教や人種や聖なる大義が卓越したものであると主張するようになる。」

「わたしたちが大衆運動に参加するのは、個人の責任から逃れるためであり、熱心なナチ党員の語る言葉を借りれば『自由から自由になるため』なのである。」

「大衆運動の最大の魅力の一つは、それが個人の持つ希望に代わる大きな希望をもたらしてくれることである。進歩の思想が広まっている社会においては、この魅力はとくに強い力を発揮する。というのも進歩という考え方においては、「明日」がとても重要であり、未来に何も見込みを持てないことによって生まれる欲求不満というものがとくに強くなるからである。」

「わたしたちの個人的な利害や展望が、人生の目的とするほどに価値があるものとは思えない場合、わたしたちは自分のほかに何か生きるに値するものを絶望的なまでに求めるものである。人々の献身とか忠誠とか忠義とか自己の放棄のようなものは、それがどのような形をとるにしても、私たちの意味を失った無益な生活に何らかの価値や意味を与えてくれると思えるものに絶望的なまでにすがりつく営みににほかならない。それだけにこうしたものにわたしたちは情熱的に、そして極端なまでに激しくしがみつくのである。」

「ある社会において大衆運動が勃興する準備ができているかどうかを判断するためにもっとも信頼できる指標になるのは、どうしようもないほどの退屈が拡がっているかどうかということであろう。大衆運動の興隆に先立つ時代について説明したすべての文献において、倦怠感が広範に拡がっていたことが指摘されている。そして大衆運動はそのごく初期の段階においては、搾取されている人々や抑圧されている人々よりも、退屈している人々のうちに同調者や支持者をみいだす可能性が高い。」

「ある人物に自己犠牲をさせるには、その人から個人としてのアイデンティティと独自性を奪い去ってしまわなければならない。その人に、ジョージとかハンスとかイワンとかタダオとかの名前を持った人物であることを、すなわち誕生と死によってその存在が限られた原子のような人間存在であることを、やめさせなければならない。この目的を実現するもっとも根本的な方法は、個人としての人間を集団としての団体に完全に同化させてしまうことである。集団に完全に同一化した個人はもはや、自分もほかの人々も人間とみなすことをやめてしまう。」

「人々が自己犠牲を捧げる用意ができているためには、この世の現実から目を背けていなければならない。自分自身の経験と観察から結論を引き出すことができる人々は普通、殉教の思想を受け入れたりはしない。というのも自己犠牲は理性的な行為とは言えないからである。何らかの問題を調査し、熟慮したプロセスの結果として、自己犠牲が選ばれることなどありえないことなのである。
 そのためすべての活動的な大衆運動は、運動の信奉者たちと世界の現実とのあいだに、事実によって揺るがすことのできない遮蔽幕のようなものを設置しようとする。」

「統一の原動力のうちでも憎悪はもっとも近づきやすく、広い範囲に及ぶものである。個人は憎悪によって自分自身かた引き離されて高く舞い上がり、自分の幸福や未来を忘れてしまうし、嫉妬や利己主義からも解放されるのである。個人はあたかも、自分と同類の人々と一体になり、大きな炎のような大衆に溶け込むことを切望している無名の粒子のような存在になる。」

「大衆運動の団体行動において個人の独立性を喪失してしまうと、わたしたちは新たな自由を獲得する。これは恥じる心も後悔の念もなしに他者を憎み、いじめ、嘘をつき、拷問し、殺し、裏切る行為である。大衆運動の魅力の一部がそこにあるのは疑いのないところである。」

「模倣は、統一を作り出すための重要な原動力である。組織のなかに均質な要素が広まっていなければ、緊密に結びついた集団が形成されることがありえない。どのような大衆運動も意志の統一と強制的な均質化を重視するが、これは服従によってだけではなく、模倣によって生まれるものである。しかも服従というものは、掟に従うことだけではなく、実例を模倣することによっても生まれるのである。」

「大衆運動は言論人によって開始され、狂信者によって実現され、活動家によって強固なものにされる。」

「活動家が大衆運動を掌握するようになると、大衆運動はもはや、自分の個人的存在の苦悩や重荷から逃れるための避難所ではなくなり、野心家たちが自己実現するための手段となる。

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