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圓井 義典『「現代写真」の系譜/写真家たちの肉声から辿る』

☆mediopos2697  2022.4.5

いまではだれでもスマホがあれば
手軽に写真を撮ることができ
それをすぐにネット上で公開することもできる

デジタルへの急速な移行は写真を
そして写真への見方を随分変えてきているようだ

その意味では
「今日目にすることのできる写真であれば、
それらはすべて「現代写真」と呼んでかまわない」
という見方をすることもできれば
「ある限られた写真だけを「現代写真」と呼ぶ」
という見方をすることもできる

荒木経惟は
「世の中がデジタルに行っちゃって、
わたしたちの世代が思っていた写真という表現が
もう終わっちゃった」とさえ言う

日本を代表する
土門拳・植田正治・東松照明・森山大道・荒木経惟
須田一政・杉本博司・佐藤時啓・森村泰昌・畠山直哉
といった写真家たちは
いったい「写真」を通して
あるいは写真そのもので
なにを表現しようとしてきたのか

もちろんそれらは
「ある限られた写真」としての「現代写真」なのだが
今やそうした「現代写真」も
新たな文脈のなかで受容されるようになっている
それが荒木の言う「もう終わっちゃった」ということでもある

ふりかえってみれば
「現代写真」なるものを知るようになったのは
広告の仕事でカメラマンのところに出入りするようになり
そこで土門拳の写真集を目にしてからのことだ

そしてそれ以来現代写真を代表する写真家の写真集から
さまざまな強い印象を受けるようになったのだが
それ以来写真とはいったい何なのか
その問いをただ繰り返してばかりだったように思い返す
そしてなにかが「わかった」と思ったことは一度もない

おそらくそれでよかった側面もあるのだろうが
その頃のじぶんは
それらの写真の置かれている「歴史観と価値観」に対して
あまりに無知だったということが今になってみればよくわかる

写真にかぎらず美術や文学や音楽そして哲学さえも
あらゆる表現されたものは
表現されたときの「歴史観と価値観」という
文脈のなかでとらえたときに
浮かび上がってくるものがたしかにある
なにもわからず受容しているだけでは
一向にわからないままなのだ

美学者のアーサー・ダントーは
「芸術の終焉」を論じ「今や何でもありの時代、
すなわち「多元主義」の時代になったのだと宣言」したが

それに対し本の美学者・小田部胤久は
「芸術の歴史そのものが終焉した結果なのではなく」
単に「規範的文脈」である
「歴史観・価値観が終焉した結果」なのではないか

そしてむしろそうした状況によって
「歴史観と価値観がその都度多様に再編できることこそが、
これからの芸術の可能性」ではないかと問いかけている

規範的文脈に縛られるのではなく
「そこから新しい文脈を再構築できる」という可能性
「オルタナティブなまなざし」をもてると言ってもいい

けれど「オルタナティブなまなざし」をもつということは
みずからの視点に無自覚であってもいい
ということにはならないだろう

むしろある表現が生まれた文脈を
誤解も含めしっかりと咀嚼することも重要になる
誤読するときにも
自覚的な誤読のほうが積極的な意味を持ち得るからだ
そうした視点があるのとないのとでは
そこにある「自由」の意味が異なってくる

むしろ自分勝手な自由なまなざしは
往々にして固定的なまなざしでしかなくなってしまう
自由なまなざしであるためには
真の意味での「オルタナティブ」が不可欠なのだから

■圓井 義典『「現代写真」の系譜/写真家たちの肉声から辿る』
(光文社新書 光文社 2022/3)

(「はじめに」より)

「今日目にすることのできる写真であれば、それらはすべて「現代写真」と呼んでかまわないようにも思えます。しかしそうではなくて、ある限られた写真だけを「現代写真」と呼ぶのであれば、いったいそれらは何によってそのほかの写真たちと分け隔てられることになるのでしょう。おそらくそれは、「写真のこれまでの歴史へのまなざし」をもっているかどうかということです。
「現代写真」と呼ばれる表現を生み出してきた写真家たちのことを知れば、彼らの姿勢には必ずこのニュアンスが含まれていることに気がつくはずです。」

「荒木経惟(一九四〇年−−)は次のように言います。(・・・)

   写真は終わったかもしれないと思ったね。(・・・・・・)「終わった」っていったのは、世の中がデジタルに行っちゃって、わたしたちの世代が思っていた写真という表現がもう終わっちゃったって意味なんだよ。
   ただ、これは悲しむことじゃないかもしれない。そういう新しい時代が来たということで、写真新世紀が目指したものは、本当はこれかもしれない。
   (荒木経惟「審査会レポート」、『写真新世紀誌 第二十三号』、キャノン、二〇〇八年)

 (・・・)この荒木の発言のうちに、現代写真という姿勢、すなわち「写真のこれまでの歴史へのまなざし」を端的に見て取ることができると思います。
 では、荒木の言う「わたしたちの世代が思っていた写真」とはいったい何なのでしょうか。それが終わったと言うのはいったいどういうことなのでしょう。荒木の世代の写真表現と彼からすると息子や孫のような世代の写真表現とは何が違うのでしょうか。ここに現代写真の過去と現在、そして未来を考える上での重要なヒントがあります。」

(「終章 オルタナティブなまなざし」より)

「(アーサー・ダントー)は一九六四年に発表した「アートワールド」という論考の中で、芸術(実際にそこで主に想定しているのは視覚芸術である美術のことですが)と芸術でないものを区分けするのは、見た目ではなくて、ある芸術理論の雰囲気と芸術の歴史についての知識であり、彼はそれをまとめて「アートワールド」と定義します。
 ようするに私たちが芸術について議論をする時には、自覚するしないにかかわらず、必ずある特定のアートワールドの輪の中にいると言うのです。このアートワールドはゆるい集合体ですから、さまざまな小分類もできます。したがって、私たちが普段何気なく使う、「美術界」や「写真界」、「骨董界」などが小分類としてのそれの典型と言って差し支えないと思います。
 このことは、どういったものがあるのかは分かりませんが(なぜならば、私たちはある特定の目に見えないアートワールドの中にいるからです)、地球上には無数のアートワールドが同時に存在しうることを暗示します。

(・・・)

 やがて彼は『芸術の終焉のあと』(原著一九九七年)を著し、その中で、欧米の美術界で十九世紀以来近年にいたるまで繰り返されてきたのは、「芸術とは何か」という問いに対して、目に見えるスタイルに芸術の本質が内在するという考え、すなわちスタイルと本質を同一視する考え方を前提にして、あるスタイルが生まれ、次ぎにそれを否定して別のスタイルを目指そうとする「スタイル戦争」だったと言います。
(・・・)
 つまり、これまでのスタイル戦争でなされてきたような、ある芸術が重要で、それ以外のものが考察する価値のないものとする判断は、実際のその判断が正しいことが証明できないかぎり、それは単なるその都度の主観的で政治的な選択、別の言い方をすれば、単なる信仰や思い込みによる判断にすぎないことになってしまいます。(・・・)
 こうして欧米の美術界におけるスタイル戦争が、答えの見つからない間違った戦いだったのかもしれないと多くの人が思うようになったことで、スタイルという点では、今や何でもありの時代、すなわち「多元主義」の時代になったのだと宣言します。」

「ダントーの主張は、確かに一見するとまるで今日の状況をピタリと言いあらわしているかのようですが、一方で彼の主張に意を唱える人たちも少なからずいます。日本の美学者、小田部胤久もそのうちの一人です。
 小田部はダントーのそれは今の状況把握という点では間違っていないが、そこから導き出される結論において間違いを犯していると考えます。
 彼は『芸術の逆説』(二〇〇一年)において、ダントン自らが「アートワールド」をある芸術作品が芸術であるためのさまざまな理論によって構成された、ある一定の歴史観と価値観をもつ集合体のことだと定義するのであれば。スタイル戦争のあとに訪れた今日の状況を、歴史的意味を欠いた(芸術の歴史が終焉したあとの)何でもありの多元主義と結論づけることは、そもそも自らのアートワールドの定義と食い違うのではないかと言います。
(・・・)
 今日の美術界の状況は、ダントーがそう見なすように、芸術の歴史そのものが終焉した結果なのではなくて、単に「規範的文脈」、すなわち芸術とはある一定の目標もしくは規範を目指して進歩するものであると見なしてきた、欧米の美術界がよって立ってきた歴史観・価値観が終焉した結果にすぎないのではないかと言います。
 その上で、小田部は欧米の美術界におけるスタイル戦争の末に行き着いた「規範的文脈の不在」と、複数のアートワールドが同時にあるというダントーの現状認識は間違っておらず、むしろこの二つの条件がそろっていることによって、歴史観と価値観がその都度多様に再編できることこそが、これからの芸術の可能性ではないかと考えるのです。
 つまり、欧米の美術界の文脈がほかのアートワールドをリードすると見なされてきた時代が終焉したからこそ、それぞれのアートワールドにおいて、これまでの文脈を前提としながらも、そこから新しい文脈を再構築できる時代になってきたということです。」

「二十一世紀がはじまった記念すべき年に発表された小田部による反−芸術終焉論。それは欧米の美術界よりも、むしろ私たち日本の美術界や写真界がよって立つにふさわしいものに思えます。

(・・・)

 はたしてこの二十一世紀の日本にどのような道筋がふさわしいのかは、私たちそれぞれが問い、自ら答えを見つけていくしかありません。写真、芸術、美術、平面、あるいは現代写真、現代美術。それらの枠組みさえ、はたしてほんとうに必要なのかということも、きちんと問い続けなければいけないもののようにも思えます。

 土門、植田、東松、荒木、須田、中平、杉本、佐藤、森村、畠山、そして大江。本書で取り上げてきた写真家たちが問うたのは、「いかに表現するか」という写真の見た目のスタイルではなくて、その背後にある歴史観と価値観です。
 これまでの歴史観と価値観。作る人であれば、それらを自ら解釈しなおしつつ、自らの作品によって新たな文脈を作り出していくことができるでしょう。見る人であれば、たとえ同一の作品であっても、あえてそれを異なった文脈に置いてみることで、今まで気が柄成った新しい意味をその都度そこに見出すことができるでしょう。
 今までも、そしてこれからも、私たちに必要とされているものは、たとえありふれたものに思えるものであっても、ここにあるものとは別の可能性があることを忘れない「オルタナティブなまなざし」です。これさえあれば、私たちと写真とのつき合い方は、これからも無限の可能性をもって拡がっているはずです。」

◎ 目次
【第一章】土門拳と植田正治
【第二章】東松照明と森山大道
【第三章】荒木経惟と須田一政
【第四章】杉本博司とマルセル・デュシャン
【第五章】佐藤時啓と森村泰昌
【第六章】畠山直哉と九〇年代以降
【終 章】オルタナティブなまなざし

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