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山田晶 『中世哲学講義: 昭和41年―44年度 (第一巻) 』〜「第一章 中世と中世哲学」

☆mediopos-2501  2021.9.21

これまであまり意識したことはなかったのだが
本書の著者「山田晶」は
アウグスティヌスやトマス・アクィナスの
訳者として知られている

哲学を自己流なりにせよ読み始めてずいぶんになるが
ここ数年来ようやくかつて刊行されていた
たとえば中央公論社の「世界の名著」シリーズなどの
古典的名著を面白く読めるようになってきている
(アウグスティヌスとトマス・アクィナスの巻は
まさに山田晶氏による訳と解説によるものである)

逆にいえばこうした日本語化されているものでさえ
これまであまり読めずにいたことになる
つまり基礎的な部分がずいぶん欠けているので
ずいぶんいろんな哲学等の内容を曲解していた
あるいはそれ以前のレベルだったことも多々ありそうだ

さて本書は山田晶が京都大学において
昭和41年から58年まで行った「中世哲学」講義を
全五巻に収録したものの一巻目であり
今後随時刊行されていくことになっている

本書第1巻では昭和41-44年度までの4年間の講義が収載され
「中世哲学とは何か」というテーマで
パウロとヨハネを中心にした
キリスト教と哲学の関係についての考察や
ギリシア哲学や神秘思想
ユダヤ教やパウロなどとの関係から
グノーシス思想の意味に関する考察等が行われている

当初思ったよりもずいぶん読みやすく
まるで実際に講義を受ける新鮮な感覚で読み進められる

今後この講義について何回かにわけて
ご紹介していくことにしたいと考えているが
今回はそのいちばん最初の
昭和41年度(一九六六年)前期講義の
「中世と中世哲学」についての講義からはじめる

「中世哲学」とはいったいどの時代の哲学であり
そこでいう「中世」とは何を意味しているのか

もちろんここでいう「中世」は
世界中のすべての地域にあてはまるものではなく
あくまでも西洋における「中世」であって
それをたとえば日本にそのままあてはめることはできない

ふつう西洋で「中世」といわれる時代は歴史家のあいだでは
歴史家のあいだでさまざまな説があるとはいえ
「四 − 六世紀から十四 − 十六世紀にいたる
千年以上にわたる西欧の時代」にあたるが
「中世哲学史」はこれにはあてはまらない
哲学史における中世はそれよりもずっと前の一世紀
キリスト教とともにはじまる

このことは西欧特有の哲学を学ぶときには
いくら強調しても強調しすぎることはないだろう
その意味では日本で西欧由来の哲学を学ぶというとき
キリスト教をある程度知らないままでは
その前提事項が欠落してしまうことになるが
これはキリスト教について不案内なことの多い
日本人にとっては大きなハードルであるともいえる

中世哲学とは
「キリスト教と哲学との交渉において成立発展した哲学である」
ということになるのだがそうであるとすれば
キリスト教が哲学になんらかの影響を与えているということになり
古代哲学と中世哲学とを区別する
ポイントとなる原理を見ていかなければならなくなる
たとえばグノーシス思想などもそこで重要な視点として
検討していくことも必須となる

今回は最初の「第一章 中世と中世哲学」のみをとりあげたが
随時「キリスト教と哲学」「パウロと哲学」
「ヨハネと哲学」「グノーシス思想」といった問題を
随時不定期でとりあげてみることにしたい

■山田晶 (著), 川添信介 (編)
 『中世哲学講義: 昭和41年―44年度 (第一巻) 』
 (知泉書館 2021/7)

(「第一章 中世と中世哲学」より)

「一 中世哲学とはいうまでもなく中世の哲学である。しかしこの場合「中世」とはいかなる時代をさすのであるか、またこの時代における「哲学」とは何を意味するのであるか。」

「二 中世という語がはじめて用いられたのは一四世紀の人文主義者たちによってである。(・・・)彼らにとって、中世とは輝かしい古代文化の埋没し忘却された野蛮不毛の時代に他ならなかった。中世を「暗黒の時代」とする歴史観はここに端を発する。これに反し十九世紀の初頭にドイツ、フランスを中心におこったロマンチックの思想家たちシュレーゲル、シャトーブリアンはまさにこの中世のうちに彼らの理想の実現された時代を見出した。中世を「光明の時代」とする歴史観はここに端を発する。」

「三 このように「中世」という時代に対する価値評価は様々であるが、その場合彼らが問題としているのが西洋の中世である、という点については一致する。」

「四 この中世の開始の時期については歴史家の間に諸説がある。すなわちコンスタンティヌスがリキニウスに対して勝利する三二四年、民族移動の始まる三七五年、東西ローマ帝国が決定的に分裂する三九五年、西ローマ帝国の滅亡する四七六年、教皇大グレゴリウスの存在した六〇〇年代等が中世の発端とされる。要するに四世紀から七世紀までの間に、古代とは全く異なった政治理念が西欧世界を支配し始めるのであって、この転換の時期をいつに置くかに関して諸家の意見は異なるのである。」

「五 これに対し中世の終末はあまり明確に限ることができない。一つの政治理念によって統一されていいた西欧的世界は長い時代をへて次第に分裂の方向を辿る。ルネサンス運動の開始される十四世紀をもってすでに中世の終末とする人もあり、またコロンブスがアメリカを発見した一四九二年、ルターが宗教改革を提唱した一五一七年をそれとする人もいる。要するに四−六世紀から十四−十六世紀にいたる千年以上にわたる西欧の時代が普通歴史でいわれる「中世」なのである。」

「六 ところが「中世哲学史」が取り扱う時代は、これよりもさかのぼるのが常である。(・・・)「中世哲学」における「中世」は、普通の歴史的区分における中世のように四世紀以降に始まるのではなくて、むしろ一世紀に、すなわち、イエス・キリストの歴史における出現とともに始まるとされるのである。」

「七 しかるに普通の歴史においては、この一−四世紀は「中世」ではなくむしろ「古代」に属する。哲学史においても、この時代の哲学のある部分は古代哲学史において取り扱われている。」

「八 具体的にいうと、セネカ、エピクテトスがストアの哲学者として古代哲学史の中に登場するのは中世哲学史では使徒の時代にあたる。アンモニオス・サッカス、プロティノス、ポルピュリオス等が新プラトン学派として古代哲学史で取り扱われる時代は、中世哲学史ではユスティノス、テルトゥリアヌス、クレメンス等ごごとき初代教父の時代にあたる。またアテナイのプルタルコス、プロクロス等がアテナイのプラトン派として古代哲学史で問題とされる時代は、中世哲学史においてニッサのグレゴリウス、アウグスティヌスの活躍する時代にあたるのである。」

「九 このように古代哲学史と中世哲学史とにおいて重複する時代が別個に取り扱われるということは、哲学史における「古代」と「中世」との区分は単に時間的な前後関係にもとづくものではなく、また何らかの政治的な時間によるものでもなく、何か別の原理にもとづくものであることを示している。すなわち「古代哲学史」と「中世哲学史」との区別は、前者が「古代」という先行する時代において成立した哲学の歴史を取り扱い、後者がそれにひきつづく「中世」という時代における哲学を問題とするということにあるのではなく、何か原理的に異なる視点のもとに思想の歴史がみられることにもとづいて生じたものであることが知られる。ではその原理的に異なる視点とは何であろうか。」

「一〇 それがキリスト教であるということは何人にも容易に気づかれうるであろう。」

「一一 ここからしてひとは、中世哲学とは「キリスト教と哲学との交渉において成立発展した哲学である」という理解に到達する。」

「一二 しかしこれについても、少し深く考えると色々の問題がわいてくる。第一に、キリスト教と哲学との関係が問題である。哲学の本質が世界の理性的普遍的認識を目指す「学」である点に存するとするならば、理性をこえた啓示の無条件な「信仰」を本質とするキリスト教がどうして哲学に影響を与えることができたであろうか。哲学する者はキリスト教徒であろうと非キリスト教徒であろうと、彼らが研究する「哲学」そのものには何の変わりもないはずではなかろうか。(・・・)このように考えてくるならば、キリスト教が学としての哲学に影響を与えることがありえず、またもしその影響のもとに何か新しい知識の体系が成立したとしても。それは神学であって哲学ではないという結論になる。要するには中世には神学はあっても哲学はなかった、従って「中世哲学」は形容矛盾であるということになる。」

「一三 他方、もしキリスト教が哲学になんらかの影響を与えうるとするならば、その影響は単にキリスト信者ないしそれに何らかの意味で関心と同情をもつ者にのみ局限されないことになるであろう。もしそうだとすればキリスト教のすでに相当に普及していた二世紀に生きたエピクテトス、またアレクサンドリアにオリゲネスと時をおなじうして生きたプロティノスにも何らかの意味でのキリスト教の影響はみとめられないであろうか。もしもみとめられるとすれば、キリスト出現後の西欧世界に生きたすべての思想家は自らそれを意識するとしないとにかかわらず、またそれを好むと好まないとにかかわらず、すべてキリスト教の何らかの影響のもとにあるという点で共通し、従って古代哲学はキリストの出現とともに終るとはいえないであろうか。」

「一四 このように考えてくると、古代哲学と中世哲学とを区別する原理はそう簡単なものでないことが分かる。」

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