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平尾 昌宏『人生はゲームなのだろうか? ――〈答えのなさそうな問題〉に答える哲学』

☆mediopos2880  2022.10.6

人生はゲームなのか

本書の結論は
「人生はゲームじゃない」
という予想通りの平凡なものなのだが

その結論に達することが本書の意図ではなく
重要なのはその「根拠」と「前提」を問い
そのプロセスをたどっていくことなのだという

本書は「最初の新書」という位置づけをもった
「ちくまプリマー新書」だが
人生とゲームを問う本書の射程は思いのほか深く
その問いのなかで「根拠」と「前提」に
光をあてていきながらさらなる問いに向かっていく

まず問われるのは
「ゲームとは何か」ということである

それを問うなかで
ゲームには「ルールやマニュアル」
そして「目的、終わり」という必須条件があること
さらには
「プレイヤーが自発的に参加すること」
という条件が見出されていく

そんな本書の内容のなかで
もっとも興味をひかれたのが
本文の流れとは少し離れた視点での「コラム」だった

「コラム1 内部と外部の反転」では
なぜ私たちはゲームをするのかということについて
「ゲームの外側」を現実の人生だとみれば
「ゲームの内部」はそれ自体が
「人生の外部」となることが示唆されている

人生には出口も逃げ道もないがゆえに
ゲームを通じて人生から逃避するために
「人生の外部」に行こうとしているのかもしれない
ということである

この逃避ということはおそらく
必ずしも否定的なことではなく
人生の内部にあらたなものを加えるための
契機ともなるのではないかと思われる
とはいえその「人生の外部」としての「ゲームの内部」が
過剰なVRのようになってしまう危険性について
自覚しておくことが求められるのはいうまでもない

「コラム2 ルールの意味」では
「この世の中になんでルールみたいなものがあるのか」
「我々はなぜわざわざゲームなんてものを作るのか」
という問いに対しての答えとして
ルールがまったくないとしたら
「何をしても意味がない」ことになることが示唆されている

私たちは「まったくの無意味さ」には
耐えられないがゆえにルールを作り
ゲームを作っているのかもしれないのだが
人生はゲームではないとしたら
私たちはルールがない(かもしれない)人生に
向き合っていかなければならなくなる

このことは「コラム3 唯一のゲーム?」にも
関わってくるのだが
「宗教はゲームだけど、経済は逆にゲームではな」いという

なぜ宗教がゲームなのかといえば
私たちはルールのない無意味な人生に
耐えることができないから
「ルールやマニュアル」「目的、終わり」を教義とした
宗教を求めているということである

少しばかりコワイ気持ちになったのは
「経済は逆にゲームではな」いとすれば
そこにはほんらい
「ルールやマニュアル」「目的、終わり」はないことだ

なぜ「経済における友愛」(シュタイナー)が重要なのかは
そんな自由において暴走しがちな経済のなかに
精神における自由の衝動からくるであろう「友愛」を
導入する必要があるということでもあったのだろう

「人生はゲームなのか」
その問いはそのように
(答えはあるけれど〈答えのなさそうな問題〉ではなく)
ほんとうのところ「答え」はないのだろう
あらたな問いを生み出してくれる重要な問いでもあるようだ

■平尾 昌宏
 『人生はゲームなのだろうか? ――〈答えのなさそうな問題〉に答える哲学』
 (ちくまプリマー新書 筑摩書房 2022/2)

(「まえがき」より)

「テーマは、「人生はゲームだと言えるか」。だから、ポイントは「人生」と「ゲーム」と二つあるわけですけど、どっちかと言えば人生に重心がある。ゲームの方は、人生について考えるときのモデルのようなもの。そして、最終的に欲しい答えは、人生をどう考えたらいいか。」

(「あとがき」より)

「結論というほどのものはないです。結論だけ取り出すとすると、「やっぱり人生はゲームじゃない」っていうことになるだろうけれど、「これが結論です!」と言ったら、みんな「うん、それは知ってた!」って言うんじゃないかと思うわけです。
 だから? そう、だから、大事なのは、その根拠というか前提というか、それがあって、この結論がある、という流れそのもの。
 で、この本ではまず「人生はゲームか」問題を考えたわけですが、そのためには、「そもそもゲームとは何か」が問題になるっていうんで、ゲームの中身を考えた。で、大雑把に言えば「ルールやマニュアル」と「目的、終わり」っていう二つの必須条件が見つかった。これを踏まえて「人生はゲームか」に答えを出しました。
 で、その結論を辞退は平凡なものだったかもしれないけれど、こうしたプロセスを通ることで、「人生はゲームじゃない」っていうことがはっきりと分かりました。逆に言うと、「うん、そんなのはじめから知ってた」って言う人は、実は、本当の意味で「知ってた」ことにならないのがわかります。逆に、確実に分かったことがあれば。その足りないところを補ったり、場合によっては修正したりもできるのでしたね。
 そしてはっきり分かったことがあれば、それを土台にして、次には新しいことを考えることもできるのでした。」

(「コラム1 内部と外部の反転」より)

「「人生出口なし」「人生には逃げ道はない」。その通りです。正しい。だけど、それだけじゃキツいというか、息苦しい。
 こう考えると、たぶん我々がゲームをやるのは、「外」を作りたいからじゃないかっていう気がします。ゲームを作る。そうすると「ゲームの内部」と「ゲームの外部」が分けられるわけです。そして、「ゲームの外側」を現実の人生だと見て、「ゲームの内部」は人生じゃないと考えれば、「ゲームの内部」は、人生の方から見れば、実はそれ自体が「人生の外部」であることになります。
 そうこうして我々は、逃避のためにゲームをやるのではないでしょうか。よく言いませんかね、テスト前なんかにやらなくてもいいことがやりたくなるって。現実逃避というヤツです。私なんかも、あれこれ用事はあるのに、あるいは、あれこれとやらなければならない用事があるからこそ、それに飽き足りイヤになったりやりたくなかったりすると、ついついゲームをやっていることがあります。それは、一時的に、本当はあり得ない「人生の外部」に行こうとしているのかもしれません。」

(「コラム2 ルールの意味」より)

「この章(第12章)の途中で分かったことがもう一つありましたね。「この世の中になんでルールみたいなものがあるのか、あるいは、我々はなぜわざわざゲームなんてものを作るのか」の答えです。ルールっていうのは要するに制限のことで、それは我々の自由を奪うものなのだから、ない方がいいように思える。なのに我々は、わざわざそういう制限を作ったりしている。考えてみれば不思議。
 だけど、もしそういうルールがまったくないのだとすれば、人生は本当に不確定な、不定形なものになってしまいます。何をしてもよい、っていうことは、何をしても意味がないということと同じなのです。

vふぁjづじおありうじゃんkじゃいえ

いきなりものすごい誤植だと思った人もいるかもしれませんけど、そうじゃありません。何も考えずにまったく自由にキーボードを打った結果がこれです。意味が分かります?「わかるわけない」って? そうですよね。私は心を込めて打ったんだけど(ふふ)、何の規則(文法)にも従わず打っただけだからね。そう、規則がないよ意味が生まれないのです。
 我々は自由を奪われて縛られるのもイヤだけど、まったくの無意味さにも耐えられない……。
 そういう困った事態から抜け出す、あるいは、そういうそら恐ろしい真実から目をそらすために、我々はルールを作り、ゲームを作っているのかもしれない。でも、人生はそれでもゲームにし切れない……。」

(「コラム3 唯一のゲーム?」より)

「宗教と経済。この二つは、もちろん全然違う種類のものでした。みなさんの予想と違ったかもしれませんが、宗教はゲームだけど、経済は逆にゲームではなかった。ただ、ちょっと共通するところがあります。そもそもお金と神様が似ているってこともあるけど、それと関連して、神様やお金が「唯一の価値」だと言いたがるところです。
 だから、宗教の場合だったら、信者たちは布教に熱心で「他の宗教は間違ってる」と言いたがるし、マネーゲーム論者も「お金が全て、お金があれば何でも、人の心も買える」とか「このゲームに参加しない者はその時点で負け組」的なことを言う。そして、自称「勝ち組」の人たちは、「できるだけルールは少ない方がいい、自由が大事だ」などと言いながら、実は、さらに自分たちが勝てるような都合のよいルールや仕組みを作り、他の人たちを従わせようとする。
 いずれにしても、一見すると純粋そうだけど、単純で、場合によっては歪んだ考え、こういうのは他の人にとって意見の押しつけになるばかりではなくて、自分自身をも圧迫することがあります。
 息苦しい、生きづらいのは、何か他のものに襲われるから、とは限りません。自分が(自分の偏った考えが)自分自身を苦しくしていることも多いのです。」

(「第14章 宗教はゲームか?」より)

「宗教は、ゲームとして不完全であった人生を、安全安心な究極のゲームにしてくれるものだったのです。」

「そもそも、身も蓋もない話をすれば、宗教というのは価値観の問題です。「我々の価値観はこうだ」っていうのが決まっているのが宗教です。だから宗教は、ルールもびしっと遠慮なく決めちゃう。」

「ゲームの場合、決められたルールに従う。そうすると、そのゲームに参加することができて、楽しい。宗教の場合は、決められたルール(戒律)に従うと、信者だと認められる。それで安心できる。」

(「第15章 マネーゲームはゲームか?」より)

「お金は結果、つまり外在的な目的なのです。マネーゲームは、本物のゲームとは違って、それをすること自体に意味があるのではなく、それをやった結果が大事になる。つまり? そう、マネーゲームは遊びとしてのゲームではなく。仕事なのです。」

【目次】

まえがき
この本の使い方

パートI 人生はゲームか?
第1章 「人生はゲームか?」問題編
第2章 答えの出し方
第3章 ゲームとは何か
第4章 「人生はゲームか?」解決編
・練習問題1 受験・掃除・戦争はゲームか?

パートII 改めてゲームとはどんなものか?
第5章 私には夢がある! ―ゲームと目的
第6章 料理はゲームか?―目的とルールの連動
第7章 戦争はゲームか?―ゲームと楽しさ
第8章 人生は遊びではない?―遊びと仕事と
・練習問題2 「受験・掃除はゲームか?」再考

パートIII さて、人生とはどんなものか?
第9章 「やっぱり人生はゲームだ」論―人生の成分表
第10章 「人生にも死という終わりがある」論―人生の不確かさ
第11章 「人生はリセットできない」論―人生出口なし
・コラム1 内部と外部の反転
第12章 「そんなこと誰が決めた?」論―人生のお約束
・コラム2 ルールの意味
第13章 「誰が産んでくれと言った?」論―人生は開いている
・練習問題3 人生からの離脱

パートIV ゲームを作る、ゲームを超える
第14章 宗教はゲームか?
第15章 マネーゲームはゲームか?
・コラム3 唯一のゲーム?
第16章 教育はゲームか?
・コラム4「自分ゲーム」を作る
第17章 恋愛はゲームか?
・コラム5 始めに不一致ありき

あとがき
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