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石井ゆかり「星占い的思考㊷腕を持つ頭」 (『群像』2023年9月号)

☆mediopos3189  2023.8.11

死刑執行という職業がある
日本には死刑がまだ存在しているので
たしかにその職業は存在しているはずだ
そしておそらくその執行人は匿名である

「穢れ」とみなされている職業は
現代でもおそらく存在しているが
その筆頭にあるのは
死刑執行ではないかと思われる
そしてそれを匿名としないわけにはいかない

彼らは決して加害者ではない
役割を引き受けざるをえない
犠牲者であるともいえる

かつてフランス革命期に
ムッシュー・ド・パリと呼ばれた
サンソン家の当主達がいた
彼らは「死刑執行人として恐れられ、
穢れた存在として差別された」

彼ら当主は手記を残しており
3代目サンソンは息子に
「腕は、頭がすることに干渉してはならない」
と教えたという

人を傷つけたり殺したりする際の
軍人や政治家のそうした「心得」は
たとえそれが「加害」につながるときでさえ
「役割」としてなされるためのものだ

しかし軍人や政治家は匿名ではないが
死刑執行人のようなひとは
その「穢れ」のために匿名を余儀なくされる
しかもその執行が
みずからの意志でなされるのではない

そうした「穢れ」を担う存在もまた
ある種の「犠牲者」であるともいえるのだ

「穢れ」を担うことも
「匿名」であることも必要なく
軍人や政治家のような存在でもなく
「役割」を引き受ける存在はどうだろう

とくに昨今のワクチン薬害を巡る問題で
結果的に甚大な加害を加えることになった
主要な推進者はいうまでもないが
多かれ少なかれ「役割」を担った人たちには
はたして「犠牲者」たる資格はあるだろうか

さらに「役割」を与えられていないにもかかわらず
積極的にそれを推進した人たちはどうだろう

まだ戦争は続いている
「戦後」がどうなるか
目をしっかりと見ひらいておかなければならない

■石井ゆかり「星占い的思考㊷腕を持つ頭」
 (『群像』2023年9月号)

〝「ですが、もし、ある人間があまりにも感受性がありすぎて、社会の外科医に課された激務に耐えられないとしたら?・・・・・・ 刑罰は犯罪人で終わりますが、車折の刑、絞首刑、断首刑を執行する善行の人もまた犠牲者なのだということを、人々が考えてくれたことがあったでしょうか? この犠牲者には、自分が与える死のすべての結果が降りかかるのです」〟
(オノレ・ド・バルザック著 安達正勝訳 『サンソン回想録』国書刊行会)

 フランス革命期、ギロチンはルイ16世やマリー・アントワネット、ロベスピエールなどの著名人を筆頭に、数千人の血を吸った。無論これは比喩的な表現で、ギロチンは単なる道具でしかなく、そこには道具を動かした人間がいる。現代の日本でも死刑はあるが、死刑を執行する人々のことを、多くの日本人は匿名的な役割としてイメージしている。しかしもし彼らが名前や顔、住所を公開し、「著名人」であったら、どうだろう。「一般の人たち」は、彼らをどのように扱うだろうか。

 ムッシュー・ド・パリと呼ばれたサンソン家の当主達は、そのような存在だった。彼らは死刑執行人として恐れられ、穢れた存在として差別された。しかし一方で徳を尊び、貧しい者を助け、宗教的な罪を犯し続けることの葛藤を生きた。サンソン家4台目の当主シャルル——アンリ・サンソンは、自身の経験や思索を綴った手記を残した。他の当主達も手紙や日記などの資料を多く残しており、5代目サンソンはそれらを作家バルザックに託した。

 誰が加害者で誰が犠牲者なのか。複雑に入り組んだ人間社会では、それが判然としない。一人一人のほとんど無意識による小さな力が、大きくまとまって支配的な力を生み出し、それを背景に決定的に大きなことが行われる。その典型が、死刑執行である。「刑を執行する善行の人」を犠牲者としているのは、現代では一般市民である。だが、それを日常的に自覚している人々は今なお、わずかでしかない。学校や職場で起こるいじめやハラスメントは、多くの傍観者に支えられていると聞く。傍観者のうち数人が異論を唱えるだけでも、いじめはかなりの割合で阻止されるという。世の理不尽や残虐、残酷を遠くから傍観し、無言の内に目を伏せて受容する人々いんは、一切の悪意はない。でも、そうした悪意なき傍観と容認の小さな流れが集まってやがて大河になった先で、執行する犠牲者と、執行を受ける犠牲者とが生まれる。その大きすぎる結果を見てショックを受ける人々もまた、罪を押しつけられた犠牲者と言えそうだ。世の中は犠牲者であふれている。(・・・)確かに広場や川原に人を集めて打ち首や縛り首を見世物にすることはなくなった。しかし、丁寧に隠されてはいても、日本では絞首刑が行われている。「斬首刑を執行する善行の人もまた犠牲者なのだということを、人々が考えてくれたことがあったでしょうか?」この問いは、現代社会においても死んではいない。そして死刑執行に限らず、社会の犠牲者としての仕事人、執行者は、無数に存在するのだ。」

「3代目サンソンは息子に、「腕は、頭がすることに干渉してはならない」と教えた。文民統制、軍人の心得である。しかし「市民」はどうだろう。もとい「市民」という表現は日本ではあまり一般的ではない。ふつうのひとびと、市井の人々、大衆、民間人、生活者等々、様座名言い方があるが、犠牲者であり加害者であり続ける無数の人間としてのアイデンティティを、どのように持つことができるのだろう。私たちは腕あるあると同時に、頭でもありうるはずなのだ。」

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