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エドワード・エディンジャー『ユング心理学と錬金術/個性化の錬金術的イメージを探る』/C・G・ユング『結合の神秘』

☆mediopos3244  2023.10.5

エドワード・エディンジャーの
ユングに関する著作については
mediopos-2306(2021.3.10)
『ユングの『アイオーン』を読む/
          時代精神と自己の探究』
mediopos2600  2021.12.29
『キリスト元型/ユングが見たイエスの生涯』
でとりあげているが
今回はそれに続いて訳された
『ユング心理学と錬金術/
 個性化の錬金術的イメージを探る』について

主要テーマは
主にユングの最終著作『結合の神秘』に関連した
錬金術の最終段階である「結合」
つまり「錬金術における心的対立物の
分離と統合を探求すること」である

人間が意識的な自我を存在させるためには
まず自分を環境とは異なったものとして
「私はこれである、それではない」というように
「自分に対抗してくるものを押し離し、
自分が存在するための場所を作」らなければならない

心的エネルギーの流れはそのように
対立しているものを分極化することによって生じるが
意識が生じるためには
ただ惹かれたり反発したりというだけではなく
「対立物を同時に体験し、
その体験を受け入れる必要がある」
そしてその「受け入れの程度が増すほど、
意識も大きく」なるということができる

しかし「私はそれではない」
ということによって
「影」がつくりだされてゆき
「その切り離された影は、内的な現実として、
もう一度向き合わねばならないもの」となる

善と悪の「悪」というのもその重要なひとつ
自我の成熟とともに
自分の対立物であるその「悪」を
みずからのなかに認め担うことができると
そこに「結合」が生み出されることになる

「敗北」「失敗」や「罪悪感」という体験を
みずからの全体性の一部として担うことも
そうした「結合」へと導く重要な「通路」となる

ユングはそうした自我の成熟を
阻害するものについて述べている

「主体的意識が集合的意識の理念や意見を好み、
それらと同一化してしまうと、
集合的無意識の内容は抑圧される」
「いわば、集合的意識の意見と傾向とに
飲み込まれてしまうようなもので、その結果、
大衆的な人間となり、哀れな何々「主義」の
犠牲者になりかねない」

自我が統合されるのは
「それが対立物の一方に同一化しないときだけ、
それらのバランスを保つやり方を心得て」
「両方を同時に意識したまま保てるときだけ」だという

つまり対立するものを同時に体験し
それを受け入れることで意識的自我は大きくなり
魂の錬金術による「個性化」が図られる

その「個性化」は社会全体においても
重要な課題となり得る視点だが
「世界を救済し変容させるもっとも効果的な方法は、
何よりもなず、世界の小さな断片、
すなわち自分自身から変容させるということ」である

ひとを社会を変えようとするあまり
自分の魂の「結合」をなおざりにしたとき
ひとも社会も自分の「対立物」でしかなくなってしまう

まずみずからの「個性化」を図りながら
そのうえでひとや社会を自分から「分離」し
そこから「統合」が探求される必要があるだろう

ひとや社会が「分離」できないということは
集合的意識と同一化してしまい
「哀れな何々「主義」の犠牲者になりかねない」
ということにもなる

さて世界はそうした
「結合」に向かっているのだろうか
「外」に「悪」を見出すばかりで
みずからの「悪」を受け入れないかぎり
そうした「結合」を図ることはできないだろうが

地球は地大いなる「分離」という幻想の場だそうだが
現代はそうしたなかで
「錬金術」の壮大な実験場ともなっているのかもしれない

■エドワード・エディンジャー(岸本寛史・山愛美訳)
 『ユング心理学と錬金術/個性化の錬金術的イメージを探る』
 (青土社 2023/9)
■C・G・ユング(池田紘一訳)『結合の神秘 I』(人文書院 1995/8)
■C・G・ユング(池田紘一訳)『結合の神秘 II』(人文書院 2000/5)

(エドワード・エディンジャー『ユング心理学と錬金術』〜「ユングの『結合の神秘』へのイントロダクション)より)

「『結合の神秘』の副題は、「錬金術における心的対立物の分離と統合を探求すること」です。なぜ錬金術なのは、と尋ねる人もいるでしょう。現代人の心にそれがどんな重要性を持つのか、と。その答えは、錬金術が無意識的な心の深みを独特の仕方で垣間見せてくれて、しかも、他の象徴体系で同じように見せてくれるものはないからです。」

「対立物は、心の最も基本的な解剖学を構成するものです。リビドーの流れ、心的エネルギーの流れは、対立物の分極化によって生じます。(・・・)
 とはいえ、物事に惹かれたり反発したりという体験だけでは、意識を構成するとはいえません。意識が生じるためには、対立物を同時に体験し、その体験を受け入れる必要があるのです。受け入れの程度が増すほど、意識も大きくなります。」

「人間の意識的な自我が存在するための空間を作り出すために、世界はばらばらに裂かれ、対立物も分離させられねばなりません。これが非常に美しく表現されているのが古代エジプトの神話です。神話が語るところによると、天の女神ヌートと知の男神ゲブとは、最初は合一した状態、永遠の同棲状態にありましや。ところが、シューがその間に入り、男神と女神とを押し分けた。天を地から分かち、世界が存在することのできる、ある種の空間を作り出したのです。
 このイメージは、幼い自我が発生する時に生じることと非常によく似ています。幼い自我は、自分に対抗してくるものを押し離し、自分が存在するための場所を作ります。自分のことを、環境とは異なるものとして明確にしなければなりません。
 幼い自我は自らをなんらかの明確なものとして確立することを余儀なくされるので、「私はこれである、それではない」と言わねばなりません。「・・・ではない」と言えることは、自我の発達初期の決定的な特徴です。しかし、この初期の作業の結果、影が創り出されます。私はこれでない、と宣言したものすべてが、影になります。そして遅かれ早かれ心的な発達が生じてくる時には、その切り離された影は、内的な現実として、もう一度向き合わねばならないものとなります。その時に直面するのが対立物の問題で、これは前に切り捨てられたものなのです。
 もっとも重大で恐ろしい対立物は何かと聞かれたら、私なら善と悪のペアだと答えます。自我が生き残ることはまさに、自我がこの問題とどのように関わっているかに拠ります。」

「自我が成熟するにつれ、状況は徐々に変化し、個人が、悪の担い手であるという課題を引き受けることができるようになります。そうなると、悪をどこか他のところに位置づけることはそれほど重要ではなくなります。自分の悪を認めることができるようになると、自分が対立物の担い手となり、そうするうちに結合が生み出されることになるのです。」

「ユングは(・・・)語っています。

   主体的意識が集合的意識の理念や意見を好み、それらと同一化してしまうと、集合的無意識の内容は抑圧される。・・・そして、集合的意識が強く押し掛かるほど、自我はその実際的な重要性を失う。いわば、集合的意識の意見と傾向とに飲み込まれてしまうようなもので、その結果、大衆的な人間となり、哀れな何々「主義」の犠牲者になりかねない。自我がその統合性を保てるのはそれが対立物の一方に同一化しないときだけ、それらのバランスを保つやり方を心得ているときだけである。これが可能となるのは、両方を同時に意識したまま保てるときだけである。

 スポーツと競技の心理学について少し触れておきたいと思います。というのも、それが私たちのテーマと深く関連していると思うからです。
(・・・)
 競技はもともと聖なるもの、神に捧げられたもので、元型的なドラマを演じたものはすべて聖なるものでした。スポーツの試合も、まさに結合のドラマを演じるものです。競技者が戦うのはそれぞれが勝利を得、敗北を避けるためです。それでも、勝つものがいれば負けるものもいる。しかし競技という器の中では、対立物は一つになります。そして多くの試合の中で、プレイヤーたちは勝利と敗北の両方を同化することを学び、そうして内的な統合が促されるのです。
 心理学的には、常に勝者であることがよくないのははっきりしていて、それは対立物を十全に体験できないからです。そのため表面的なところに留まってしまいます。敗北は無意識への通路です。深みのある人物は皆敗北を知っています。それは対立物の体験の必要な一部なのです。」

「失敗と罪悪感は必要な体験です。というのも、いずれも全体性の一部だからです。対立物が一つになることを体験するためには、失敗と罪悪感とを体験する必要があります。」

「錬金術の象徴体系によると、結合はプロセスのゴールです。それは、錬金術的な工程によって創り出される実体、実物、実質で、対立物を一つにするのに成功してようやくできあがるものです。神秘的、超越的なもので、多くの象徴歴名イメージによって表現されています。
(・・・)
 結合とそれが創り出すプロセスとは、意識の創造を再現していると思います。意識とは耐久性のある心的実質といっていいと思いますが、これは対立物が一つになることによって創られるのです。
(・・・)
 少し問題を複雑にすることになりますが、意識が統合の原因であり結果でもあるということを付け加えねばなりません。こんなふうに矛盾した言い方をしなければならないのは、それが心の二つの中心、自我と自己との産物だからです。一方で自我の努力は結合を生みますが、もう一方で運命が決定を下し、自我はその決定の犠牲者だとも言える。ユングが言うように「(自我の)頭上に君臨し、(自我の)心に逆らってなされる」決定の犠牲者なのです。
(・・・)
 結合に対して私が述べた用語の一つに、哲学者の息子という用語がありました。(・・・)哲学者の息子という用語で意図されているのは、結合が錬金術師の息子であり、これは実験室における錬金術師の努力によって作り出されるという事実を反映するものでしょう。
 これは心理学的にはきわめて重要です。というのは、意識の創造において自我の果たす役割が決定的に重要であるということに触れているからです。たとえば、あるテクスト(『転移の心理学』)では、哲学者の石が自分のことをこう言っています。

  私が私の息子を知ったのはその時であった。
  そして息子と一つになった。
  ・・・
  それゆえ私の息子は私の父でもある。
  ・・・〔そして〕
  私は私に命を与えてくれた母を産んだ。

 この矛盾する叙述が意味するのは、無意識が自我という「息子」を生み出したにもかかわらず、無意識を孕ませるのは自我の努力だということです。それゆえ、自我は、無意識的自己が生まれ変わった形で再生するための親になるということです。」

「世界は対立物の争いによって引き裂かれます。ユングが「哀れな何々主義」と呼んだ争いによって。エマーソンはこう言っています。「誰もが社会の改善に乗り出すが、誰も改善していない」。そしてユングは「未発見の自己」という論文の中で次のように述べています。

  個人が精神(スピリット)の中で真に生まれ変わらなければ、社会も生まれ変わることはない。社会は、救いをひつようとする個人の総和だからである。

 同じエッセイの後の方で、もう一つ別の重要な意見を述べています。

  分割や分裂はすべて心の中の対立物の分裂という意識が、世界規模で生じさえすれば、どこから始めたらいいか分かるだろうに。
  しかしながら、手の届くところにあるのは、自分で、同じような心を持った他人に影響を及ぼす機会を持つか作り出すような一人一人の変化である。説得とか説教のことを言っているのではない————むしろ、私が言っているのは、自分自身の行動に洞察を持ち、無意識と接触がある人なら誰でも、意図せずして周囲に影響を及ぼすという、よく知られた事実のことである。

 自分自身の行動に洞察を持っているこれらの個人が、多かれ少なかれ、結合を体験した人です。彼らは対立物の担い手です。社会が救われるとすれば、それはそのような個人の加算的な効果によってなされるだろうと私は思います。そして、充分な数の個人が全体性の意識を担えたら、世界そのものも全体になるでしょう。
(・・・)
 ユング派の神話によると、個人の価値の最高の測定基準は、その人が対立物を担える意識を持っているかどうかということになるでしょう。そのような人々は自らの影を他人に投影することにとって心的な環境を汚染することはなく、むしろ自分自身が暗黒という重荷を背負うことになるでしょう。
 ユングは『結合の神秘』のパラグラフ五一一で見事にそのことを述べていますので、最後にそれを引用して終わりたいと思います。ユングはこう言っています。

  投影された葛藤が癒やされるためには、個々人の心の中、葛藤が始まった無意識の中に戻されなければならない。自分と最後の晩餐を祝い、自分の肉を食べ、自分の血を飲まねばならない。これは、自らの中に他者の存在を認め、これを受け入れるということである・・・。これはおそらく自分の十字架を自分で担えというキリストの教えの意味であろう。そして、自分に耐えなければならないとしたら、他者を引き裂くことなどどうしたらできるというのだろうか。」

「ユングの信念は、世界を救済し変容させるもっとも効果的な方法は、何よりもなず、世界の小さな断片、すなわち自分自身から変容させるということです。そして、それが徹底的になされるまでは、外の世界の変容を企てる資格はない、というのが私の考えです————これはもちろん、自分の仕事の料理期が政治でない人たちの話です。」

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