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谷川嘉浩・朱喜哲・杉谷和哉『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる―答えを急がず立ち止まる力』

☆mediopos-3103  2023.5.17

「ネガティヴ・ケイパビリティ」は
詩人のジョン・キーツの示唆した言葉で
「事実や理由に決して拙速に手を伸ばさず、
不確実さ、謎、疑いの中にいることができるとき」に
見出せる能力のこと

現代はその逆に
なんにでも即断即決し
答えを急いで出すことが求められ
わかりやすい答えを与えてくれるひとが
注目されやすくなっているけれど

だからこそ「ネガティヴ・ケイパビリティ」が
なにより求められるようになっているのだろう

「パーンと即座に短く断言する一問一答は、
クールで格好よく見え」
たとえそれがほんとうは
不確実でわからないものであったとしても
それに飛びついて
「みんなが同じ方へとずんずん歩いていく」
ことにもなってしまう

とくにネット検索やAIによって
まるでそこに「答え」があるかのように錯覚され
メディア等で与えられる情報も
問いなおすことなく受容されがちだが

「ネガティヴ・ケイパビリティ」は
「わからなさ」を抱えながら
「答え」の見出せないまま
「問い」つづけることが求められる

とはいえ
「わからなさ」を抱えて生きることは
与えられた「答え」を生きることにくらべ
多くのひとにとってはむずかしい

むずかしいけれど
一問一答即断のような生き方は
ひとをどんどん袋小路へと追いやってしまうから
「答え」を強要されない生き方のほうが
じつのところ生きやすいはずなのではないだろうか

しかしこの対話のなかで
とくに考えさせられたのは
第3章の「「アイヒマンにならないように自分の頭で考えよう」
という言葉に乗れない理由」である

ここで示唆されているのは
インテンションエコノミー
インテンション民主主義は
「顧客はちゃんと考えて選んでください」
「自分で意図を形成しよう」
「自分で調べて考えて選択」しよう
ということがもっている「答え」の出し方の問題で
それは「現実的ではない」(杉谷和哉)という

じぶんでちゃんと考える必要があるというとき
それはすぐに答えをだす「一問一答」ではなく
「ネガティヴ・ケイパビリティ」的ではあるのだが
そこでもまた明確な「意図」が求められることに対する
大きな負荷がかかるというのはたしかである

ほんとうは可能なすべてのひとが
じぶんなりに問いを持ち
それについて調べ
それにもとづいて考えることができるのが理想だが
たしかにそれは「現実的ではない」かもしれない

けれどそれとは対極にあるような
権威や教育や常識によって
自動化された「一問一答」を求める方向は
まさに私たちのまわりにある「現実」にほかならない

ではどうすればいいのか
その問いについても
「答えを急がず立ち止まる」
ということがいまは必要なのだろう

■谷川嘉浩・朱喜哲・杉谷和哉
 『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる―答えを急がず立ち止まる力』
 (さくら舎 2023/2)

(「はじめに」より)

「ジョン・キーツによると、ネガティヴ・ケイパビリティとは、「事実や理由に決して拙速に手を伸ばさず、不確実さ、謎、疑いの中にいることができるとき」に見出せる能力です。」

「リスクや不確実性に満ちた社会を渡り歩くために、大半の人は余計な時間やコストをかけることを避け、身軽で即断即決のスッキリした生き方、悩みや疑いなどないスピード感ある生き方を追い求めています。そういう流れに抗して、私たちはこの本で「ネガティヴ・ケイパビリティ」の価値を訴えようとしています。
(・・・)
 本書の試みは、濁流の中に「よどみ」を作るような仕事だと言えるかもしれません。
(・・・)
 激しすぎる流れの中で、魚やその他の水生生物は暮らしを営むことができません。魚などが暮らしやすい環境には、「よどみ」があります。
(・・・)
 同じことが、人間の生態系にも言えるはずです。何事も変化し続ける社会において「よどみ」は、時代遅れで、回りくどく、無駄なものに見えますが、そういうものがなければ、私たちは自分の生活を紡ぐことに難しさを感じるものです。逆に言えば、この社会に「よどみ」が増えれば、前よりも少し過ごしやすくなります。」

「ネガティヴ・ケイパビリティは、みんなが同じ方へとずんずん歩いていく中で、それとは別の道のことを考えることです。話が付いたはずのことから、わざわざ疑問や問いを読み取り続けようとすることです。自分が得ていたはずの「正解」を喜んで手放すことです。立ち止まるべきタイミングで動いたり、動くべきタイミングで立ち止まったりすることです。すらすら話すことが期待されるときに、「でも・・・・・・」と口ごもることです。世間的には結論扱いされている議論の先を考えることです。つまりは、ああでもなければこうでもないと探索的に思考することです。」

(「第1章 「一問一答」的世界観から逃れる方法」より)

「————もう事実も何もない、議論もしようがないというのが、ある意味今の世の中ということなんですか? 「普通」という言葉も言わない方がいい。とか。
朱/さすがにそれは極端ですね。「普通」という言葉も、日常的な意味ではもちろん使っていいと思うんです。ただ、それについて確固たる一線を引けるような基準をジャーナリストや学者は引ける見通しはないということです。「善い陰謀論」よ「悪い陰謀論」は明確には分けづらい。」

「谷川/「単純な線引きや基準で、陰謀論を一掃しよう」ということそのものが、実は怪しいということは言っておくに値するかもしれませんね。」

「谷川/陰謀論も陰謀論を批判する側も、実はどちらも手短な議論ですべての片を付けようとしていて、「マスターアーギュメント」(「これでも何でも説明できます」と謳う理論や規準のこと)になっているということなんです。陰謀論やデマ、オカルトを信じる人は、それだけで森羅万象を説明しようとしているけれど、陰謀論を批判しようとする人もまた、ごく単純な基準で、あらゆる陰謀論を退けようとしている。これって実はどちらも同じように、面倒な手順をすっとばして、単純に処理していますよね。」

「杉谷/谷川さんは「愚かさの批判」について話してましたよね。その連鎖からどう降りるのか。
谷川/ですめ。「愚かさの批判」というのは、誰かを批判するとき、その人が「愚かだ」「浅ましい」「馬鹿だ」というところに帰着させながら語ることを指す言葉です。」

「杉谷/スパーンと即座に短く断言する一問一答は、クールで格好よく見えるわけですよね。(・・・)
 一問一答の世界観、その中で魅力を持つズバッと断言する語り方を超えていくものを考えるとき、ネガティヴィ・ケイパビリティが大切になってくる。つまり不確実なもの、不確定なもの、わからないものがない世界を、やっぱり人は望みがちだけれども、一問一答では救いきれない世界があることをどう認識してもらうか。そして、その認識をどう共有していくか。最近そんなことを考えています。」

(「第3章 「アイヒマンにならないように自分の頭で考えよう」という言葉に乗れない理由」より)

「谷川/「アテンションエコノミーはやばいから、インテンションエコノミーで行こう!」という単純な話にもできないですよね。意図を形成する(=判断や選択をする)コストがかかるので。
朱/それは本当にその通りで、言うほど簡単じゃないんでよね。インテンションエコノミーって、「顧客はちゃんと考えて選んでください」って前提がある。これって、めっちゃ認知的なコストを顧客に強いる行為なんですよ。「直感的に選んでください」じゃなくて、「考えた上で選んでください」というわけだから、これはこれですごくハードルが高いものにまってしまったりもする。」

「谷川/市民に熟議し反省し続けることを要求するか(=インテンション)、印象的な言葉で盛り上げて人気をとるポピュリズムか(=アテンション)という論点としても聞けますね。
杉谷/うん。世間的に言う「リベラル」は、インテンション民主主義ですよね。
谷川/熟議民主主義を尊重するというのは、「自分で意図を形成しよう」(=調べて考えて選ぼう)ということですからね。」

「杉谷/アドルフ・アイヒマンという、ナチスドイツでかつて大量虐殺に加担した幹部がいました。今ちょうど、アイヒマンに関する本を読んでいて、いろいろと思うところがありました。
谷川/事務方のね。ユダヤ人を強制収容所に効率的に輸送する、いわゆるロジスティクスを担当していたんですよね。そのためのシステム作り、部門ごとの縦割り体制を突破して、目的を効率的に遂行するための核心的な枠組みを作った人。
杉谷/彼は戦後南米に逃亡していたけど捕まって、一九六〇年にイスラエルで裁判を受けた。裁判の場で、アイヒマンに対して「なぜあなたはあんな虐殺をしたのか」と聞くと、彼は「いや、あれは命令されただけだ」「自分の仕事のことしか知らない」と言い逃れをして、当時の人たちはすごく大きな衝撃を受けるわけですね。ナチスの大幹部の生き残りなのだから、残念な反ユダヤ主義者、冷徹なレイシストを想像していたけれども、出てきたアイヒマンというのはいかにもみすぼらしい、どこにでもいるような小役人に見えた。裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、「悪の陳腐さ」と呼ばれる議論を展開していく。
 ただ、捕捉しておくと、実際にはアイヒマンは、根っからの反ユダヤ主義、レイスストで、かなり常軌を逸した人物だったということが最近の研究では明らかになっています。だから、イスラエルの法廷でのアイヒマンは、完全な芝居ですね。
(・・・)
杉谷/この話はいったん置いておくとして、もともとの論法に話を戻すと、ここにはインテンション派が好きな語り方がある。アイヒマンの答弁を引き合いに出しながら、「命令に従うばかりではだめだ」「言われたことに従順で、何も考えていないなんて・・・・・・」と警鐘を鳴らす。政治学者もやりがちで、「自分の頭で考えている、ちゃんとした市民になりましょう」と行ってしまう。
谷川/(・・・)ネガティヴィ・ケイパビリティという観点を持っていると、「アイヒマンにならないように考え続けよう」というオチの付け方が別の装いをした思考停止に見えてくるんですよね。
杉谷/朱さんの言葉を借りれば。インテンショナルデモクラシーとでも呼べるのでしょうが、「自分で調べて考えて選択するちゃんとした市民になろう」という構想を全面化するのは、どうも現実的ではないのではと思っています。そこで、いわゆる、ちゃんとした民主主義が提示する理想像に見合っていない日本社会を「前近代的だ」とせせら笑う議論を戦前の民主主義論以来ずっと繰り返してきた。」

(「第8章 イベントとしての日常から、エピソードとしての日常へ」より)

「朱/今回の話で一番大事にしたかったところが、借り物の言葉じゃなくって、自分の言葉を持つということでし。谷川さんの“You have to own your narrative.”(自分のナラティヴを持ちなさい)という話を聞いて、オウンってどういうことなのかと思っていたんだけど、後から振り返ると、私たちはずっとそのことを考えていたなという感じがします。」

「杉谷/イベント化した社会という話がありましたが、その背後にも能力主義があります。「自分というのは能力があって、魅力的な存在なんだ」とアピールしないといけない社会だということですね。しかも、一部の有名人だけでなく、万人がそうならないといけないという話になっている。
谷川/インフルエンサーって言葉が象徴的かもしれない。セレブリティと違って、万人が自分の魅力をアピールしている社会を前提とした言葉ですから。」

「杉谷/「反原則」「アンチ原則」がポイントですよね。つまり、何か型が決まっていて、「こういうふうにすればいい」という話はちょっと違うだろうという論点をめぐって、私たちは政治とか倫理とか言葉の話をしていた気がするんですよね。イベントとエピソードの話もそうだし、原則的なものを当てはめていくような思考に、私たちは慣れているけれども。型にはまることだけではないような、何かよくわからないもの、割り切れないものを掬い取っていく技術を高めていくことが、たぶん私たちに求められていることだし、ネガティヴィ・ケイパビリティがこの社会で必要とされている理由なのかもしれない。
谷川/そうか。エピソードはどこからどうなっていくかわからないけれど、イベントって型にはまってますもんね。
朱/まさにそうですね。確かにイベントですもんね。
杉谷/広告も「型にはまるな」みたいなメッセージを発するくらい、ありふれたものですけど、実際には成功者って相当型にはまった語りをしていますよね。挫折したけれど奮起して仲間の助けがあって成功した、というような。(・・・)私たちは「型にはまるな」という教訓を知っているのに、よく似た語りをして、原則通りの関係を作って、型通りのイベントを楽しんでしまう。そういう社会からのメッセージをはねのけて、自分の身の回りに注意深くなれるかどうか、プライベートな関係をしっかり作っていけるかということが試されているんですね。」

○目次

第1章 「一問一答」的世界観から逃れる方法
――陰謀論、対人論証、ファシリテーション
第2章 自分に都合のいいナラティヴを離れる方法
――フィクション、言葉遣い、疲労の意味
第3章 「アイヒマンにならないように自分の頭で考えよう」という言葉に乗れない理由
――コンサンプション(消費)、アテンション(注目)、インテンション(意図)
第4章 信頼のためには関係が壊れるリスクを負わねばならない
――マーケティング、トラスト、脱常識
第5章 「言葉に乗っ取られない」ために必要なこと
――SNS、プライバシー、言葉の複数性
第6章 自分のナラティヴ/言葉を持つこと
――倫理、相対化、ナッジ
第7章 公と私を再接続するコーポラティヴ・ヴェンチャー
――関心、実験、中間集団
第8章 イベントとしての日常から、エピソードとしての日常へ
――観察、対話、ナラティヴ

◎谷川 嘉浩(たにがわ・よしひろ)
1990年兵庫県に生まれる。哲学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科特任講師。
単著に『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)。共著にWhole Person Education in East Asian Universities, Routledgeなどがある。

◎朱 喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪府に生まれる。哲学者。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、大阪大学社会技術共創研究センター招聘教員。
主な論文に「陰謀論の合理性を分節化する」(『現代思想』2021年5月号)、共著に『信頼を考える』(勁草書房)、『世界最先端の研究が教える すごい哲学』(総合法令出版)、共訳に『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房)などがある。

◎杉谷 和哉(すぎたに・かずや)
1990年大阪府に生まれる。公共政策学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得認定退学。博士(人間・環境学)。現在、岩手県立大学総合政策学部講師。
著書に『政策にエビデンスは必要なのか』(ミネルヴァ書房)、論文に「EBPMのダークサイド:その実態と対処法に関する試論」(『評価クォータリー』63号)、「新型コロナ感染症(COVID-19)が公共政策学に突き付けているもの」(『公共政策研究』20号)などがある。

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