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佐野元春 40th ANNIVERSARY[その歌は時代を照らす] (『SWITCH VOL.39 NO.6 JUN.2021』)

☆mediopos-2379  2021.5.22

2009年から2012年まで
全4SEASONにわたって放送された
「佐野元春のザ・ソングライターズ」の記録が
この夏スイッチ・パブリッシングから刊行される

佐野元春によれば
「ポップソングは時代の表現であり、
時代を超えたポエトリーである」という

佐野元春が「アンジェリーナ」で登場したのが1980年
それから40年にわたっていわば職人的なまでに
「ソングライティング」の可能性を追求し
ほとんど変わらぬ姿勢で格闘しつづけている

佐野元春の登場した当時
ぼくはもうすでに日本のロック/ポップミュージックから
関心が離れはじめていたのもあって
アルバムを買ったのは
2007年の「COYOTE」がはじめてだったが

このアルバムは
「コヨーテ」と呼ばれる男の視点から描かれた
ロード・ムービーの「架空のサウンド・トラック盤」
という想定で作られたコンセプト・アルバムである

このアルバムはいまでもまったく色褪せていないし
たしかにこうして特集された
「ソングライター」としての佐野元春という視点を
いつもはじめてのように新鮮に感じられる作品である

「時代の表現であり、時代を超えたポエトリー」
であるということは
時代から目を逸らさないということであり
時代を生きる人こそが可能にする「ポエトリー」の
可能性を求めともに生きていることでもある
それは一人ひとりのこころのどこか深いところで
歌われているはずの「うた」の響きを
たしかに聴きとるということでもある

「文学的なディレッタント」には生きた力がない
それは文学だけのことではない
みずからの閉じた世界で
アイデンティティを食んでいる学問も同じだ

今回スイッチで佐野元春の40年にわたる格闘が
一冊の貴重な生きた資料としてこうして特集されている
作家の小川洋子や詩人の吉増剛造との対話も
収録されていて興味深い

佐野元春は40周年の記念コンサートで
「次の新しい世界がどんな世界になったとしても、
これまで通り、僕のこの音楽の魂を
ぶち上げていきたいと思います」と語ったというが
おそらくこの言葉がすべてを表している

時代を生きていなければ
ポエトリーには意味がない
ソングライティングには意味がない
そうであってこそ時代を超えてゆく

吉増剛造との対話のなかで佐野元春は
「初期の頃はビートと言葉、メロディの
それぞれの境に壁が」あったが
「最近はそれが無くなりつつ」あるという
40年というソングライティング職人の経験ゆえに
体得されてきている技でもあるのだろう

生きるということは
はじめは矛盾であった壁が
その矛盾という壁ゆえにこそ
超えられてゆくということでもある
40年という歩みにはそれだけの確かな力がある

■小川洋子×佐野元春[雷鳴の後で]
■吉増剛造×佐野元春[詩人の魂]
■LONG INTERVIW 10SONGS OF SANO MOTOHARU
 佐野元春[言葉の海を泳ぐ]TEXT:UCHIDA MASAKI
■「佐野元春のザ・ソングライターズ」
(『SWITCH VOL.39 NO.6 JUN.2021』スイッチパブリッシング 2021.5)

(佐野元春[言葉の海を泳ぐ]より)

「佐野はシンガーソングライターである一方で豊富なボキャブラリーを有する詩人でもある。一九九〇年に刊行された単行本「ハートランドの手紙」収録の「エーテルのための序章」をはじめ、彼はこれまで音楽作品とは別に様々な詩作やテキストを発表している。さらにキャリアの初期からスポークンワーズやポエトリーリーディングに取り組み、時には実験的なプロジェクトにも果敢にトライしてきた。」

「----ソングライターとして、もしくは詩人として、今後についての思いを聞かせてください。
「僕は自分のことを詩人とは思っていない。やっぱりソングライターなんだ。吉増剛造さんは対談の中で自分が歩んできた道を〝文学のベボ道〟と語ってらした。その表現を借りれば、四十周年の記念コンサートだったので、何か気の利いたスピーチをしなければと思った。しかし、結局ファンに伝えたのはとてもシンプルな思いだった。「僕の人生に必要なのは音楽、そしてライブ。パンデミックが明けて、次の新しい世界がどんな世界になったとしても、これまで通り、僕のこの音楽の魂をぶち上げていきたいと思います」。それが、今、僕は思うすべてです」」

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(「佐野元春のザ・ソングライターズ」より)

※「2009年から2012年まで全4シーズンにわたりNHKで放送された「佐野元春のザ・ソングライターズ」

「「現代の詩人たち」。時代に響く言葉を発する人たちのことをそう呼ぶのであれば、同じこの時代に、様々な喜びや苦悩の中で生きるオーディエンスと向かい合い、歌を伝えるシンガーソングライターこそをそう呼ぶのであろう。
 その力を誰よりも知るのは、佐野元春もまた、時代を映し出すソングライターの一人だからだ。そして「佐野元春のザ・ソングライターズ」という番組は、佐野がその企画から構成を手がけるソングライター発の番組である。」

「佐野/誰かが誰かに何かを教えるという場ではない。すでに集まっている彼らの中にあるものを引き出す、これが「学校」だと僕は思う、
----セカンドシーズンが始まりましたが、現役で、今、闘っている人たちの言葉は、今、生きている私たちに一番届くことを証明しているように思います。
佐野/だから、彼らこそ現代を生きている詩人ではないか。いわゆる活字として書いているだけの詩人たちは、文学的なディレッタントに陥ってしまって、何の力も発していないと感じる。実際に多くのオーディエンスと向かい合って、自ら身体表現をしながが表現を続けているシンガーソングライターこそ現代の詩人あであると、僕はこういうふうに言っているわけなんですね。「ザ・ソングライターズ」に招聘するゲストたちはその仲間たちであるということです。」

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(小川洋子×佐野元春[雷鳴の後で]より)

「佐野/小川さんが言われるように、「SOMEDAY」が時代を経てまた聴き手に新しい意味を提示しているとしたら、ソングライターとしてこれほど冥利に尽きることはありません。
小川/「SOMEDAY」の中の“Happiness & Rest”というセリフ、若い頃の佐野さんを好きだった理由です。パッションではなく Rest。幸福と並ぶものとして静かなやすらぎを求めている。四十年経つと、これが全然違う意味を持って湧き上がってきます。
佐野/小川さんが本当に良き聴き手で、僕は幸福です。正直、「SOMEDAY」を書いた時は、“Happiness & Rest”と英語で逃げてしまったという若干の苦みを残しているんです。ここをもっと自分の中で噛み砕き、日本語で表現できていたらもっとよかったというちょっとした苦い思い。それから歳を重ね、今この“Happiness & Rest”をどう訳すのかと問われた時、しばらく考え込みました。Happinessは一つの〝幸福感〟です。でも“Rest”、これをどう日本語にするのか、ずいぶん迷いました。そして、〝静寂という言葉に行き着いた〟“Happiness & Rest”は、〝幸福と静寂〟だと。
小川/むしろ何もない、でも心地の良い空洞。
佐野/それこそがなかなか現世で得ることのできない世界、しかし重要な自分の人生の意味。
小川/「SOMEDAY」は、いつコンサートに行って聴いても何かしらを与えてくれる曲です。歌は本当に不思議です。飽きない。きっと言葉が浮かんできた時も、辞書に載っているその言葉の意味を超えたもっと自由な世界をはらんだものとしてあったのではないでしょうか。
佐野/ソングライターはそこにメロディやハーモニーを加えることによって、あらかじめセットされている言葉の意味性を広げることができる。様々な解釈をしてもらえる表現ができる。一番いいタイミングで“Happiness & Rest”と言うと、その文字、その言葉が持っている意味以上の何かが聴き手に向かっていく。その可能性への期待が、ソングライターが曲を書き続ける理由ではないでしょうか。
小川/しかも、それを聴いた人が受け取る言葉の意味の広がりは、もしかしたら書き手が想像したものではないかもしれない。
佐野/僕の経験があり、聴き手の経験がある。経験の一部が交わり、新たなストーリーが生まれる。「SOMEDAY」を聴いてくれた一人ひとりにストーリーがある。「SOMEDAY」をめぐっていくつものストーリーがそこから生まれてくる。」

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(吉増剛造×佐野元春[詩人の魂]より)

「佐野/我々ソングライターは最初に言葉が出てくるのですが、その言葉の意味性に頼るだけではなく、それを補完するためのビートというものが重要だと思っています。初期の頃はビートと言葉、メロディのそれぞれの境に壁がありましたが、最近はそれが無くなりつつある。これは表現者の自分にとってはとても喜ばしいフェーズに入ってきたな、と。僕の理想はやはり言葉、メロディ、ビート、それぞれの間に横たわる壁を溶解し、取り払い、その三つの要素が渾然一体となった表現として聴き手に届けていくことなんです。
吉増/その時、佐野さんの音楽の聴き手もその〝輪〟のなかに入ると考えてもいいのですか?
佐野/もちろんです。良き聴き手に恵まれた時には、私の音楽作品はより豊かに花開く、より輝きを増すと思っています。自分ひとりであれば「この程度でいいじゃないか」と妥協してしまうかもしれませんが、もし良き聴き手がこの作品に触れてくれたらこれはもっと輝くはずだという思いが常にある。だから決して妥協はできません。
吉増/そうですね。僕らの時代の感受性というのは、たとえ音楽家にはならなくとも、聴く耳を、あるいは見る目を間断なく鍛えていくようなところがありました。〝聴く〟ということで言うともちろんボブ・ディランも聴きますし、プレスリーも聴きますし、ディラン・トーマスもT・S・エリオットも〝聴いて〟いるわけです。その聴いている耳がもうひとつの巨大な耳となり、「どうして俺は歌を歌わなかったんだろうか」という思いとともに、佐野さんとTHE COYOTE BAND の十五年の軌跡を聴いていくうちに、私の聴く耳が〝あるところ〟へと到達したなという感じがあった。
佐野/それはとても光栄なお話です。
吉増/すごいものです。ひとつひとつの曲によって小宇宙が違ってくるわけでしょう。そして音だけでなく映像を観ていると、メンバーの皆さんもボーカリストとしてマイクに向かうシーンもありましたけれども、それらは決してフリーではなく、とても繊細に、秩序立ったなかで形作られている。
佐野/バンドとしても自分自身もそうですけれども、我々の表現というのはロックンロール音楽なんですね。ビートを伴ったロックンロール。ジャズにしてもロックンロールにしても、その人の原初的な気持ち、ハートのビートと言いますか、それがベースにある音楽。ですので当然そこには即興的な要素も入ってきますし、喜怒哀楽を率直に演奏で表現してもいい音楽だと基本的には思っているんぼですが、自分の場合はそこをベースにさらにアンサンブルを組み、一人ひとりのプレイヤーの役割を明確化し、きちんと構成していくことによってさらなる強力な〝場〟のようなものがそこに立ち現れるのではないか、と。ただの即興や、スポンテニアス(自然発生的)な表現を超えた先に何が起こるのかということを常に期待して音を作っています。」

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