見出し画像

山田仁史『人類精神史 ――宗教・資本主義・Google』

☆mediopos-3181  2023.8.3

二〇二一年一月に亡くなった
宗教民族学者・山田仁史の遺著
『人類精神史』は

Gott(神)・Geld(お金)・Google(情報)
という3つの「カミ」と

それぞれに対応する3つのリアリティ
R1(第一次現実)
「自他が直接に対峙してきた無文字の時代」
R2(第二次現実)
「文字を介してのコミュニケーションが増加した時代」
R3(第三次現実)
「仮想環境が増大し、情報の伝達における速度と量が
加速度的に増しつつある時代」
から考える人類の精神史である

この発想のきっかけになったのは
一昨日とりあげた外山滋比古の
『思考の生理学』で示唆されている
第一時的現実(物理的世界)と
第二次的現実(文字・読書・テレビ)からだという

いうまでもなく人類社会での環境は
R1→R2→R3と変化してはきたが
著者の基本的立場は
「「進化」よりもむしろ
「棲み分け」を重視」するものであり

しかもそれを主客二元論的な
ロゴス的世界としてではなく
全体を包含するレンマ的世界へと
方向づけようとしている

本書は「新型コロナウイルスの世界的感染拡大のなか
「これまでの日常や常識が大きく揺ら」いできたなかでの
危機感を伴った執筆であるということもあり

またそれが二〇二一年一月の著者の逝去によって
未完となっていることから
R1・R2・R3とその変化のたんなる概観を越え
さらなる展開に欠けている印象は否定できないだろうが

著者が最初に
人工知能(AI)の脅威をはじめ
「人類は今、その精神史上、稀有なる乱世を生きている」
と示唆しているとおり
現代を生きている私たちにとって
不可欠な認識を共有する必要性を
痛感したところから書かれたものだろう

本書では政治やメディアや医療における
さまざまな諸問題はとりあげられず
人間の霊性に関する示唆もとくにはないまま
さまざまな分野でのアカデミックな示唆を紹介していくような
単純な科学的視点をベースとしてはいるが

人類の精神のあゆみを歴史的にとらえながら
今後ますます進展するだろうR3と
それが人類に与える影響を多面的に考察し
そのなかでR1・R2が
それにどのように関わっていく必要があるかについての
重要な示唆となっている

■山田仁史『人類精神史 ――宗教・資本主義・Google』
 (筑摩選書 筑摩書房 2022/12)

(「筑摩書房編集部」より)

「本書の著者、山田仁史は惜しくも二〇二一年一月に逝去されました。本書は、完成間近であった遺稿をもとにしています。残念ながら第1章、第9章などに未完成の部分があります。」

(「第1章 三現実史観」より)

「人類は今、その精神史上、稀有なる乱世を生きている。
 もとは自らが生みだしたはずの人工知能(AI)に、高度な機能を与えたあげく、脅威さえおぼえるに立ち至った。(・・・)
 足もとを振りかえれば、明治維新と二度の大戦にくわえ、戦後の高度経済成長、そして平成における構造改革をへて、日本人というアイデンティティも大きく揺らいでいる。
 こんな世の中で、心を正常に保つことのほうがむずかしい。病んで引きこもるか、不安をかくして作り笑いをするか、開きなおって狂おしい欲望に身を任せるか。
 人間の精神が、実存の根底が、はげしく動揺している。」

「本書を名づけて『人類精神史』という。長い旅路になるが目的地は、現代の日本だ日本人とは何者か。その問いに答えを見つけるための道行きである。」

「現実というものは、複数存在する。私をとりまくリアリティの中には、いくつか質の異なる位相のものがある。(・・・)
 ひとつのきっかけになったのは疑いなく、故・外山滋比古の『思考の生理学』(初出一九八三年)だった。
 (・・・)その中に、こんな一節があった。われわれがじかに接している外界、物理的世界を第一時的現実と呼ぶならば、知的活動によって、頭のなかにつくり上げた現実世界は第二次現実と言える。そして従来の第二次的現実は、ほとんど文字と読書によって組み立てられていたが、二〇世紀も後半になってブラウン管、つまりテレビによる第二次的現実が大量にあらわれた。」

「[編集部より]
 以降、この第一次(的)現実を本書ではR1、第二次(的)現実をR2、後ほど出てくる第三次(的)現実をR3と呼ぶ。」

「・R1(第一次現実):生身のヒトが自らをとりまく自然環境に依存し、自他が直接に対峙してきた無文字の時代
R2(第二次現実):人間が造りだした人工環境の占める度合いが非常に大きくなり、文字を介してのコミュニケーションが増加した時代
R3(第三次現実):ヒトの脳の究極の外部化としての仮想環境が増大し、情報の伝達における速度と量が加速度的に増しつつある時代」

「三つの現実は、三つの神に対応する(編集部注・R1の神はGot〔宗教的な神〕、R2の神はGeld〔お金〕、R3の神はGoogle〔情報〕。」

「本書の枠組みとなる三つの現実世界というのは、あくまでも理念型にすぎない。おおきく見れば、R1→R2→R3という順序で人類社会をとりまく主たる環境は変化してきたとも言えるが、別の見方をすれば。これらは棲み分けながら併存する面ももっている。
 このように「進化」よりもむしろ「棲み分け」を重視したい、というのが私の立場である。主客が対峙するロゴス的世界よりも全体を包含するレンマ的世界を志向する、と言えるかもしれない。」

「本書の執筆は、新型コロナウイルスの世界的感染拡大と時をおなじくして行われた。これまでの日常や常識が大きく揺らぎ。「ニューノーマル」「新しい生活様式」が叫ばれる。これまでのようなR1における、生身の人間同士の接触は避けるべきとされ、R3の領域は拡大してゆく。
 そこで失われるものも多い。思いがけなく知人と出会い、何気ない会話をかわすことの、なんと大切なことか。いとおしい日常。それが消え、アポイントをとった相手との、しかもマスク越しの会話がふえた。目はある程度ひゅおじょうを示してくれるが、口もとは分からない。笑っているのか、ふくれているのか。」

(「第10章 未来へ進んでゆくために」より)

「二〇二〇年に起こったコロナ禍は、全世界に激震をもたらした。
 身近なところでは、単身赴任や満員電車など、おおきなストレスを強要してきた面もある近代社会を、乗り越えるきっかけになるのだろうか。R1・2・3という三つの環境がうまく棲み分けし、われわれが賢く使い分けることができれば、より望ましい未来が開けるのだろうか。
 R3の拡大していく今後の世界を、どうみるか。R1とR2を経た人類の、弁証法的な発展の契機とみる向きもあろう。だがそれでは、近代をささえてきた発展史観の延長にすぎないようにも思われる。むしろR1・2・3の棲み分けをめざした方が、より居心地のよい世界に迎えるのか。
 たとえば新型コロナウイルス感染拡大を防止するため、二〇二〇年の三月からは沿革運動を導入する企業がふえ、また新年度、大学の授業はオンラインで開始された。壮大な社会実験の始まりであった。
 これで明らかになったのは、ある程度はR3で行ける、ということである。むしろテレワークによって自由時間がふえ、「社畜」ではない人間的なくらしが実現した例もあるだろう。
(・・・)
 しかし一方で、われわれ人間が結局はフィジカルな地政学的単位にしばられた存在だ、という事実もまた、突きつけられてしまった。コスモポリタンなどというユートピアは。言語共同体という基礎なくしては成り立たない。それはわれわれの精神が言語行為とふかく結びついていることからの、当然の帰結でもある。
 言い換えれば、これは和辻哲郎が看破していたように、カント的な人類学か、ヘルダー的な民族学か、という対置でもある。人類の普遍的理性を信じ、全世界が共通でめざすべき理想をかかげたのがカントだったとすれば。ヘルダーは個々の言語や民族に特有のものの考え方を重く見た。(・・・)
 カントとヘルダーの違いは、後に民族学者バスティアーンが原質思念(Elementargedanken)、民族思念(Volkergedanken)と区別した差でもある。後者を経なければ前者にはたどりつけない。そのことをコロナ禍は思い知らせてくれた。結局われわれの精神は、あの疾風怒濤の時代からあまり進んでいないのかもしれない。」

「木岡伸夫やオギュスタン・ベルク、そして中沢新一といった人々が、先達である山内得立、さらに溯れば龍樹(ナーガルジュナ)『中論』のアイディアをもとにして、「ロゴス」に代わる「レンマ」の可能性を説いている。
(・・・)
 近代的な学問、そして知とは、まさにロゴス的な分析を旨としてきた。しかし先述したような思想家たちは、その限界に気づいている。私もまた本書ででは微力をつくし、レンマ的な人類史総体の把握に努めたつもりだ。個々の時代・値域の執筆者が書く歴史には、もちろん精密さでかなわない。しかし部分の総和が全体と等しくないように、歴史とは事実の集合体ではない。よってその記述には、全体をどう見るかという歴史観のありかたが問われるのである。」

「今後、このままR3が拡大・膨脹してゆくと、どんな影響が出てくるだろう。たとえばコロナ以前から、日常的にマスクを着用している若者が増えていた。(・・・)そうした減少は「視線耐性」の低下ととらえられる。つまり、他人の視線に自分の素顔をさらすのが耐えられない、というのだ。そしてこうした心理は、デジタル・デバイスとの接触時間の長さろ相関しているらしい。生身の人間と接することが少なくなればなるほど耐性が低くなるというのは、理解できる話である。
 岡田尊司もまた、そうした行動様式に着目して「ネオサピエンス」、あるいは「回避型人類」と呼んだ。他者への愛着をつよく持つ旧来の「共感型人類」に対して。そうした感情をミニマムにすることで自分が傷つかないように守ることのできる、新たなタイプの人類が遺伝子レベルで広まりつつある、というのが岡田の見立てだ。そして、こうした劇的な「進化」を後押ししているのが、情報通信(IT)革命による対面コミュニケーションの機会減少だという。
(・・・)
 こうした事態が急激に進行しているのは、日本もふくむ先進諸国が主であり、地球上のその他の値域はまだそこまで深刻になっていないのではないか。(・・・)
 また。これは岡田も指摘することだが、「回避型人類」は現代になって突然あらわれたわけではない。本書で述べてきたR2という、文字情報に多くを頼る環境というのはすでに、「回避型」への大きな一歩をしるしていた。読書する行為というのは、他者から切りはなされ、一人孤独に書物と向きあうような環境を必要とするからだ。(・・・)
 とはいうものの、全体的な趨勢としては、日本で起きているのと似たような方向へ世界は向かいつつあるのかもしれない。」

「ビッグヒストリーが教えてくれるように、近未来は予測しにくい。多様なファクターがかかわってくるからである。しかし遠い未来はより確実だ。数十億年後に太陽は膨脹し、赤色巨星になって死を迎える。したがった地球も道連れだ。
(・・・)
 われわれ人類は地球とともに生きてきた生き物の一員であり、今後もそれが基本となる。地球が滅びるとき、運命をともにするのは、大地から生えた枝が枯れ、地にもどるのと同じではないか。個々の生命に死があるように、地球もやがて姿を消す。そこにどうしようもない哀しみがあるのは確かだが、持続可能性についての責任と決意、そしてまた、絶え間ない日常にむきあって暮らしてゆこうという構えもまた、そうした有言の生を引き受ける精神からこそ、生まれてくるのではないだろうか。」

◎山田 仁史(やまだ・ひとし):
1972年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業、京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程満期退学。ミュンヘン大学大学院修了。東北大学大学院文学研究科准教授を務めた。2021年に逝去。著 書に『首狩の宗教民族学』(筑摩書房)、『いかもの喰い』(亜紀書房)、『新・神話学入門』(朝倉書店)などがある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?