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中村桃子「「正しい日本語」を越えて 「パートナーの呼び方」を自分で選ぶ」 (群像 2022年 7 月号)

☆mediopos2765  2022.6.13

「パートナーの呼び方」は
そのひとの価値観をあらわしている

「嫁」とか「主人」とかいう呼び方を
疑いもなく使っているひとは
それを昔から使っている「正しい日本語」だと思い
ほとんど無自覚に使っているか
そうでなければ
そういった「主従関係」を疑っていないひとだろう

しかし現代ではさすがに
そうした無自覚なひとは減ってきていて
どんな「呼び方」をすればいいのか
むずかしさを感じているひとが増えてきているようだ

「パートナーの呼び方」には大きくわけて
「お互いを呼び合うとき」
自分のパートナーについて「他者に話すとき」
そして「他者のパートナーを呼ぶとき」
という三つの場合があるが
後者になるほどむずかしさは大きくなる

「お互いを呼び合うとき」いちばん自然なのは
結婚前から使っていた「名前」や「ニックネーム」を
そのまま使う呼び方だろう

けれど「他者」にたいして
パートナーをどう表現するかはなかなかむずかしい
できるだけ「主従関係」や因習的なところのない
自由な呼び名があればいいのだが
じっさいのところしっくりくる表現が見つかったためしはない

さらに「他者のパートナーを呼ぶとき」は
その「他者」の価値観をはかりながら
できるだけ無難なことばを選ぶ必要がある

とてもむずかしいことなのだが
だいじなのは世の中でがよく使われているから
といった無自覚な見方を去って
じぶんはそのことばにどのような意味をもたせているのか
そのことに自覚的になることだろう

みんなが使っているからという理由は
「赤信号 みんなで渡れば怖くない」の論理だ
赤信号だとわかっていればまだしもだが
多くのばあい信号が青に見えている事も多そうだ

かつてはだれもが疑いなく使っていたとしても
ことばは時代とともに
ことばを使うひとの意識とともに変わっていく
その変化に迎合する必要はないが
その変化をできるかぎり意識化しながら
その変化について
じぶんはどういう態度をとるのかに
意識的である必要がある

■中村桃子「「正しい日本語」を越えて 「パートナーの呼び方」を自分で選ぶ」
 (群像 2022年 07 月号/講談社 2022/6 所収)

「毎日使っている日本語。それでも、「使いづらいなあ」と思うこともある。そんな難しさを感じることばのひとつが、妻や夫などパートナーの呼び名だ。中でも、他人のパートナーをどう呼ぶかに頭を悩ませている人が多いらしい。(・・・)

 パートナーの呼び方の問題は、現代社会におけるパートナー観の変化から生まれている側面もある。男女平等の大切さが少しずつ認識され、夫婦の関係は大きく変化した。結婚やパートナーシップの形も、法律婚や事実婚、同性婚と多様化している。それなのに、パートナーの呼び名が旧態依然なものしかないために、使うたびに「しっくりこない」という違和感を持つのだろう。

 しかし、妻が夫をどう呼ぶかは100年以上前から悩みの種だった。(・・・)

 なぜ、100年も同じ問題が論じられているのか。そこには、現代までイエ意識を支える家族単位の戸籍編製や夫婦同姓の制度など、さまざまな理由があるだろう。」

(「パートナーを呼ぶ三つのケース」より)

「一口に「パートナーの呼び方」と言っても、大きく三つの場合がある。ほとんどの人は、三つの中でも、さらに多様な呼び方を使い分けている。(・・・)

 ひとつ目は、「お互いを呼び合うとき」だ。これは時代とともに変遷してきたが、現代では「ニックネーム」や「名前」など、結婚前から使っていた呼び名をそのまま使う例が多いようだ。お互いの呼び名は、お互いの関係だけを考えれば良いので、問題になることは少ない。

 ふたつ目は、自分のパートナーについて「他者に話すとき」だ。「他者」と言っても、友人か、知り合いなど、相手との関係で使い分ける必要が出てくる。親しい友人なら、お互いが使っている「ニックネーム」や「名前」を使う場合が多い。子供を通しての知り合いなら「うちのママ/パパ」。知り合いには「妻」や「夫」がもっともニュートラルな呼び名として人気があるが、「奥さん、嫁さん」や「旦那、主人」「名字(名前)」もある。

 難しいのが、呼び名によって自分のパートナーとの関係や、理想とするパートナー観が分かってしまう点だ。ことばは不思議なもので、同じものを指す複数のことばがあると、それらの意味は微妙に異なってくる。この微妙な違いが、大して親しくない人にパートナー観というプライベートな情報を伝えてしまう。(・・・)

 さらに難しいのが、三つ目の「他者のパートナーを呼ぶとき」だ。相手との関係やパートナー観に加えて、丁寧に呼ぶ必要があるからだ。しかし、丁寧な呼び名は、主従関係を表現したものが多い。」

(「場面に応じた使いわけができる————でも、自分の考えでは選べない」より)

「「正しい使い方を選択する」と「自分で選択する」は、両方とも自分で選択していても基準が違う。前者で選択の基準となるのは「正しいルール」だ。パートナーの呼び名で言えば、聞き手との関係や場面で求められる丁寧さ、それぞれの呼び名の意味の違いなど、さまざまな要因を考慮して「ふさわしい」呼び名を選ぶ。「自分で選択する」場合の基準は、それらの加えて、自分の価値観が含まれる。「自分で選択する」ためには、自分のパートナー観を知っている必要がある。この小さな違いは、日本語の話し手の意識に大きな違いをもたらす。」

(「日本語は、政治的イデオロギーを超越した自然に変化する有機体なのか」より)

「「正しい日本語」を重視する視点によれば、日本語の話し手は、「偉大な日本語」の前で無力である。できることは、「正しい日本語」のルール習得に努力するぐらいで、自分が日本語を使いやすくしようなどとは思いもよらない。

(・・・)

 しかし、「正しい日本語」も各々の時代の政治的イデオロギーの中で、異なる立場の人々によって使われることで成立し、変化してきたものだ。そもそも、「正しい日本語」の代表である「国語」は、明治時代に近代国家を建設するという政治的目的の一環として、国語学者によって「上から」制定されたものだ。

 どんな言語にも、その時代の政治的イデオロギーや差別意識を反映した片寄りがある。日本語にも、パートナーを主従関係で表現する例のように、女性差別を反映した片寄りがある。これに気づかず、これまで使ってきたからと言って差別的なことばを使い続ければ問題になる。たとえば、息子の妻を「嫁」と呼ぶ人は、「自分」と「息子の妻」を、「家長」と「嫁」という主従関係に位置付けている。息子もこれを不快に感じる人が多いらしく、私の周りには、「嫁」を使う親と何十年も音信不通になっている人が数えきれない。

 「自分で選択する」話し手も、日本語を大切にする気持ちは同じだ。ただ、「大切にする」方法が違う。これまでは、日本語を「あるがまま」に受け入れることが「大切にする」ことだった。これからは、日本語にも片寄りがあり、そんな日本語によって嫌な思いをしている人がいることを認めて、誰もが気持ちよく仕える日本語にしていこうという気持ちで「大切にする」。

(「なぜ、新しいパートナー関係の呼び名が普及しないのか」より)

「まず、「正しい日本語」は、さまざまな時代の価値観を経て磨かれてきたので、特定の時代の価値観を超越していると言われる。すると、「嫁」や「主人」は家父長制やイエ意識を持続させていることばであることが見えなくなり、たんなる「正しい呼び名」だと認識される。自分で「選んでいる」という意識がないので、自分がこれまで使ってきた呼び名が「日本語の常識」で、提案された呼び名は「変な価値観に基づいた不自然な日本語」だと思いがちだ。

(・・・)

 そろそろ私たちは「正しい呼び名が決まっていない」という状況に慣れる必要があるようだ。」

(「新しい「日本語とのかかわり方」————自分のパートナー観を表明する時代」より)

「では、どんな日本語とのかかわり方が可能なのだろう。第一に、ことばを、正しいかどうかだけで見ない。「正しい日本語」も、特定の価値観を反映したルールに従っているだけだと認めよう。むしろ、自分にとって当たり前の呼び名も、たくさんの呼び名から「選んでいる」という意識を持つ。そうすれば、自分が使ってきた呼び名が、どんなパートナー関係を作っているかに思い至る。さらに、こんなパートナー関係でいたいから、この呼び名を使おうと考えるようになる。

 第二に、ことばと主体的にかかわる。できる時には、自分でことばを選んでみる。もちろん、ルールに従うだけでなく、自分の価値観に基づいてだ。自分のパートナー観のようなプライベートな情報を、人に知らせることに躊躇する人もいるだろう。でも現代は、たとえば、「夫」「と「主人」のどちらを使うかで、すでに違う関係を示唆してしまう。パートナーの呼び名に関しては、自分のパートナー観を表明せざるをえないのではないか。

 だとしたら、パートナーの呼び名の問題は、私たちの日本語に対する姿勢を変えるきっかけになるかもしれない。これまでは、日々使っていることばで自分のパートナー観を表明することなど思ってもみなかったかもしれない。しかし、日本語にも片寄りがあることを認めれば、日本語を使っている私たち自身が日本語の伝統を継承するとともに、より良くしていきたいと考えられる。まずは、パートナーの呼び方を自分で選ぶことから始めてはどうだろうか。」

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