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ミヒャエル・エンデ(田村都志夫訳)『エンデのメモ箱』

☆mediopos2950  2022.12.15

善と悪
という図式は
視点を固定すれば
物語的になってわかりやすいけれど
視点を変えると
それに応じて異なった様相が展開される

とはいえ善と悪は
相対化すればいいというものでもない

悪とは時機はずれの善
あるいは場所を誤った善だ
という視点もあるように
適切な時機と場所という視点が重要となる
つまり何にとって誰にとって
またどこにおいて「適切」かということである

「適切さ」といえば
動物たちの行動には
「善」「悪」という視点はないだろうが
行動目的に応じた「適切」さというのはある
しかしそれらは比較的固定的なありようをしている

それに対して人間にはいろいろな視座があって
それぞれに応じた「適切さ」に対して
「善」か「悪」かという価値づけがなされたりする

社会や共同体での支配的価値観に照らした「善」「悪」
特定の個人の価値観から価値づけられる「善」悪」
あるいは霊性の進化という視点からみた「善」悪」など

そうした「善」「悪」の物語を私たちは生きていて
異なった視座での異なった「善」「悪」観ゆえに
それぞれの善とそれぞれの時機はずれの善
それぞれの場所とそこで錯誤された善としての悪が
さまざまに相克しあうことになる

そうしたなかで
悪の自覚なき悪があり
悪の自覚ゆえの正機があり
みずからを善として疑わない善(あるいは悪)があり
みずからの善とされるものを
常に問いなおす善(高次の善)がある

世に生きるということは難しい
そこで自由であろうすることは
みずからのあえて択ぶ「善」「悪」の視座を
問い直し続けながら生きることでもあるのだろう

■ミヒャエル・エンデ(田村都志夫訳)『エンデのメモ箱』
 (岩波現代文庫 岩波書店 2013/5)

(「悪の像」より)

「偉大な文学では、悪はたいてい人を魅了する力を持つか、少なくとも興味深い。リチャード三世には、読者を感嘆させるルシファー的な輝きがある。リチャード三世のなんでもやる、恐れを知らぬさまは見事だ。メフィストーフェレスは、なんと言えども『ファウスト』で一番印象的な役だし、ダンテの「地獄編」は「天堂編」よりもおもしろいのである。文学では、善は通常、行儀がよく、おとなしい印象を与え、ちょっと退屈な感じがすることさえ、まれではない。
 生の現実では——あえて一般的に論じれば——悪は小物で卑劣であり、下品で臆病で惨めだし、結局は単調でみん同じだ。それにくらべ、善はかぎりなく多様であり(…)、偉大で、創造的だし、驚嘆させ、謎めいてもいる。
 悪の表現自体は悪ではない。善や聖の表現自体が善や聖でないのと同じである。むろんこれはわかりきったことだが、ここでそれを思い出すのは必要なようだ。芸術や文芸をはかる尺度は倫理のカテゴリーとなんら関係がない。それゆえ、本能がもっと確かだった時代には、表現された世界は額縁や台座や舞台により、生の現実から切り離されていたし——それは正しかった。今日では、人はこの二つのレベルを混乱させてやむことがない。そこでは淫らの表現はそて自体淫らであり、いやらしさの描出はそれ自体がいやらしく、残酷さの描写はそれ自体が残酷なのだ——そのさい、そんな作品の作者は通常生に現実とその真実らしさを楯にとるのである、
 このような価値の根本的なちがいは、一つの共通項にすべてを収めようとする、中途半端な教養の煩悩を混乱させた。想像力やポエジーや芸術一般の領域ではもっともであり、いや必要でさえあるものも、そのまま生の現実に当てはめることはできないし、当てはめてはいけない——そして、その逆もそうだ。この境界を愚かにも見過ごしたり、扇動のため、わざと越えれば、ねらいとはちょうど反対のことが起きるのだ。つまり、芸術やポエジーがあたえる効果は生の真実から遠ざかり、生の現実はさらに架空のものとなる。」

(田村都志夫「エンデ文学における「悪」について/岩波現代文庫あとがきの代えて」より)

「エンデ文学に現れた「悪」について、考えてみよう。」

「この物語の悪役たちにおいて、一番特徴的なことは、かれらが後に善良な者に「変身」することだろう。ミセス・イッポンバは叡智の黄金竜となり、海賊たちはジムの新たな親衛隊になる。
 つまり、かれらは善い人たちだったのだ、少なくとも、善い人たちでもあった。そう言えるだろう。この物語では、真に悪い人はいない。
 真に悪い人はいない……、それは、子どもの読み物にあまりにふさわしい「悪」観に聞こえる。しかも、『ジム・ボダン』は、ナチス時代の記憶がまだ生々しい頃のドイツで書かれ、出版されたのだそう考えると、ほとんど夢物語めいたい「悪」の捉え方のようにさえ感じてしまう人もいるだろう。この物語だからの話で、その後のエンデの文学活動では変わっていくのだろうか?
 いや、そうではない。
 一九七七年に発表された或るインタビューで、エンデはこう話しているのだ。

 「「悪」というのは、ある「善なるもの」が間違った場所にいるに過ぎない、というのが私の意見です。(…)

 この悪の捉え方は、まさに『ジム・ボタン』における「真に悪い人はいない」に匹敵する。一九七七年といえば、エンデはすでに『モモ』を出版し、『はてしない物語』を執筆中だった。

 「真に悪い人はいない」という「悪」観は、エンデの思索を通じてのものなのだ。だから、一見「子ども向け」に見えても、エンデの視線はさらに深みに達している(それに、そもそも、子ども用、大人用という分類をエンデはしない)。」

「『モモ』における悪を見てみよう。
 『モモ』での「悪」役といえば、いうまでもなく、あの灰色の男たちだろう。かれらは人々から本来の豊かな時間を盗み、枯れた葉巻にして煙と化させて消してしまう。灰色の男たちもカシオパイアとモモに退治され、物語の終わりには消える。
 『モモ』の「悪」役たちは、この物語の終わりで、善い人に変わるのではなく、無へ消えるのだ。言い換えれば、『モモ』における悪は、この世の存在ではなく。ある日無から出現し、また無へと忽然と消えるものなのだ。しかし、かれらは、ただ何もないところから現れるというだけでない。マイスター・ホラの言葉では、悪役灰色の男たちは、

 「人間が、そういうものの発生をゆるす条件をつくり出しているから」

出現するのであって、そうであれば、その条件が無と呼べるとも考えられるのだ。
 こうして、エンデはさりげなく、悪が出現する次元として、無を提出するのだった。
 そして、この無、あるいは「虚無」(どちらも語源は同じく「ニヒツ」である)が次の大作『はてしない物語』で中心テーマの一つになることを読者は体験する。

 この世に、真に悪い人はいない、が、悪は虚無からこの世へ出現する、ということなのだ。」

「エンデ文学は、ファンタジー考察へ招いてくれるが、同時に、その裏返しとして、虚無を見つめることをも勧めているわけだ。」

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