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木村 敏『異常の構造』

☆mediopos2838  2022.8.25

昨年亡くなった木村敏の『異常の構造』が
講談社学術文庫となって再刊された
(表紙に使われている絵は
以前medioposでもとりあげたヴィルヘルム・ハマスホイ)

講談社現代新書版が1973年刊なので
ほぼ半世紀ぶりである
読み直すのはほぼ40年ぶり

いまでは「統合失調症」と表現されるものが
本書では「精神分裂病」と表現されているのを除けば
半世紀前の著書はいまだ
そこで問われているテーマは色褪せるどころか
ある意味でますます重要なものとなっている

とはいえ現在では「統合失調症」そのものが
ずいぶん減っているようで
その「異常」とされることや人びとの有り様は
ずいぶん変わってきているようだ

その変化は管理社会化を背景に
「異常」もしくは
それに類するものへの意識はむしろ強化され
その反面建前のように
形だけ「差別してはいけない」という
教条ばかりが上滑りしているように見える

本書では科学信仰による合理性の「虚構」が
まずはとりあげられているが
いまやその「科学信仰」でさえ
政治的なご都合主義のなかで
肝心の「合理性」さえもが失われ
稚拙な「虚構」そのものが
まかり通るようになってさえいる

ある意味で本書でとりあげられている
「異常」に関する論考は
きわめて正統的な視点での
私たちの「常識的日常世界」への問い直しだが

現状ではその「常識的日常世界」そのものが
すでに「狂気」そもののと化している感がある

まるでスーフィーの譬え話にあるように
狂気になる水を飲んでいない者が
狂気になる水を飲んだ大多数の人たちにとって
狂気とみなされるような時代のようだ

政治家もメディアも
狂気になる水を配布し強いるのに余念がない
多くの者もまたみんなといっしょに
水を飲んで安心するようにそれに従ってしまう
それは「異常」とさえいえないような愚かさである

そんなことへの気づきのために
名著『異常の構造』を読むのはもったいない
重要なのはやはり
引用でもふれたような
常識的日常世界の「世界公式」を
問いつづけられる意識をいかに持ち得るかということだ

■木村 敏『異常の構造』
  (講談社学術文庫 講談社 2022/8)
■木村 敏『異常の構造』
 (講談社現代新書 講談社 1973/9)

(「1 現代と異常」より)

「現代の私たちの社会が「異常」なものごとに対して向けている関心の強さは、それ自体すでに十分、異常な現象というにあたいする。」

「科学に対する信仰あつき現代においては、一見偶然と思われるできごともすべて、科学の進歩がまだそこまでは及んでいないためにそう見えるだけであって、科学がもっと進歩したあかつきにはもはや偶然とはいえなくなるに相違ないというように考えられている。科学の進歩は原理上無限と考えられるから、真の偶然というようなものは原理上存在しえないということになる。こうして「異常」のはいり込む余地がますますせばまってきている現代だからこそ、現代の社会は、いわば異常に対する飢えから、異常な現象に対してかくも貪欲な関心を示すのではあるまいか。」

「現代という時代が科学の名のもとに絶対的な信仰を捧げている合理性が、はたしてそのような欠陥を含まぬ完全な合理性でありうるかということが、あらためて問いなおされなくてはならないことになろう。科学とは、私たち人間が自然を支配しようとする意志から生まれてきたものである。」

「大いなる偶然性・非合理性こそは自然の真相であり、その本性である。それが人間の眼に見せている規則性や合理性は単なる表面的な仮構にすぎない。真の自然とはどこまでも奥深いものである。自然の真の秘密は私たちの頭脳ではかり知ることができない。そのような自然を人間は科学の手によって支配しようと企てたのである。そして、自然の上に合理性の網の目をはりめぐらせて、一応の安心感を抱いて、その上に文明という虚構を築きあげたのである。
 現代の科学信仰をささえている「自然の合法則性」がこのような虚構にすぎないとしたら、その上に基礎をおくいっさいの合理性はみごとな砂上の楼閣だとうことになってしまう。」

「さまざまな異常の中でも、現代の社会がことに大きな関心と不安を向けているのは「精神の異常」に対してである。「精神の異常」は、けっしてある個人ひとりの中での、その人ひとりにとっての異常としては出現しない。それはつねに、その人と他の人びとの間の関係の異常として、つまり社会的対人関係の異常としいぇ現れてくる。ある人の「気が違った」ということは、さしあたっては、その人が特定のあるいは不特定の他人に対して示す行動がふつうではなくなったということである。」

「社会が「精神異常者」に対して不安を抱くのは、かれらにおいてこの虚構がまさに虚構として暴露されなくてはならないからである。のちにのべるように、社会が社会として存続しようとするかぎり、換言すれば人間が人間として生きのびようとするかぎり(というのは、人間は社会共同体を形成する以外に生きる道はないであろうから)、この不安はまったく正当な不安である。私たちがわれわれ自身の存続を望む以上、合理性の虚構は私たちにとって必要である。しかし、いかにそれが私たちにとって正当であり必要であるとはいえ、それがそれ自体において不当であり虚偽であることには変りがない。私たちは、いかなる形においてであるにせよ、事物のそれ自体において真である姿をゆがめ、これを隠蔽することなしには存続しえない定めを負うている。ここに人類の原罪がある。しかし、しょせん罪あるものならば、虚構は、それがいかに避けられぬものであるとはいえ、虚構として暴露されなくてはならないのではないか。」

(「7 常識的日常世界の「世界公式」」より)

「常識的日常性の世界とは、私たちのだれもがふつう特別な反省なしにその中に住みつき、その中で生活を送り、その中でものを見たり考えたりしている世界である。この世界は私たちにとってあまりにも身近な世界、あまりにも自明な世界であり、いわば私たち自身の存在、私たち自身が「ある」ということがそれと一つのこととして同化しきってしまっている世界であって、私たちはこれを対象化して認識したり、いわんやそれの構造を問題にしたりすることには慣れていない。」

「常識的日常性の世界の一つの原理は、それぞれのものが一つしかないということ、すなわち個物の個別性である。ひとつひとつのものはすべてそれ自身の独自の存在を有していて、それとは別のものが外見上どのようにそれに似ていようとも、その存在の個別性という点において他からは絶対的に区別されている。」

「常識的日常性の世界を構成する第二の原理としては、個物の同一性ということをあげることができる。それぞれのものは、いついかなるときにも、いかなる場所におかれても、それ自身であることに変わりはなく、それ自身でない別のものになることはない。」

「常識的日常性の世界の第三の原理は、世界の単一性ということである。ここで世界というのは、人類の住んでいる世界とか、地球上の地理学的な世界とかではなく、いわば宇宙の全体の意味である。つまり、人間の考えうるかぎりでの時間的空間的領域のすべてのことであり、私たちのいかなる行動も、いかなる思考も、けっしてそれの外に出ることのないような存在の場のことである。」

(「10 異常の根源」より)

「異常の意味を問いつづけてきた私たちの考察は、結局のところ、私たちそれぞれがそれの構成員であるところの「正常」の世界、つまり常識的日常性の世界の構造を、それの正当性に関してあらためて問いなおすという要請へと導かれることになった。私たちが自明のこととして無反省に受けとっている「正気」の概念は、みずからが拠って立っている常識的合理性を脅かすいっさいの可能性を、「狂気」の名のもとに排除することによってのみ存続しうるような、きわめて閉鎖的で特権的な一つの論理体系を代表するものにすぎなことが明らかとなった。しかもこの独善的な論理体系がみずからを「正常」と僭称しうるための唯一の根拠は、私たち人間が生存を求めているというこの単純な事実の中にしか見出されえないのである。日常性の正常さを保証する基本公式は、そのまま私たちの生存への意志の基本公式でもあった。
 しかし私たちはここで、この論理は私たちの生存への意志の論理ではあっても、生命そのものの実相をあらわした論理ではないことに注意しておかなくてはならない。」

「分裂病を「病気」とみなし、これを「治療」しようという発想は、私たちが常識的日常性一般の立場に立つことによってのみ可能となるような発想である。そして私たちは、みずからの個体としての生存を肯定し、これを保持しようという意志を有しているかぎり、しょせんは常識的日常性の立場を捨てることができない。私たちにできるのはたかだかのところ、この常識的日常性の立場が、生への執着という「原罪」から由来する虚構であって、分裂病という精神の異常を「治療」しようとする私たちの努力は、私たち「正常者」の側の自分勝手な論理にもとづいているということを、冷静に見きわめておくぐらいのことにすぎないだろう。」

【目次((講談社学術文庫)】

1 現代と異常
2 異常の意味
3 常識の意味
4 常識の病理としての精神分裂病
5 ブランケンブルクの症例アンネ
6 妄想における常識の解体
7 常識的日常世界の「世界公式」
8 精神分裂病者の論理構造
9 合理性の根拠
10 異常の根源
あとがき
解 説(渡辺哲夫)

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