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ハン・ジョンウォン『詩と散策』

☆mediopos-3117  2023.5.31

散歩を愛し
猫と一緒に暮らしているという
詩人ハン・ジョンウォンのエッセイ集(翻訳)が
書肆侃侃房から出されている
この本が著者のはじめての本だという

「散歩する」ということは
目的地にたどり着くためのものではない
散策しながら詩とともにあるようなもの

そうすることで
私たちは「違う人」になっていく

「散歩から帰ってくるたびに、
私は前と違う人になっている。
賢くなるとか善良になるという意味ではない。
「違う人」とは、
詩のある行に次の行が重なるのと似ている。
目に見える距離は近いけれど、
見えない距離は宇宙ほどに遠いかもしれない。
「私」という長い詩は、自分でも予想できない行を
いくつもくっつけながら、ゆっくりと作られる。」

ああそうだと心から思う

「散歩する」ように詩を生きることは
スマホを見ながら目的地を目指すことや
ChatGPTで文章を作成することのような
「答え」の出力機になることではない

その違いがわからなくなったとき
「散歩」も「詩」も意味を持ちえなくなる

またひとは「幸せ」のかたちを得るために
生きているのではない

こうすれば幸せになれるというような
与えられた「答え」としての幸せは
決められた目的地に向かうだけの散歩と同じ

ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる
時間どろぼうの物語のように
現代では効率と決められた答えが
ひとから「散歩」を「詩」を奪い去っていく

だいじなのは
「取るに足りないものなどなに一つない、
と思う心」からはなれず生きること
「答え」のために生きているのではないのだから

■ハン・ジョンウォン(橋本智保訳)『詩と散策』
 (書肆侃侃房 2023/2)

(「散歩が詩になるとき」より)

「インディアンの少女が友達に、自分の家に来る道順を教える。

   垣根のある道を抜けたら、海と反対側の枯れ木のほうに来るの。そのうち、細い流れの川が見えてくるから。そしたらね。緑の木に囲まれるまで上流にむかって歩いてきて、太陽の沈むほうに、川の流れに沿って、そのうちぱっと道が開けて、平らな土地が見えてくるんだけど。そこがあたしんちよ。

 この頃は、通りの名前や番地を見て家をさがす。それすらも、スマートフォンに住所を入力する手間だけかけて、あとはそれを見ながら目的地まで行く。だが、その地図には化石のように固まった空間が広がるだけで、私たちの周りで滔々と流れる時間を見せてはくれない。木々の青さ、川の渦、風の震え、動物の脈拍は、そこにない。初めから存在しないかのように消されている。
 だからインディアンの少女の口から出てくる言葉は、私にはなじみのないものだが、愛らしい詩のように聞こえる。垣根、海、枯れ木、上流、平らな土地、などの詩語と、それらのあいだにある飛び石を踏んで家をさがすその子は、友達の家にたどり着いた頃には一篇の詩を読んだことになる。あの子はもうこの詩を読んでるよね、などと思いながら、自分の目で一度、友達の目でもう一度読むうちに、互いに心が通い合うようになるだろう。
 あなたという目的地を入力して一気にたどり着くのではなく、途中、あれこれささやかな苦労や美しさを経て、それらのすべてが合わさったとき、はじめてあなたに辿りつける。そんなプロセスがあったらいいのにと思う。」

「猫たちが横になれる場所、実をつけるかもしれない木、泣きながら眠った人たちの家・・・・・・散歩をするとき、私がきょろきょり見渡すものも、どれも取るに足らないものばかりだ。しかし私の心の名かいは、大きなものとそんなささいなものが共存するために、それほど傷ついたり長く苦しまなくてすむ。日々の暴力や陳腐なものにめったに染まることもない。
 私の目で見たものが、私の内面を作っている。私の体、足どり、まなざしを形づくっている(外面など、実は存在しないのではないか。人間とは内面と内面が波紋のように広がる形象であり、いちばん外側にある内面が外面になるだけだ。容貌をほめられてもすぐに空しくなって、真のほめ言葉にならないのもそのためだ。どうせならこう言うのはどうか。あなたの耳はとても小さな音も聞こえるのね、あなたの瞳は私を映すのね。あなたの足どりは虫も驚かないほど軽やかなのね、と)。そのあとまた、私の内面が外をじっと見つめるのだ。小さくて脆いけれど、一度目に入れてしまうと限りなく膨らんでいく堅固な世界を。
 だから散歩から帰ってくるたびに、私は前と違う人になっている。賢くなるとか善良になるという意味ではない。「違う人」とは、詩のある行に次の行が重なるのと似ている。目に見える距離は近いけれど、見えない距離は宇宙ほどに遠いかもしれない。「私」という長い詩は、自分でも予想できない行をいくつもくっつけながら、ゆっくりと作られる。

   詩は意味するものではなく、存在するもの
        アーチボルド・マクリーシュ「詩学」

 違う人に違う人に違う人になっていくあいだ、私はただ存在する。
 散歩を愛し、散歩の途中で息を引き取ったローベルト・ヴァルザーもこう言っている。

   わたしはもはやわたし自身ではなく、ほかの人間であり、まさにそれゆえにいっそう、わたし自身なのでした。

        ローベルト・ヴァルザー「散歩」(ローベルト・ヴァルザー作品集4 散文小品集1」新本史斉、フランツ・ヒンターエーダー=エムデ訳、鳥影社)」

(「幸せを信じますか」より)

「ひとり物思いにふけって歩くほうなので、街で布教をしている人につかまることがよくある。(・・・)その日は、横断歩道で不意に声をかけられたので、避けるタイミングを逃してしまった。

  すばらしい福運に恵まれているのに、ご先祖様が邪魔をしていますね。
  はあ。
  福運を取り戻す方法があります。
  そうなんですか。
  幸せになれるんですよ。
  べつに幸せになりたくはありませんから。
  幸せになりたくない人なんていますか?
  私です。
  え? なんですって?

 布教者の声は怒気を帯びていた。信号が変わらなければ、私と言い争った末に堪忍袋の緒を切らしていたかもしれない。
 私はひとり横断歩道を渡った。幸せになんかにこだわらなければ、あなたはいまよりずっと楽に生きられますよ、と言いたいのを我慢して。
 私は幸せうんぬんにうんざりしていて、「幸せ」という言葉を辞書から削除してしまいたいと思っている。もしくは意味を変えるとか。(・・・)もちろん、軽々しく使われるのが問題なのであって、言葉にはなんの罪もないことは承知している。
 道で会った布教者には嫌みな言い方をしてしまったが、「幸せになりたい」というのは、より正確に言うと「幸せを目標にして生きたくない」という意味だ。多くの人が幸せを〝昇進〟〝結婚〟〝マイホーム購入〟などと同義語だと思っている状況ではなおさらだ。
 幸せは、そんなありきたりで画一的なものではない。目にも見えない、言葉でもうまく言い表せない、手相のほうに人それぞれ違ったものなのだ。幸せについて語るのは。互いの手のひらを見せ合うような秘密めいたことでなければならない。
 私は自分の手をじっと見つめる。私はいつ幸せだっただろう。不安や寂しさもなく、成就も自負心もなく、ただ純粋に嬉しかったことがあっただろうか。」

「   愛はただ方向を決めるものであって、魂の状態ではないことを知らなければならない。それを知らなければ、不幸が襲ってきた瞬間、絶望に陥る。
        シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

 これは愛についての記録だが、私は「愛」の代わりに「幸せ」を入れてもう一度読んでみる。「幸せはただ方向を決めるものであって、魂の状態ではない」と。
 幸せが理想的な魂の状態だと思うから、私たちは絶望に陥りやすい。ある状況や条件の中で、受動的に得たり失ったりすることが幸不幸だと決めてしまうと、永遠にそのしがらみから抜け出せない。手に入れられないものが多く、毀されてばかりの人生でも、歌を歌おうと決めたらその胸には歌が生きる。歌は肯定的な人の心に宿るというよりも、むしろ必要にかられて呼び寄せる人に沁み入るのだ。
 私たちはいつも「方向」を選ぶ。単に幸せを目標にするのではなくて、目の前に拡がるありとあらゆる可能性の中でいちばん善い道を宿している矢印についていく。その不立ちじゃ初めは一致しないかもしれない。しかしいずれ、幸せは善のほうに入っていくだろう。
 だから「幸せ」なんて言葉はなくてもいい。私の最善とあなたの最善が向き合えば、そして私の最善と私の最善が向き合えば、私たちはもう「幸せ」にたよる必要もない。
(・・・)
 幸せなんて言葉は(・・・)忘れてしまおう。できれば「不幸」も忘れよう。
 うれしくて悲しいことを、ただ歌おう。」

(「日本の読者のみなさんへ」より)

 私は散歩を愛しています。歩きながら見たり聞いたりした、すべての些細なことを大切にしてきました。それらは必要なときに、悲しみと絶望に立ち向かえる力になってくれました。詩もそうです。私は正式に詩人としてデビューしたわけではありませんが、どこでなにをしていようと「詩人の心」を持って生きようと自分に言い聞かせてきました。この本に書いたように「取るに足りないものなどなに一つない、と思う心」を持って。

【著者プロフィール】ハン・ジョンウォン (한정원)
大学で詩と映画を学んだ。修道者としての人生を歩みたかったが叶わず、今は老いた猫と静かに暮らしている。エッセイ集『詩と散策』と詩集『愛する少年が氷の下で暮らしているから』(近刊)を書き、いくつかの絵本と詩集を翻訳した。

【訳者プロフィール】橋本智保(はしもと・ちほ)
1972年生まれ。東京外国語大学朝鮮語科を経て、ソウル大学国語国文学科修士課程修了。訳書に、キム・ヨンス『夜は歌う』『ぼくは幽霊作家です』(新泉社)、チョン・イヒョン『きみは知らない』(同)、ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』(同)、ウン・ヒギョン『鳥のおくりもの』(段々社)、クォン・ヨソン『レモン』(河出書房新社)『春の宵』(書肆侃侃房)、チェ・ウンミ『第九の波』(同)ユン・ソンヒほか『私のおばあちゃんへ』(同)など多数。

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