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田中さをり『時間の解体新書――手話と産みの空間ではじめる』

☆mediopos-2546  2021.11.5

本書では手話から開けてくる世界把握が
時間の流れや出産の哲学にまで結びつけられている

まず目をひらかれた思いがしたのは
これまで哲学は音声や文字によって表される
言語によって展開させられてきたという視点である

たしかに哲学は「時間軸上を細く流れる
渓流のよう」な言語で表現されるが
それに対して手話は「空間を文法化して、
手や視線や身体のいろいろな場所を
同時に使うことができる」言語で表現される

手話空間(メンタルスペース)には
「鳥瞰視点空間」と「等身大視点空間」の
二つがあるという

それを時間把握の観点からとらえてみると

「鳥瞰視点空間」では
鳥が地上を眺めているときのように
「時間は歴史年表を見るときのように
各時点が直線的に一列に並んでみえるが

「等身大視点空間」では
時間は「私の目の前にあなたという
もうひとりの当事者がみえている」ように
「目の前でありありと流れている」と感じられ
発話の当事者を中心に広がる等身大の空間が
受け手にも共有されながら流れている

手話を使ってしゃべるとき
この二つの異なった空間は区別され
その二つの空間のあいだが
自覚的にいったりきたりされているという

このように世界を認識する主体は一様ではない
この場合は手話がとりあげられているが
他の感覚を使った言語及び言語に類する表現があれば
異なった視点がそこにひろがってくるはずだ

認識主体を多様なものとしてとらえ
さらにひとりの認識主体のなかにも
さまざまな認識の様態を拡張していくことで
世界認識もまたそれに合わせて
拡張していくことが可能となる

本書の最後に収められている森岡正博による解説では
著者の手話や出産をめぐる話から
ふたつの時間把握の興味深いアイデアが示唆されている

ひとつは円環的な時間構造である
時間は過去から未来へと一直線に進むのではなく
「たえず新しい主体が何度も誕生するという
円環的なものにシフトしていく」という視点である

過去から未来へという単線的な時間はあり得るのだが
それらを日々の就寝・起床や四季の巡りといった
さまざまな円環的な時間構造が支えているというもの

このひとつめの視点は比較的示唆されることもあるが
興味深いのはふたつめの
「時間が流れるということそれ自体を、
ひとつの出産として捉える」という視点である

宇宙が自己出産しているように
時間を「私という主体を包み込んでいる全宇宙が、
新たな全宇宙を出産し続けていく
果てしないプロセスとして」とらえるというもの

こうして「手話」と「出産」からはじまる話は
時間認識の解体と拡張へと拡がっていく

■田中さをり『時間の解体新書――手話と産みの空間ではじめる』
 (明石書店 2021/10)

「興味深いことに、学術的な哲学の議論で使われる音声言語と日常会話的な手話では、形式だけでなく、感覚的イメージも異なる。一つの違いとして、哲学の議論を音声で聞いていても、位置関係がみえにくいことが挙げられる。例えば私自身は、誰かに過去の出来事を音声で伝えるときでも、声真似を交えてその場の様子が見えるように話す傾向がある。これは特に女性同士の会話にはよく見られる傾向だが、私は文章を書くときでも、その場の様子を記憶した映像をなぞるように文章化する。手話を使っているときは初学者ながらもこうした特徴がより顕著になる。一方で、哲学分野では、ピッチの高低差があまりない単調な音声で高速で発声する人が多くて、これは慣れるまでかなり時間がかかった。
 大学内の哲学講座の講義などでは、書かれた原稿を読み上げたり、哲学書のテキストを引用したりしながら議論が進む。板書で図表を書いたりすることもあるものの、単語や物同士の位置関係はあまり重要視されず、空間が言語の文法に入り込みにくい議論のスタイルのように思えた。空間を文法化して、手や視線や身体のいろいろな場所を同時に使うことができる手話とは違って、哲学の議論は、時間軸上を細く流れる渓流のようでもあった。
 このような違うが生む固有の哲学問題もありそうである。身振り・手話・音声・文字というモードの連続性や非連続性は、これまでの哲学の議論そのものを相対化する力をもつのではないか。
 本書ではこうした問題意識をもとに、手話が既存の西洋哲学の文脈でどのように扱われてきたのかを見ていくととともに。手話の空間で既存の時間論を解体することを試みる。手話と音声の非連続性をできるだけ明らかにしていくつもりである。また、言語としてのこれらの連続性についても焦点を合わせるため、時間の延長にある生と死の問題の分析に、改めて「産む性」の視点を導入する。
 「産む性」とは、文字通り出産する性のことであるが、ここでは「出産という出来事を時間の経過とともに体験しつつある女性」という意味で用いる。意外に思われるかもしれないが、産む性の視点には、手話と同様、空間的な思考が含まれている。出産の前後では、「私」と「子ども」、「私の出産」と「他の誰かの出産」というそれぞれ2つの視点が重なって会話の中に入り込むためだ。この複層性は、時間の問題の先にある、生と死の問題を考える上で強力な道具になる。」

「本書の目的は、世界を認識する主体の多様性を示すことで、人間の定義とともに哲学そのものを拡張することにある。第一に、思考を支える映像性や空間性とその正確な表現力を兼ね備えた哲学があったならば、音声言語の枠組みに閉じられた哲学の問題を、よろ広い地平に開放できるのではないか。第二に、産む性に焦点を合わせ、産むことと死ぬことを同列に考えられる哲学があったならば、既存の男性を中心とする思考によって支えられた哲学を拡張できるのではないか。こうした二方面への拡張を試みながら、本書の議論は進められる。」

(森岡正博「解説 手話からみえてくる時間の流れと出産」より)

「手話は、耳の聞こえない(あるいは聞こえにくい)人々によって使用されてきた。それはひとつの言語文化として古来より受け継がれてきている。田中さんも指摘するように、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、人間の知性にとって聴覚は決定的に重要だと考えており、西洋における聴覚障害者への差別的視線がここから生まれたとも言える。この流れは日本の障害児教育にも持ち込まれ、手話ができるよりも口でしゃべれることのほうが人間の知性にとって大事、という考え方が作られた。その過程で、手話についての哲学者ヴントの学説が歪められて日本に受容されていく。」

「英語圏の時間の哲学では、マクダガートの時間論がよく議論される。」
「田中さんの提唱する手話空間の時間論を考えてみたい。
 手話空間(メンタルスペース)には、「鳥瞰視点空間」と「等身大視点空間」の二つがあると田中さんは言う。「鳥瞰視点空間」とは、ちょうど空を飛ぶ鳥が地上を眺め下ろしているような感じのもので、時間は歴史年表を見るときのように各時点が直線的に一列に並んでみえるのである。これに対して「等身大視点空間」とは、まず私というかけがえのない当事者がここにいて、その私の目の前にあなたというもうひとりの当事者がみえているという感じのものである。このとき、まさに時間は目の前でありありと流れているように感じられ、未来のことは現在となり、現在のことは過去になる、というふうな把握がなされる。
 そして手話を使ってしゃべるときには、この二つの異なった空間が区別されていて、話者はこの二つの空間のあいだを自覚的に行ったり来たりしながらしゃべるのである。この二つの空間の区分はたいへん興味深い。そしてこの手話空間の視点から見てみれば、マクダガートの時間論ではこの二つの空間の区別がそもそもなされていないため、時間が進む向きを先取りして理解している主体がマクダガートによって恣意的に想定されている、というのが田中さんによるマクダガート批判の骨子である。」

「女性たちによる妊娠出産の果てしない連続のラインに即する場合、時間の基本進行モードは過去から未来へと一直線に進む単線的なものではなく、たえず新しい主体が何度も誕生するという円環的なものにシフトしていくとも考えられる。円環的な時間構造は、マクダガートの時間論に欠如しているものである。円環的な時間構造をもっとも大きな次元で表しているのは四季の巡りであり。もっとも小さな次元で表しているのは日々の就寝と起床である。出産と死という生命の基本に立ち返るとき、それにもっとも適合的な時間の流れは日々の就寝と起床、および四季の巡り、そして同じ事象が何度も装いを新たに繰り返し起きてくる人類の歴史である。もちろん単線的な変化、不可逆的な移り変わり、始点と終点はあり得るのだが、それらを支えているのは大小の円環的な時間構造だと考えてもよいのではないか。
 さらには、時間が流れるということそれ自体を、ひとつの出産として捉えることもできそうに思う。時間が流れるとは、いまあるものの内部から、いまないものが出現することであり、そのような出来事がひたすら続いて起きることである。この、いまあるものの内部から、いまないものが出現するというのは、まさに出産そのものではないか。マクダガートや多くの哲学者たちは、未来が現在になり、現在が未来になるというふうにして時間の流れを考えたが、それだけが解答ではないだおる。私という主体を包み込んでいる全宇宙が、新たな全宇宙を出産し続けていく果てしないプロセスとして時間の流れを捉えてみることもできるはずだ。これは存在が別の存在に変化するという意味での単なる生成ではない。ある存在の内部から別の存在が生まれ出るのである。そしてそれがずっと続いていくのである。全宇宙が全宇宙を出産するのであるから、そこにおいては出産するものと出産されるもののあいだの区別はあいまいになる。境界のあいまいさというのは、出産の根本的な特徴のひとつである。宇宙の場合はその外部がないのだから、宇宙の自己出産に近い。これはたしかに人間の女性の出産とは異なる。しかしひとつの出来事の形としてはあり得るだろう。
 わたしはまじめにこのようなことを考えているのだが、田中さんの本書はこのような奇妙なアイデアを生み出す新鮮なパワーを持った物である。」

【もくじ】より

はじめに

第1部 手話と哲学者のすれ違い
1 声と魂の強すぎる結びつき
2 手話―口話論争のジレンマ
3 音象徴と図像性
4 原始的な言語への曲解

第2部 時間論を手話空間で考える
5 時間はリアルなのか
6 手話の4次元空間
7 問題と言語形式の不一致
コラム 日本手話のリズム

第3部 生と死の現実を産む性の視点で考える
8 誰のものでもない現実
9 死ぬことと生まれること
10 誰かの出産と私の出産、そして死

文献一覧

解説 手話から見えてくる時間の流れと出産 森岡正博

おわりに
初出情報


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