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波平恵美子『病気と治療の文化人類学』/シュタイナー/イタ ヴェーグマン『アントロポゾフィー医学の本質』/シュタイナー『病気と治療』

☆mediopos2924  2022.11.19

シュタイナーは
「治療はよいものだ。治療は義務だ」といい
同時に「病気によって死ぬのは、よいことだ。
人間の進歩全体にとって、死は慈善なのだ」ともいう
その矛盾をとおして認識を高め
高次の調和へとみずからを導くことが重要だからである

「病気の本質は、アストラル体あるいは自我が
物質有機体と強く結びついていることである」
というように
シュタイナーの病気への基本的視点は
物質的身体とエーテル体からなる外的な人間と
アストラル体と自我からなる内的な人間との
関係性から論じられることが多いが

現代の医学における治療は
人体を物質的な自然プロセスとしてとらえ
そのプロセスが「どのように」病気とされるものを
つくりだしているかを明らかにすることで
その原因を取り除き修復するというように
機械の部品交換のようにする発想からきている

ちょうど医療人類学を提唱した記念碑的名著とされる
波平恵美子の『病気と治療の文化人類学』が
文庫化された(当初の刊行は一九八四年)ところだが

そのなかで
「医学の発達は「どのように」病気になるかを
より詳細に明確にしてくれるであろうが、
それは「なぜ」という疑問には答えてくれない」
それに対して
未開社会や伝統的社会では
その双方の説明がなされることが多いという
つまり病気に対する「意味づけ」が
治療にはともなっているというのである

その「意味づけ」は勿論多くの場合
民俗医療や治療儀礼
宗教・民間信仰・シャーマニズムなどによるものだが
ともあれ「病気」の背景には
社会的・文化的意味が存在している

未開社会や伝統的社会の医療と
現代的なそれとを比較すると
大きく二つの態度に分けられるのだという

「エティック」(etic)な視点と
「イーミック」(emic)な視点

前者は「病気」や「治療」を客観視するもので
後者はそれぞれの文化によって
病気か「常態」かが決められているという視点である

わたしたちの社会では今や「エティック」が支配的である
医者が「病気だ」といえばそれは「病気」で
「病気ではない」といえば「病気ではない」ことになる
とはいえ現代ではなんでもかんでも「病気」にして
それに名前をつけて「治療」しようとすることが多い

部品交換のような方法がそれなりに有効な場合もあるが
ほとんどが器官の部分へのピンポイント攻撃のようなもので
人間の全体を調和的な方向に導こうとするような
「意味づけ」の発想はあまり見当たらない

そしてむしろ「エティック」な「病気」と「治療」が
強大な宗教のようなかたちで君臨するようにさえなっている
それもまた切実なまでの「文化人類学」の対象として
考察されていく必要がありそうである

シュタイナーの医学的観点では
人間の魂も精神も病むことはない
病むのは外的人間(物質的身体とエーテル身体)であり
それは主に内的人間(アストラル体と自我)との関係が
病的な状態となることが原因である
決して部品交換のような視点ではない

そしてそこでは
未開社会や伝統的社会でも重要視されている「意味づけ」が
人間の生と死を通じた宇宙論的視点からなされている

治療するためには
可能なあらゆる方法を使う必要があり
同時に病気そのものによって可能になる
生と死を超えた「意味」を認識する必要がある
その矛盾ともみえるところではじめて
「病気」と「治療」をめぐる「医療」の意味が
明らかにされるという視点は説得力がある

■波平恵美子『病気と治療の文化人類学』
  (ちくま学芸文庫 筑摩書房 2022/11)
■ルドルフ・シュタイナー/イタ ヴェーグマン(浅田豊・中谷三恵子訳)
 『アントロポゾフィー医学の本質』
 (水声社 2013/4)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)『病気と治療』
 (イザラ書房 1992/5)

(波平恵美子『病気と治療の文化人類学』〜「序」より)

「未開社会や伝統的社会の医療とわれわれのそれとを比較する時、大きく分ければ二つの態度、視点が考えられる。一つは、できるだけ普遍的・客観的規準によって、それぞれの社会の人々の「病気」や「治療」といわれる状態を客観視し、それらを比較することである。これは、言語学上の用語を用いて「エティック」(etic)な視点であるという。
 それに対し「イーミック」(emic)な視点とは、それぞれの文化の人々が「病気だ」とすればそれはやはり病気なのであり、「常態だ」とすればやはり健常なのである、とする立場を取ることである。」

(波平恵美子『病気と治療の文化人類学』〜「第一章 病気の意味づけ」より)

「病気は多様な方法で意味づけされていると考えられる。なぜ、病気はこれほど豊かに意味づけされているのか。大きな理由は、病気は誰にでも起こりうる、その点では日常的な現象であるが、病気になった本人や近縁の人々にとっては苦痛で不幸な現象であり、病気に耐えるためにそれにさまざまな意味づけをすることであろう。病気が自分にとって何か「意味のあるもの」となった時、自分の生存を脅かす病気を耐え忍ぶことができる。(・・・)
 苦痛が強いほど、長期間であるほど意味づけが行われる可能性が高くなる。どのように医学が発達しても、人間は死から逃れることはできず、事故しない限り人は何らかの病気で死ぬのである、したがって病気から逃れることはできない。医学の発達は「どのように」病気になるかをより詳細に明確にしてくれるであろうが、それは「なぜ」という疑問には答えてくれない。未開社会や伝統的社会では「どのようにして(how)病気になったのか」と「なぜ(why)病気になったのか」の双方の説明を持つことが多い。しかし医学が発達したわれわれの社会では、「どのように」が「なぜ」を圧倒している。ないしは、「なぜ」という疑問は建て前としては問われないことになっている。産業化された社会は「なぜ」に答える文化的要素(たとえば信仰)を失いつつあるのだとも言える。」

「少なくともわれわれが生きている産業化された社会、医学の発達した社会では、「ありのままの病気」とは医学が明らかにする病気だとすれば、それを意味づけされた病気と区別することができるだろう。」

(波平恵美子『病気と治療の文化人類学』〜「第五章 病気と治療の文化人類学」より)

「文化全体と深く結びついた伝統的医療体制が支配的な社会に、普遍性の高い西欧的科学から発達した現代医学が入ってきた時、両者間の摩擦は単に医療に直接携わる者の間で起こるだけではない。現代医学を支える思考様式が医療を受ける側の人々にその伝統的慣習や思考様式の混乱を引きおこすために、現代医学に対する不信や反感を生じさせる。現代医学は感染症などに対して劇的な効果をあげ得るにもかかわらず、現代医学に接した人々の信頼を急速に得ることができないのは、医療がどれほど強くかつ総合的・複合的にその文化と係わってくるかを示すものである。
 一方、現代医学がほとんど何の抵抗もなく受け入れられる場合もある。しかしその場合、現代医学の業績の大きさにもかかわらず、伝統的医療をまったく排したり消失させたりすることはなく。むしろ併存する形をとる。」

(ルドルフ・シュタイナー/イタ ヴェーグマン『アントロポゾフィー医学の本質』)〜「第二章 なぜ人は病気になるのか」より)

「「人は病気になり得る」という事実について熟考する者が、単に自然科学的に考えようとすると、ある矛盾に陥る。彼はさしあたり、この矛盾は存在の本質そのものの中にあると仮定せざるを得ない。病気のプロセスで生じることは、表面的に考察すれば自然のプロセスである。健康な状態において、その代わりに起こることも、また自然のプロセスである。
 自然のプロセスを知るには、まず人間以外の世界を観察し、それから外的な自然を観察するのとまったく同じように人間を観察するしかない。そのさい、人間を自然の一部と考え、そこで生じるプロセスが非常に複雑であるとしても、人間以外でも観察されるものであり、この外的な自然のプロセスと同じ種類のものである、と考えるのである。
 しかしここで、この観点からは答えられない疑問が生じる。「健康なプロセスに逆行する自然のプロセスが、どのように人間の内部で発生するのか。(ここでは動物については考えない、)」
 (・・・)
 人間の内の霊的なものは、その物質的基盤とした、人間の外側にある自然の継続のように、ある複雑な自然のプロセスを有しているのだろう、と人は想像しがちである。しかし健康な人間の有機体に根差している自然のプロセスの継続が、霊的な体験をかつて呼び起こしたことがあるだろうか。事態はその逆である。自然のプロセスがそのまま継続すると、霊的体験は消える。睡眠中がそうであり、気を失ったときも同様である。
 それに反して、ある器官が病気になると、いかに意識的な霊生活が研ぎすまされるかに注目してほしい。痛みや、あるいは少なくとも気分の悪さや、不快感が生じる。感情生活は普段とは違う内容になる。そして意志生活は妨げられる。健康な状態の時にはまったく自然に行える手足の動きが、痛みや不快感によって妨げられるので行うことができない。」

「病気の本質は、アストラル体あるいは自我が物質有機体と強く結びついていることである、と認めざるを得ない。しかしこの結びつきは、健康な状態においては穏やかであるものが、ただ単に強まったものにすぎない。またアストラル体と自我機構の人体への正常な介入も、病気のプロセスに似たものであり、健康な生命プロセスに似たものではない。霊と魂が働きかけると、それらは体の仕組みを解除する。霊と魂は体の仕組みを逆のものに変える。それとともに、有機体は霊と魂によって、病気がはじまろうとする過程へもたらされる。しかし通常の生活では、それが発生した直後に、有機体は自己治癒によって調整される。
 霊的もしくは魂的なものが有機体に向かって極端に押し進むと、病気にある種の型が現れ、その結果、自己治癒がまったく、あるいは緩慢にしか生じることがない。
 つまり、病気の原因は、霊および魂の能力に求められるべきである。そして治療は、魂的なもの、もしくは霊的なものを、物質機構から引き離すことであるに違いない。
 これが病気の一つの種類である。もう一つ、別の種類もある。自我機構とアストラル体が体いぇきなものと穏やかに結びついていることが、通常の生活における、独立した感情、思考、意志の前提となっているが、これが妨げられていることがある。すると、霊と魂が近づくことのできない諸器官や諸過程において、健康なプロセスの継続が有機体にふさわしい程度を超えて生じる。この場合、物質有機体がただ単に外的な自然の、生命のないプロセスのみを遂行するのではないことが、霊的な観照によってわかる。物質有機体はエーテル有機体によって浸透されている。単なる物質有機体だけでは、自己治癒のプロセスを決して呼び起こすことはできないだろう。自己治癒のプロセスは、エーテル有機体の中でかきたてられる。したがって、健康とはエーテル有機体の中にその根源があるある常態である、ということが認識される。それゆえ、治療とはエーテル有機体の手当てにあるはずである。」

(ルドルフ・シュタイナー『病気と治療』〜「病気と治療」より)

「内的な人間の観点から見るか、外的な人間の観点から見るかで、人生は異なって見えると精神科学が述べるのは理解できないことではないと思います。二つの異なった観点があるのです。抽象的にこの二つの観点を結合しようとする者は、たんにひとつの理想、ひとつの判断があるのではなく、多くの判断、多くの観点があるということを考慮しているのです。(・・・)内的人間に関する観点は、外的人間に関する観点とは異なっていると推測することができます。どの観点から考察するかによって、真理はまったく相対的なものであるのです。
 外的な事物については、絶対的な真理というものはありません。さまざまな観点から考察しなければなりません。個々の小さな真理がたがいに照らしあって、大きな真理が見出されるのです。ですから、物質体とエーテル体からなる外的な人間と、アストラル体と自我からなる内的な人間が人生のなんらかの進化段階においてまったく調和している必要はないのです。昼間の体験を夜、霊的な世界にたずさえていき、それを規則的に能力や知恵のエッセンスに変化させていると、外的な人間と内的な人間が調和していきます。霊的な世界から物質界に力を毎朝たずさえてくるのですが、物質体という限界を越えることはできません。この限界を考慮しなければなりません。しかし、この限界を越える可能性があるのです。
 人間は絶えずこの限界を越えているのです。実人生において、限界の超越は絶えずおこなわれています。たとえば、物質体に働きかけるとき、アストラル体と自我は限界を守りません。そのことをとおして、アストラル体と自我は、物質体に植え付けられた法則性から外れるのです。そのような限界の突破に際して生じるものを、わたしたhcいは物質体の不規則性、物質体組織の破壊のなかに見ます。精神によって、アストラル体と自我によって引き起こされる病気が現れるのです。
 ほかの方法によって、限界を越えることも可能です。内的な人間が外界と一致せず、外界との完全な調和を拒むことによって限界を越えるのです。」

「どのような病気も、内的な人間と外的な人間とのあいだの不調和、境界超越なのです。絶えざる境界超越がおこなわれていることをとおして、遠い将来に調和が到達されるのです。自我が浸透したことがらを、人間は目覚めてから寝入るまでのあいだに意識的に体験します。内的人間と外的人間との正しい調和を取るために、アストラル体がどのように働き、どのように限界を越え、無力になるかは、通常の人間の意識には見えませんが、これはすべてのなかに病気の深い内的な本質があるのです。」

「治療はよいものだ。治療は義務だ」というのは正しいのです。しかし、同時に、「病気によって死ぬのは、よいことだ。人間の進歩全体にとって、死は慈善なのだ」というのも、正しいのです。
 この二つの観点は矛盾していますが、この両者はどちらも、いきいきとした認識のための真理を含んでいます。人間の人生を、このような二つの観点が解明します。その二つが調和する点で、わたしたちは型に嵌め込んだり、図式化するのではなく、人生を広く考察しなければなりません。経験、体験、深い認識に基づいている矛盾は、わたしたちの認識を損なうものではなく、わたしたちをしだいに活気にあふれた認識へと導いていくことを明らかにしなければなりません。」

【波平恵美子『病気と治療の文化人類学』目次】

第一章 病気の意味づけ
㈠ 病因論(病原論と病因論)
㈡ 治療法
㈢ 「病気」の規準――「病気」とはどういう状態を指すのか
㈣ 病気の分類
㈤ 薬

   第二章 病気と信仰
第一節 病気・治療・信仰
第二節 妖術と邪術
第三節 シャーマニズム
  
第三章 病気と社会
第一節 「病マケ」――病気の社会的意味づけの一事例
第二節 コレラ流行とその社会的混乱
第三節 新潟県鱒谷ムラにおける病気治療の状況

第四章 伝統的社会における医療体系
第一節 江戸時代の痘瘡治療に見られる医療体系
第二節 奄美のユタ
第三節 「いのれ・くすれ」――四国・谷の木ムラの信仰と医療体系

第五章 病気と治療の文化人類学
  
引用文献
参考文献
文庫版あとがき
文庫版解説 パイオニアの凄み 浜田明範

波平恵美子(なみひら・えみこ)
1942年福岡県生まれ。九州大学卒業、米国テキサス大学博士課程Ph.D取得、九州大学大学院博士課程単位取得退学。佐賀大学助教授、九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)教授、お茶の水女子大学教授を経て、現在、お茶の水女子大学名誉教授。専門は文化人類学、ジェンダー論。著書に『ケガレの構造』(青土社)、『ケガレ』(講談社学術文庫)、『文化人類学 カレッジ版(第4版)』(編著、医学書院)、『病と死の文化』『日本人の死のかたち』『医療人類学入門』(いずれも朝日選書)、『いのちの文化人類学』(新潮選書)、『からだの文化人類学』(大修館書店)などがある。

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