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熊倉 敬聡『GEIDO論』

☆mediopos-2551  2021.11.10

芸術(アート)とは何だろう

少なくともそれは
人がその創造性を発揮するための
ひとつの在り方ではあるのだろうが

文明的にも地球環境的にも
行き詰まりをみせている現代
その人間であるがゆえの芸術(アート)は
あらたな時代にむけて変容していかなければ
その創造性を失ってしまうことになる

本書で芸術(アート)から
「藝道=GEIDO」への「旅」が語られているのは
地球生命と共創造可能なものへと
「反転」する必要性を痛感しているからだろう

著者によれば
今や文明は限りなくタナトス化しているという
ここでいうタナトス化とは
死であり反−生命である

ほんらい生命は自己創出的であり
自己変異的なものであるがゆえに
「絶えず自らを自らにより創出し」
「多様化していくエネルギーに満ちたもの」なのだが
資本主義や情報主義はそうした生命に対して
自己同一性を加速度的に反復させ
生命の自己差異化に対して「死」をもたらし続けている

そうした「文明のタナトス化へのベクトルを「反転」させ」
「再エロス化、再生命化」し
「再び大地へと、ガイアへと接合させる」
その「反転」の仕掛けを
著者は「GEIDO的実践」としてとらえている

GEIDOとは藝道

あえて日本の伝統に根ざした言葉を
GEIDOというコンセプト表現にしたのは
鶴見俊輔の限界芸術や柳宗悦の民藝から
一遍・和辻哲郎・九鬼周造など
日本の伝統的なありようをヒントに
瞑想や風土・性愛・エロスやさらには
貨幣経済(ブロックチェーン)なども考察しながら
新たな「藝」への道を歩もうとしているからのようだ

そのGEIDOには少なくとも二つの方法があるという

ひとつは「内なる旅」
文明が風土を上書きしていく通態化であるならば
その「上書きを遡行し、内へと旅し続け、
エロスの、生命の泉を再び見出す」こと

もうひとつは「外なる旅」としての「脱風土化」
つまり「あらゆる風土から自由になり、
その脱風土化の果てに「地球」を再発見する」こと
そして「この里山に、この茶室に辿り着き、
「内なる旅」と相まって、そこに
「小さな地球」を創り出す」ということ

もちろんそれは単なるエコロジー運動ではない
「そうした再デザイン・再創造のなかに、
「美」をも生み出そうとする」

おそらくほんらいの芸術は
マクロコスモスとミクロコスモスの照応のなかで
人間が創造へと向かうことで見出される
「美」への営為ではなかっただろうか

その意味でいえば
GEIDOの「内なる旅」と「外なる旅」は
人間が地球という大いなる生命と
共−創造していく旅でもあるはずである

■熊倉 敬聡『GEIDO論』
 (春秋社 2021/9)

私は、長年、一九七〇年代後半から二〇〇〇年代前半にかけて、Art−−−−そしてその日本的翻案である「芸術」ないし「アート」−−−−の世界で、勉強し、研究し、批評し、あるいは実践しながら、活動してきた。しかし、古い世紀が終わりつつあるとともに、実は、Art(そしてその翻案)が人類の創造性の発露としてすでに歴史的役割を終えつつあるのではないか、だとすると、Artの終焉後、いったい人類の創造性はどこに向かい、どのように実現されていくのだろうかと自問しつづけるようになった。その自問の「旅」日記こそ、前著『藝術2・0』であり、その旅がとりあえず辿り着いた逗留地=「GEIDO」という概念・実践を、今回さらに概念的に錬磨し、実存的に掘り下げるために、再び新たな「旅」に出たのだった。」

「いったいこの文明のどこが「おかしい」のか、根源的に問うてみよう。
 生命とは、元々、自己創出的であるとともに、自己変異的なものである。それは絶えず自らを自らにより創出しつつ、ウイルスや環境の変化により自らを変異させ、多様化していくエネルギーに満ちたものである。
 ところが、やはり一生生命体であった人間は、いつしか「心」をもち、それがやがて半ば「自律化」していくとともに、他の生命、そして宇宙全体を「意識」により二重化し、記号により表象するようになった。その、意識・記号による世界の二重化・表象とは、自己差異化する生命に対して、自己同一化という反−生命をもたらす。「ネコ」という言葉そしてその意味は、原則的に、明日も一年後も同一であり、「一万円」という貨幣とその価値も、明日も一年後も同一であらねばならない。そうした意識・記号による自己同一性の反復は、だから、生命の自己差異化に対して「死」をもたらすものに他ならない。それは、ヘルベルト・マルクーゼが、ジグムント・フロイトの文明論を継いで、文明における「タナトス」と呼んだものだ。
 ヨーロッパ近代が発明した資本主義、そしてデジタル・テクノロジーが創出した「情報主義」が、自己同一性の加速度的過増殖を引き起こし、今や文明を限りなくタナトス化している。そのタナトスのブラックホールに吸い込まれるように、人類は、莫大な量の化石燃料による、あるいは原発によるエネルギーを浪費し、無数の生物を犠牲にし、そして莫大な量の廃棄物を排出してきた。この「死」、「反−生命」の謳歌に、今や生命が反旗を翻し、ガイアの脅威となって襲いかかろうとしている。
 だから、我々人類は、早急にこの文明のタナトス化へのベクトルを「反転」させ、再エロス化、再生命化しなくてはならない。タナトスの自己同一性を、エロスの、生命の自己差異化へと「反転」させて、再び大地へと、ガイアへと接合させなくてはならないのだ。その「反転」の仕掛けこそが、里山の再創造としての「地球芸術」であり、わび茶の再創造であり、あらゆるGEIDO的実践だと思うのだ。

 でも、なぜGEIDOなのか。

 この「反転」としてのGEIDOには、少なくとも二つの方法がある。一つは、「内なる旅」としての脱通態化だ。私たちは、オギュスタン・ベルクとともに、文明が風土を上書きしていく通態化であることをみた。だが、その通態化の結果、文明がこれほどまでに過剰にタナトス化し、自壊寸前であるなら、もう今度は風土の上書きを遡行し、内へと旅し続け、エロスの、生命の泉を再び見出すしか方途はないのではないか。その「内なる旅」こそ、独修の、双修の、多修の行であった。そして、もう一つの方法は、「外なる旅」としての脱風土化だ。林を含め、GEIDO−KAたちは、「内なる旅」とともに「外なる旅」を、長きにわたって行った。その「旅」は、ある風土から他の風土へと移動し続けることにより、自らの出自の風土もさることながら、あらゆる風土から自由になり、その脱風土化の果てに「地球」を再発見することであった。そして、「外なる旅」の末、この里山に、この茶室に辿り着き、「内なる旅」と相まって、そこに「小さな地球」を創り出す。その「地球」の懐の深奥から、その「いびつなV」の鋒の向こうから押し寄せてくる生命の、エロスのエネルギーの奔流、「道(タオ)」が、上書きされた風土・通態の内側へと雪崩れ込んでいき、文明に巣食ったタナトスを洗い流していく。そして、里山という風土を、茶室という風土を、生命的・エロス的に再デザイン、再創造していく。「破格」し、ついには「離格」していく。GEIDO-KAたちは、しかし、ただの環境活動家ではない。彼らは、そうした再デザイン・再創造のなかに、「美」をも生み出そうとする。太鼓の一打、茶の一滴が、超偶然=美として際立ち、その乾坤一擲の鋒が、無限、宇宙が宿る「依代」となるよう、己の「藝」を磨くのだ。
 だが、そのGEIDOは、その里山、その茶室に住む少数のエリート、「天才」のものではない。都市に暮らす、いまだ文明のタナトスの直中で生活する誰でもが、自分が望みさえすれば、すぐにでも実行できるものなのだ。いや、なるべき多くの者たちが、なるべく早急に、このGEIDOのエロス化に参加しなければ、文明は完全に機能不全となり、自壊してしまう。だから、GEIDO-KAたちが個人として全身全霊で彼らを誘い込むことも重要だが、より大規模な組織、企業、大学、行政などが、この文明の再エロス化に参入してくることもまた緊要なのだ。林の地球芸術や陶々舎の新しいわび茶を共創する良品計画や博報堂のみならず、多くの企業、大学、行政が、ここ日本でもGEIDO的行動へと「反転」し始めている。我々人類に遺された時間は、あと五年、いやもっと短いかもしれない。この文明史的「賭け」に破れたならば、ガイアは、人類など平気で呑み込んでしまうかもしれない。そうならないうちに、我々人類は、今すぐにもGEODOの実践者とならなくてはならない。」

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