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安田登『使える儒教』/『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』

☆mediopos3271  2023.11.1

すでに一〇年近くまえになるが
能のワキ方の安田登には
『あわいの力』という
「「心の時代」の次を生きる」を
テーマにした名著がある

安田氏によれば
「心」という漢字は
紀元前一〇〇〇年頃に生まれるとともに
人間に「心」が生まれ
その五〇〇年ほどあとの孔子が
「心」とのつき合い方を説いたという
『論語』にはそれが
孔子の言行録として記されている

『あわいの力』では
現代人はその「心」の働きを持て余し
ているのではないかということから
「心」に代わるなにかが
そろそろ生まれてくるのではないか
と示唆されていたりもする

しかし先日刊行されたばかりの
『使える儒教』(NHK出版 学びのきほん)では
そこまでの話ではなく
「儒教」の古典である
『論語』をはじめとした四書五経を
「実用の書」として読み
「心」とのつき合い方を「学ぶ」という話である

ここでいう「儒教」は「儒学」ではない
「儒教」は「教」と名づけられてはいるが
ふつうにいわれるような「宗教」ではなく
「重箱の隅をつつくような学問」である
朱子学をはじめとした「儒学」でもない

安田氏によれば
「儒教」は「心の処方箋」なのだという

孔子がもともと目指していたのは
「世の中および人々の心の中から、
憂いと懼れをなくすこと」である

そのためには
世の中を変えていくことと
ひとりひとりの心へのアプローチとが必要だが
私たちのだれにでもできるのは後者である
その意味での「心の処方箋」としての「儒教」

私たちは生まれ育った環境によってつくられ
それを自分自身だと思いこんでいるのだが
ほんとうは「自分のプログラミングを
自分で書き換える自由を持ってい」る

そのために「儒教」を活用して
自分の心との付き合い方を知り
必要であればそれを書き換えればいい

その意味で
与えられた「どう生きるべきか」に
とらわれるのではなく
「どうやったら楽に生きることができるか」が鍵で
そのために儒教が役に立つのだというのである

「心の時代」の次への視点も重要だが
まずは「心の処方箋」
つまり自分の心を書き換える方法を学ぶ
というのが「儒教」を「使う」ということである

■安田登『使える儒教』(NHK出版 学びのきほん 2023/10)
■安田登『あわいの力/「心の時代」の次を生きる』(ミシマ社 2014/1)

(『使える儒教』〜「はじめに」より)

「人からひどいことを言われる→傷つく。無視される→悲しくなる。怒鳴られる→ビクつく。こういうことを何度も繰り返しています。
」人からひどいことを言われたら傷つくのは当たり前じゃないか」と言う人もいます。そんなことはありません。怒る人もいます。ひどいことを言い返す人もいます。無視する人もいます。人によってさまざまなのです。
 人によってさまざまなその反応は、自分の「心のプログラミング」による自動反応によって引き起こされています。本書では、『論語』を中心とした儒教の考え方を使って、「心のプログラミング」を書き換える方法を教えます。
 私は学生時代に中国古代哲学を学びましたが、正直に言って『論語』などの儒教はあまり好きではありませんでした。説教臭いし、辛気臭い。自由な思想で雄渾な文体である『老子』や『荘子』の方がずっと好きでした。
 しかし、あるとき儒教を見直してみようと思いました。
(・・・)
 アルバート・ノーランがアパルトヘイトの中でイエスを探し、カール・バルトがイエスとの出会いを真剣に考えたように、私も現代の日本で『論語』は役に立つのかを考え出しました。
 ちょうどその頃、引きこもりやニートよ呼ばれる人たちと関わり始めました。彼らが『論語』で変わらなかったら、『論語』には意味がない。そう思って、彼らと一緒に『論語』を読み始めました。
 すると多くの人たちが『論語』で元気になっていきました。彼らから話を聞くと、『論語』によって「心のプログラミングの書き換え」ができていたのです。」

(『使える儒教』〜「第1章 儒教って何?」より)

「日本では、聖徳太子の時代あたりから儒教は仏教に押され、やがて儒学となっていきました。(・・・)儒学が一つのピークに達したのが江戸時代です。幕府直轄の昌平坂学問所では、官学(幕府が正式に定めた学問)として儒学が講じられました。
 ここで講じられた儒学は特に朱子学と呼ばれるものです。朱子学は、宋の時代に成立した儒学の大系の一つです。上下関係を重視するため、武家による統治に向いていると考えられました。
 ここで、儒教と儒学の違いについて説明しましょう。漢字の表記からすると、儒教は宗教で、儒学は学問ということになりそうですね。ところが、儒教は私たちが普通に考える宗教とは少し違います。
 宗教の定義はさまざまありますが、多くの宗教が充たしているのが次の条件です。
 ①始祖(教祖)がいること
 ②教典や教義があること
 ③信仰を重視すること
 ④死後の世界を想定していること
 これらの条件を儒教に当てはめて考えてみましょう。
 まず、教祖としては孔子が考えられます。しかし、孔子は周王朝の基礎を固めた周公旦という人を尊敬し、継いでいると言っているので、キリスト教のイエスや仏教の仏陀のような始祖(すべての始まりといった存在ではありません。
 次に、教典としては四書五経がありますが、教義はあまり定まっていません。
 さらに、儒教では信仰が重視されません。
 (・・・)
 確かに、儒教では先祖を祀ります。しかし、四書五経などの書物に、死後の世界がどうなっているのかという記述はほとんどありません。
 このように、いわゆる世界的な宗教の定義から考えると、儒教はちょっと異質な〝宗教〟だと言えるでしょう。

 私は、いま必要とされるのは、儒学ではなく儒教だと思っています。
 (・・・)
 国教となった儒教には、その思想に従って『論語』などの教典の解釈を細かく説く注釈書が数多く登場し、重箱の隅をつつくような学問(儒学)になっていったのです。」

「では、もともと孔子は何を目指していたのでしょうか。」

「論語を読むと、そこには定まった思想がないことに気づきます。それでも孔子は何かを大切にしていたはずです。言い換えれば、「仁義礼智忠信孝悌」などの徳目を備える儒学になる前の儒教は何を目指していたのか。
私はそのキーワードは「憂」と「懼」ではないかと思っています。一言で言えば、世の中および人々の心の中から、憂いと懼れをなくすこと、それが孔子の目指したことではないでしょうか。
 (・・・)この目的を果たすために、孔子がしたことには二つの方向性がありました。一つは、世の中を変えていくこと。もう一つは、ひとりひとりの心へのアプローチです。
 世の中を変えることは大切です。しかし、世の中はそんなに急には変わらない。そこで、ひとりひとりの心にアプローチして、物事の受け取り方を変えていこうとしたのです。私はそれを「心の処方箋」と呼びます。儒教は「心の処方箋」なのです。
 なぜ「処方箋」なのか。それは、『論語』をはじめ儒教の書物に書かれていることが、とても具体的だからです。」

「いまAI(人工知能)がとてつもない勢いで発達しています。文章や画像をあっという間に生成したり、これまでは考えられなかった速さで計算をおこなったりするなど、AIは確かにすごいものです。
 しかし、そんなAIにも弱点はあります。それは、自分で自分のプログラミングを書き換えることができないことです。AIはプログラミングされた指示に従って動いています。しかし、それを書いたのは人間、プログラマーです。AIはそのプログラミングから自由になり、自分で自分をプログラミングすることがまだできません。
 一方、人間は自分のプログラミングを書き換えることができます。(・・・)
 しかし、いま、多くの人は、自分のプログラミングは書き換えられないと思ってしまっています。
「親ガチャ」という言葉があります。家庭環境によって未来が決まってしまうということです。親が裕福だったり、有力者だったりしたら、子どもの頃から塾に行ったり、家庭教師をつけてもらったりして、勉強ができるようになる。(・・・)しかし、その逆だったら・・・・・・というのが「親ガチャ」です。

(・・・)

 私たちは(・・・)親や学校など、周囲によって押しつけられた「自分」というものを自分自身だと思い込んでいます。
 少し、私自身の話をさせてください。
 私は海辺の漁村で育ちました。お店はほとんどなく、書店など当然ないので、小学生のときには教科書以外の本を読んだ覚えはほとんどありません。むろん塾も、予備校もないし、家庭教師なんて言葉も知らなかった。しかも、親は教育にはあまり興味がない。学校の勉強でわからないところがあっても、親に聞こうだなんて思ったこともなかった。長男だったので兄や姉かた教わることもできない。自分で何とかするしかない・参考書を買いたいと言っても「自分で買え」と言われる。勉強ができるようになるはずがない。
 親ガチャです。
 でも、自分のプログラミングを書き換えることによって、いまに至っています。私たちは人間です。自分のプログラミングを自分で書き換える自由を持っています。せっかく書き換えられるのだから、いまの自分に違和感があるのであれば書き換えればいいのです。」

(『使える儒教』〜「第5章 すでにある「礼」にならう」より)

「第4章で、「学」とは自分自身が変わることを目指す学びで、単なるスキルアップではないという話をしました。自分が変わるとは、別の言葉で言うと、自分の無意識部分を豊かにすることです。

(・・・)

 第1章で述べたように、現代には、自分の心のプログラミングは変えられないと思っている人が非常に多くいます。私が関わっている引きこもりの人たちも、「自分には過去のトラウマがある」「それはもう代えられない」「だから仕方がない」と思い込んでいる人がとても多い。
 このことについて、ラインホルド・ニーバー(一九八二〜一九七一)というアメリカの神学者は、次のような有名な言葉を残しています。

  主よ、
  変えられないものを受け入れる心の静けさと
  変えられるものを変える勇気と
  その両者を見わける英知を我に与え給え。
            (聖パウロ女子修道会)

 これは「ニーバーの祈り」と呼ばれる有名な祈りの一節です。変えられないものが「法」のプログラミング、変えられるものが「心」のプログラミングですね。この二つを知ること、そしてその二つを切り分けることが大切です。
 心のプログラミングは自分で変えられるものです。変える方法が、「思」であり、「学」であり、「礼」です。これらを身につけて、プログラミングを書き換えて、もっと生きやすくなった方が人生、楽なのではないか、そう思うのです。
 性格も同じです。人間の性格というものは本来、自分で変えることができるものです。変化できるのが人間なのです。」

「「どう生きるべきか」ではなく、「どうやったら楽に生きることができるか」、そのことを具体的に教えてくれる、まさに「使える」教えが儒教なのです。」

(『あわいの力』〜「はじめに」より)

「現代は「心の時代」といわれます。
 しかし「心」は昔からあったわけではありません。
 昔の人間には「心」がなかったのです。
 中国で、今の漢字の祖先に当たる文字(甲骨文字あるいは金文)が生まれたのは、「殷」の武丁という王の時代、紀元前一三〇〇年ごろのことです。
 数え方にもよりますが、そのころすでに、五〇〇〇種類くらいの文字がありました。しかし、それだけたくさんある文字のなかに、「心」に相当する字はありませんでした。「心」という文字を認識できるようになるのは、それから三百年ほどのあと、「殷」から「周」に変わった紀元前一〇〇〇年ごろのことです。
 このことは、いったい何を意味するのでしょうか?
(・・・)
「心」とは何か。それ自体非常に大きな問いですが。ここでは(・・・)「自己意識」のようなものだと捉えておきましょう。
 人類は、この地上に生まれながらにして「心」を持っていたのではなく、あるときまでは、「心」を持たずに暮らしていた。それが、どんなきっかけがあったかはわかりませんが、あるとき人類は「心」という名の「自己意識」を獲得し、主体的な意思や自我を獲得した。それを表現したのが「心」という文字だったのではないか。

 さて「心」を手にした人間は、最初からそれを使いこなせたのでしょうか? もちろんそんなことはありません。
 この目に見えない不思議なシロモノに大いに振り回されたのではないかと思います。
「心」とのつきあい方がわからないまま五〇〇年ほどの月日が流れたころに、中国で、迷える人々に救いの手を差し伸べるひとりの聖人があらわれます。
 孔子(紀元前五五一−紀元前四七九)です。
 孔子といえば『論語』ですが、『論語』には、この厄介な「心」とのつきあい方が書かれています。」

○安田登(やすだ・のぼる)
能楽師。1956年千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。高校教師時代に能と出会う。ワキ方の重鎮、鏑木岑男師の謡に衝撃を受け、27歳で入門。現在はワキ方の能楽師として国内外を問わず活躍し、能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演などをおこなう。著書に『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『身体感覚で『論語』を読みなおす。』(新潮文庫)、『見えないものを探す旅』(亜紀書房)、『役に立つ古典』『別冊NHK100分de名著 集中講義 平家物語』『別冊NHK100分de名著 読書の学校 史記』(NHK出版)など。

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