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三好 由紀彦『詩と哲学のあいだ』

☆mediopos2800  2022.7.18

私たちは
「自分の右手で自らの右手を摑む」ことも
「自分の眼で自らの眼を見る」こともできない

それはみずからの根拠を
みずから根拠づけようとするようなものだからだが
本書はその問いから存在の謎へと迫っていく
謎の源には何があるのかということだ
(本書ではその問いが繰り返されながら
次第に迷路のなかに入ってしまっているようだが・・・)

まったく視覚をもたないひとに
「見る」という感覚を理解させることはできない
「見るという感覚で何ができるか」は説明できても
「見る」という感覚とは何かを説明することはできない
そこには「見る」という経験が前提となっているからだ

つまり「私たちがいま手にしている
すべての感覚や経験・知識といったものは、
つねに「すでに与えられた何ものか」を前提として
成立しているのであって
それが成立していないひとに
それらの感覚や経験そのものを説明することはできない

謎の源には「すでに与えられた何ものか」があるのだ

私たちには言葉があり
その言葉によって経験を拡大・蓄積・深化させ
一度経験したことをもう一度言葉によって
繰り返し経験してみるという意識を持ちえていることで
「見ることを意識する」はできるけれど
そのことによっても「すでに与えられた何ものか」を
認識することはやはりできない

そのように認識しえない
「すでに与えられた何ものか」に対して
答えを与えてきたのが宗教だろうが
(「神」がそれを与えたもうたといったような)
それは認識ではなく信仰という態度でしかない

現代では宗教に代わりに
科学が信仰されるようにもなっているが
「すでに与えられた何ものか」について
説明することができないことに変わりはない

なぜ世界があるのか
なぜ私がいるのかを
説明することができないように

さて禅の話で
禅僧が月を指さしているのに
わたしたちはその指そのものを見て
月を見ないでいるというものがあるが

たとえ「すでに与えられた何ものか」である
月そのものを見ることができないとしても
月を指しているのだということを意識し得るだけでも
「すでに与えられた何ものか」の謎への
はるかな旅をはじめることができる

たとえばポエジーの道として
あるいは神秘学の道として

■三好 由紀彦『詩と哲学のあいだ』
 (晃洋書房 2022/6)

(「はじめに」より)

「なぜ、私たちは自分の右手で自らの右手を摑むことができないのでしょうか。
 これはじつにあたりまえのことです。何をいまさら、と思うかもしれません。でも、なぜそれが「あたりまえ」なのでしょうか。(・・・)
 これと同じような現実は他にもあります。たとえば私たちは自分の眼で自らの眼を見ることができません。(・・・)また同様に自分の舌で自らの舌を味わうこともできないし、自分の鼻で自らの鼻を嗅ぐこともできません。
 すべてはこの疑問から始まります。なぜ、私たちの存在とはこのような構造であったのか、つまり自分の右手で自らの右手を摑むことができないのかと。

(・・・)

そもそも哲学とは、端的にいえばこの問い、すなわち「自分の右手で自らの右手を摑む」あるいは「自分の眼で自らの眼を見る」ことを解き明かそうと挑み続けてきた学問なのです。哲学が存在の端緒を探求する学問である限り、その思索は必ずやこの難問に突き当たらざるをえません。なぜならば存在の端緒への問いは、最終的にはその端緒を問う者自身へと振り向けられるからです。それはパルメニデス以来、存在の端緒を問い続けてきたすべての哲学者たちに貫かれてきたことなのです。」

(「まなざし」より)

「ごくあたりまえの「見る」という感覚とはいったい何なのでしょうか。私たちは日々、じつにたくさんのものを見ているわけですが。ではこの「見る」ということに関していったいどれだけのことを知っているのでしょうか。」

「あなたはこの視覚のない男性に対して「見る」という感覚を説明することがまったくできません。辞書を調べても、生理学の知識を援用しても、視覚のない男性に「見る」とはどのような感覚なのかを理解させることは不可能なのです。私たちはふだん、この感覚を当たりまえのように使いこなしているのですが、いざ説明しようとすると困惑せざるを得ません。ではいったいなぜ、「見る」という感覚を説明できないのでしょうか。
 じつは私たちがいま手にしているすべての感覚や経験、知識といったものは、つねに「すでに与えられた何ものか」を前提として成立している、ということなのです。
 たとえば前節であなたが「見る」という言葉を調べても、そこにあるのは「見るという感覚とは何か」の説明ではなく、「見るという感覚で何ができるか」の説明でした。」

「このように私たちの感覚や認識、思考の背後には、どうしてもそれ以上溯ることのできない「すでに与えられた何ものか」がつねに横たわっているのです。それはいかなる言葉や科学的知識を駆使しても、踏み込むことのできない領域なのです。そして私たちが「自分の右手で自らの右手を摑む」あるいは「自分の眼で自らの眼を見る」ことができない理由も、まさにここにあるのです。なぜならば、私たちはいまここに存在した瞬間から、すでに自らの眼でもって世界を眺め、自らの右手でもって世界を摑み始めていたからなのです。というよりも、私たちが何ものかを見たり摑んだりする行為とは、この存在と一つのもの、存在そのものなのです。むしろ存在すること自体がすでに、世界を摑んだり眺めたりすることなのですから。」

(「水平線」より)

「けっきょく科学は「見る経験そのもの」を説明することができないように、空間や時間、物質そのものが何であるかを説明できません。
 そして自然科学におけるこの原理的限界は、他の経験科学にも共通するものです。」

(「言 葉」より)

「人間が手にした言葉とは、目前の出来事に対応するための個体間のコミュニケーションツールというきわめて限定的なものではなく、現実には眼にもしていなければ経験もしていないような遠い場所での出来事や事物。あるいはその瞬間には存在していない過去や未来の出来事や事物までも自らの経験範囲の中に収めてしまうという、まったく質的に異なったものなのです。」

「一人の人間ではきわめて限定された経験しかできませんが、言葉によってコンパクトにまとめられた経験を摂取することで、私たちは時間的にも空間的にもはるかに膨大な経験を「擬似的に」経験することが可能となったのです。すなわち言葉の第二の意義は、「経験の操作・拡張」なのです。
 この場所、この時間にしか存在できない人間が、言葉によって限りなく自己を拡張することができる、つまり一人の人間のなかに人類の歴史があり、世界があるのです。」

「しかしこの言葉による経験の拡大、蓄積、深化という過程のなかで、言葉はさらに人間に驚くべきものをもたらしました。それが意識です。
(・・・)
 意識とは、いわば言葉による「経験の反芻」です。(・・・)意識とは一度経験したことをもう一度言葉によって繰り返し経験してみることなのです。
(・・・)
 反芻としての意識は、私が経験したものを、あるいは現在進行形で経験しているものを、もう一度経験し直すことによって、自らの世界を再構成していくことでもあるのです。」

ある日本の哲学者はこのことを、「私たちは見ることをさらに見ることはできないが、見ることを意識することができる」と言っています(山内得立『意味の形而上学』)。つまり私たちは自分の右手で右手を摑むことができないように、見ることをさらに見ることはできないのですが、しかし「見ることを意識する」ことだけはできるはずです。そして「意識する」ことによって、さまざまな感覚や経験のなかに埋没していた「すでに与えられた何ものか」を、私たちは認識の地平にまで引き上げることができるのです。」
(・・・)
 けっきょく私たちは意識によっても「すでに与えられた何ものか」そのものに迫ることはできません。何の前提もなしに、純粋無垢なる視野からこの存在を認識し、思考することなど決してできないからです。認識し、思考すること自体が「すでに与えられた何ものか」であり、この何ものかであることをやめてしまえば、私たちはもはや何ものでもなくなり、小石一つでさえ認識することができなくなってしまうからです。
 前提なき前提、認識なき認識、経験なき経験・・・・・・「すでに与えられた何ものか」への問いは、じつはこのような絶望的な二律背反によって縛りつけられています。そしてそれはたんに学的な問題ではありません。私たちが自分の右手で自らの右手を摑むことができないという現実存在の構造、実存そのものの宿命なのです。(・・・)
 それはウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「思考の外側を思考する」ことであり、カントが言うところの「形而上学の最も本質的な関心事」なのです。」

《目次》
はじめに
まなざし
「見る」とは何か/すでに与えられた何ものか
カタツムリ
さまざまな感覚/感覚の絶対的私秘性
水平線
海辺の古代人/現代の宇宙像/「前提ありき」の経験科学
言 葉
言葉の世界/意識の誕生/意識の分析とその限界/見ることを意識する
エポケー
エポケーという方法/死の経験/自分自身の死
渦巻き
生きている世界/生きていることの定義
遺 跡
死を祀る宗教的建築物/意識は死後も続くという仮定/二つの可能性としての死
人工衛星
神が死んだあとの世界/道徳教育のための宗教/神の末裔としての科学
握 手
はじめに行ないありき/「在る」から「生る(ある)」の哲学へ/神々の微笑み
あとがき

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