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牧野 富太郎『草木とともに/牧野富太郎自伝』

☆mediopos2768  2022.6.16

2023年の連続テレビ小説『らんまん』は
牧野富太郎の話だという
主演は神木隆之介

牧野富太郎は高知県の佐川町の出身
高知市の五台山には牧野植物園がある

少しばかり前に仕事の関係で
2年間ほど高知市に住んだことがあり
年間フリーパスを早速手にいれて
頻繁に牧野植物園にでかけていた
何度行っても飽きることはない
五台山から眺める高知市の景色も素晴らしかった

ぼくは高知県生まれで
(高知県の西部にある四万十市だが)
小学校の低学年までいたが
牧野富太郎という偉人がいたということを
その頃繰り返し聞かされていた

その頃は植物学者としてというよりも
小学校さえちゃんとでていなくても
ほんとうに興味のあることを学んでいけば
立派になれる人として記憶していたところがある

それからずいぶんと経った25年ほど前のこと
知人のコンサートで高知市に出かけたのをきっかけに
はじめて牧野植物園に足を運んでみることに

それ以来少しずつ牧野富太郎のことが
身近に感じられるようになり
高知市に住むようになったのを好機と
牧野植物園に通うようになったのである

さて以下に引用してある
「牧野一家言」にもあるように
牧野富太郎はふつう使われている「植物名」が
いかにいい加減かということを嘆いている
それを「一種の罪悪である」とさえ言う

間違った名で植物を呼ぶことは
人を馬と呼んだり
犬を猫と呼んだりするようなことだとまで言う

牧野富太郎は植物愛ゆえに
なおのこと植物の「名」にこだわりつづけた
それは数千種の植物を同定するほどの営為があり
そのひとつひとつの植物の違いを
見定めていた人であるがゆえのこだわりでもあるだろう

「正しい名」を知ること
名を持たないときにはふさわしい名をつけること
「名」の乱れは文化の乱れともなる

「名」は「ことば」でもあり
その「ことば」の概念を
ほかの「ことば」との差異をふまえ
「正しく」理解するということでもあるだろう

個人的にいえば
「名」についてのこだわりはあまりなく
いい加減にしか理解しないことも多く
牧野富太郎の「名」へのこだわりから
その意味について考えさせられることも多々あった

分類方法やその観点は変化することもあり
細部にこだわりすぎるのもどうかということはあるが
差異が識別できる見識がなければ
それをそれとして理解することも難しく
さらにいえば分類を超えてそれを理解することもできない

「名」を知りそれを理解し他との差異を把握できてはじめて
「名」にとらわれないということも可能になる
ある種の「守破離」である

「名」さえ「守」できないとき
それを批判することも
それにとらわれないでいることもできない
まずはとりあえずにせよ「名」から始める必要がある
基礎的なことが理解できないうちに
応用や応用を超えた基礎の問い直しはできないのと同じだ

植物や虫や鳥
岩石や鉱物などを観察するにも
その基本的な識別からはじめる必要がある
識別できてはじめてその先がある

少し飛躍するが
「名」による魔術の行使もそれに似ている
「名」を知ることからはじめ
「名」の行使に習熟することで
その先に「名」にとらわれずにいる世界がひらける
「自由」もまたそれに似ている

■牧野 富太郎『草木とともに/牧野富太郎自伝』
 (角川ソフィア文庫 KADOKAWA 2022/6)

(「はじめのことば」より)

「この随筆集は私が今までに書き記したいくつかをまとめたものである。(…)私はこの随筆集を私の九十五歳の記念の贈り物として同好の士にわかちたいと思っている。
 昭和三十一年十月菊花の香を病床に聴きつつ」

(「幼少の頃」より)

「私は戌年生まれで、今年九十五歳になるが、未だに壮健で、老人めくことが非常に嫌いだ、したがって自分を翁だとか、叟だとか、または老だとか称したことは一度もない。回顧すると、私が土佐の国高岡郡の佐川町で生まれ、呱々の声をあげたのは文久二年の四月二十四日であって、ここにはじめて娑婆の空気を吸いはじめたのである。」

(「牧野一家言」より)

「世の中を指導する立場にある人は、その指す物の名称を正しく云って、世人に教うる責任がある。にも拘わらず上に立つこれ等の人々が臆面もなく間違った名を公言して憚らないのは、わが文化のため、まことに残念であるばかりでなく、何時までも世人を駆って誤称を敢えてせしめるのは、また一種の罪悪であるともいえる。植物名にはこのような詐称が数多くあるのは困ったことである。」

「私はどんな小さなものでも可愛がる。植物を採集してくると、いろいろの虫がそれについてくる。それを腊葉にするときに、私は一匹のアリでも殺すようなことはしない。これを縁側にもっていって放してやる。そんな時、私は、このアリは何里も離れたところから、ここへつれて来られたが、この先どうなることかと心配する。他のアリの社会の中へ入っていけば、きっと排斥されるにちがいないと心配になる。こういう心を養うことができたのは、私が植物を愛した結果、自然に養われたのだと思う。」

「植物は人間がいなくても、少しも構わずに生活することができるが、人間は植物がなくては一日も生活することができない。人間は植物に対しておじぎをしなければならない立場にある。人間に必要欠くべからざる衣食住は、すべて植物によって授けられている。人間は植物に感謝の真心を捧げなくてはならない。」

「私は、晩年に至るまで肩書きなどはもっていなかった。学位などはなくても学位のある人と同じ位仕事をし、これと対向して相撲をとるところにこそ愉快はあるものだと思っている。学位があれば、何か大きな手柄をしても、博士だから当たり前だといわれるので興味がない。学問をするものは、学位や地位などには何の執着も感じてはならぬ。ただ、孜々として天性好きな学問の研究にはげむのが生涯の目的であり、また、唯一の楽しみというのでなければならない。」

「教育は教師の実力が根本であって、教授術の如きは末の末であると思う。もし私をして文部大臣たらしむるならば、学校教師の実力の向上を第一に訓令する。知識を豊富にすることが極めて肝要である。徒らに教育法や教授術を説く者は、大砲を造ることに汲々として、砲弾の用意を忘れたものに等しい。いかに名砲を備えたといっても、砲弾がなくては単なる装飾にすぎない。」

「真の学者は、たとえ知識をもっていたとしても決して大きな顔などはしない。少しぐらい知識を持っていたとて、これを宇宙の奥深いに比ぶればとても問題にならぬほどの小ささであるから、それは何ら鼻にかけて誇るには足りないはずのものである。真の学者は死ぬまで、戦々兢々として一つでも余計に知識の取得に力むるものである。」

「人を馬だといったらどうだろう。犬を猫だといったらどうだろう。誰れでもこれを聞けば、そんな馬鹿なことは狂人でもいいはしないと、且叱り、且笑うであろう。
 しかし、世間では、これに類したことが公然と行われているのは、確かに日本文化の低いことを証明していることだと痛感する。況んや上は政府の官吏から、次は学者、次は教育者、次は世間の有識者且尋常の人とまでが、この犯罪者の中に入るのだと聞けば実に啞然として、聞いた口が塞がらず、まことに情けなく感ずる。例えば、ジャガイモを捉えてこれを馬鈴薯だと偽る問題は正にこれであって、ジャガイモは断じて馬鈴薯ではない。馬だの猫だのといわれるのが嫌なら速かに作非を改悛して馬鈴薯の名を追放し、以て身近の穢れを浄むべきだ。そして、無知の誹りから脱出すべきだ。そうしなければ文化人としては落第だ。」

「先ず第一に、ヨモギとしてある種の字であるが、之れをヨモギだのムカシヨモギだと言うには大間違である。そして此蓬は元来アカザ科などの植物を含んだ一類の草を指す名で、中国の北辺地に野生し、冬になって枯れると根が抜けて所謂朔北の風に吹かれ、砂漠地などを転ろがり行く者の名であるから、早く其不当な名ヨモギ又はムカシヨモギの訓を取り上げねばならない。若しも此蓬へ和名を附けるとすれば其れをクルマグサとかコロビグサとでも謂ったら可いのであろう。」

「日本のサクラに使ってある桜の字は決してサクラではない。元来此桜の字は其れへ桃の字を加えて書く桜桃を略したもので、此桜桃は中国の特産で日本には産しない。其実が食えるので其れが果木の仲間に入れてある。今日市場に出るオウトウは欧州原産の者で仮令呼び名は同じでも物は違っている、植物界では西洋実ザクラと謂って中国実ザクラ即ち本当の桜桃と別っている。」

(いとうせいこう「解説 牧野富太郎に〝触れる〟」より)

「この随筆集は希代の植物学者・牧野富太郎博士が書いてきた多くの文章から、博士の人生に沿う形で選ばれ編まれた、いわばわかりやすい入門書のようなものである。
 そして、その「牧野ベストヒット集」とも言える本の解説を書くことは、私にとって実に名誉なことであり、素直にうれしい。」

「私は牧野富太郎という人物のありようを知った途端、勝手に強烈なシンパシーを覚えた。好きになった。彼もまた、ひたすら植物に魅了され、学者に必然のコースをたどることなく、小学校中退の身でやがて日本のトップを行く大学の研究室入りを許され、ついには数千種の植物を同定してしまうからだ。」

「(いとうせいこうが)最初のエッセイ集を出版したあとだったろうと推測するが、私は高知の牧野植物園に取材で出かけることになる。それは自分にとって忘れ難い時間であった。
 風吹き渡る五台山に、その植物園は広がっている。私がそこで何よりもまず心震わされたのは、広報であれ事務であれ研究員であれ植栽担当者であれ、男であれ女であれ老いも若きも一人一人がそれぞれ目をキラキラさせて働いていることだった。誰もが植物に集中し、少しでも牧野富太郎について語ってもらおうとすればニコニコと笑顔になる。
 そこはまさに植物愛のメッカ、牧野愛の楽園だったのである。」

「牧野富太郎は当時の日本でスターのように扱われた。このことは現代では想像しにくいだろうが、厳然とした事実だ。彼のやることはすぐに新聞記事になったのだし、何度も亡くなりかける晩年には特にその容態が逐一報道されたと聞いている。
 果たしてそんな学者が他にいただろうか。
 いや今、一人でもいるだろうか。
 牧野富太郎という人物がなぜそこまで人気を得たのかの一端は、彼がことに力を入れた活動のひとつ、出版物によって知れるはずだし、つまり『草木とともに』はその重要な証拠なのである。」

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