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ルドルフ・シュタイナー『ゲーテ主義/霊学の生命の思想』/『二つのメモランダム(覚書き)』/ゲーテ『ファウスト第二部』

☆mediopos-3047  2023.3.22

シュタイナーの第一次大戦中
一九一七年の講義と政治的な働きかけの内容は
まさに現代にそのまま置き換えることができそうだ

現代は戦争(見えている戦争・見えていない戦争も含め)が
全世界的に広がりを見せているともいえる

シュタイナーは当時
「ウッドロー・ウィルソンの世界的規模での旧式な学校教師ぶり」
とその危険性に再三警鐘を発していたが
それを信じ込んでいる知識人を含めた多くの人たちは
そこから目覚めることができなかった

それから一世紀以上が過ぎている現在も
基本的な構図は変わらずにいるどころか

「平和の決まり文句」による「支配」は
現代においては経済を中心に
「エネルギー」「医療」「食」「通貨」「水」と
あらゆる領域に及ぼうとしている

シュタイナーはゲーテの
『ファウスト』第二部を理解するには
「頭のいい時代、批判の時代は、ふさわしい時代ではない」という

「霊的な努力を続けるファウストとは反対に、
闇の霊たちを代表するメフィストが、
近代人にとってなくてはならない、
そして特に二〇世紀の人がますます依存するようになっている
すべてを発明している」というのだが

「頭のいい時代、批判の時代」である今
「現代がそういう状況にあることに
気づかせてくれる多くの事柄が、すでに
この『ファウスト』第二部の中に表現されてい」るにもかかわらず
「頭のいい」人・「批判の」人は目覚めることがなさそうだ

シュタイナーは
「人びとが今眠りこけている薄闇の中から目覚めさえすれば、
二〇世紀初頭にウッドロー・ウィルソンとその教えを
頭から信用していた自分たちのことを
とんでもない屈辱だったと思えるでしょう。
現在進行していることを恥だと思えるようになったときが、
目覚めの時なのです。」

というのだが
「頭のいい」人・「批判の」人は
「耳」がひらかれていないがゆえに
その心の耳である「恥」を感じることがない

今や第二次世界大戦以来最高の超過死亡者数となっているように
見えているのに見えない戦争が現在進行中である
そんななか悪人正機のように
みずからの内なる悪にどれだけ目覚められるかが鍵となる

■ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)
 『ゲーテ主義/霊学の生命の思想』(春秋社 2023/1)
■ルドルフ・シュタイナー(浅田豊訳)
 『二つのメモランダム(覚書き)』(涼風書林 2019/4)
■ゲーテ(手塚富雄訳)『ファウスト第二部(上・下)』
 (中公文庫 中央公論新社 1975/3)

(シュタイナー『ゲーテ主義』〜『ミカエルと龍の戦い』第五講「目覚めへの霊学」(一九一七年一〇月二七日)より)

「ゲーテの『ファウスト』は、これまで多くの人によって解釈されてきました。」
(・・・)
 ゲーテの『ファウスト』の「第二部」を理解するのに、頭のいい時代、批判の時代は、ふさわしい時代ではないのです。この「第二部」こそ、ゲーテ主義のもっとも重要な遺言なのですから。そしてこんにちでもなお、多くの点で、この「第二部」は本当にわずかしか理解されていません。理解しようとしても、理解するのはとても難しいのです。なぜなら、こんにちの人びとの生活環境のどこにも、この「第二部」に出てくるようなユーモアやアイロニーが生かされていないからです。むしろこんにちの生活環境は、一六世紀以降、どんどん発展していき、人びとはひたすら、その発展をほめたたえ、それこそが私たちの時代の誇りである、とひたすらその成果の中にひたって喜んできたのです。

 ゲーテは全身全霊で時代を生きただけでなく。二〇世紀の中にまで魂を映して、『ファウスト』第二部を二〇世紀のために、二一世紀のために、さらにその数世紀あとのためにも書いたのです。このことは今になってやっと理解できます。しかし、そのためにゲーテは、一六世紀以降の発展について、アイロニーとユーモアに富んだ解釈を加えなければなりませんでした。実際、これまでさまざまに賞賛されてきた一六世紀以降の発展のおかげで、文明諸国はこんにちまで生きのびてきたのです。しかしその発展の成果は、ゲーテのファウストにではなく、メフィストの陰謀、策略に等しいものなのです。

 実際、メフィストの創作でもある紙幣という幽霊の方向を、一六世紀以降の光栄に充ちた発展は、ずっとはるか先まで辿り続けてきました。そしてゲーテは、その発展のすべてを、メフィストという悪魔の作業と評価したのです。

 人びとはいつか、一六世紀以降の文明の所産を、偉大な、しかしアイロニーに富んだ仕方で、『ファウスト』第二部が扱っていることに気づくでしょう。この第二部では、霊的な努力を続けるファウストとは反対に、闇の霊たちを代表するメフィストが、近代人にとってなくてはならない、そして特に二〇世紀の人がますます依存するようになっているすべてを発明しているのです。

 現代がそういう状況にあることに気づかせてくれる多くの事柄が、すでにこの『ファウスト』第二部の中に表現されています。」

「時代は、前進する光の霊たちの影響の下に、闇の霊たちの働きに対抗してますます光の霊たちの立場を確かなものにしていこうとしています。私たちも、この闇の霊たちに対して目覚めた意識で向き合うとき初めて、自分の立場を確かなものにすることができます。

 この三年の間、その呼び声を正しく聞き取る用意のある人たちがまだ十分な数だけいないとしても、時代は、目覚めていてくれ、と呼びかけ続けています。しかし私たちは、それとは対立する働きのほうがいたるところで時代を支配しているのを見てきました。まさに、霊的な生き方の可能性が始まろうとしているところで、妨害する霊たちの働きもまた活発になっているのです。

 時代の特徴的な性格が見えてくれば、さらに先まで進んでいけます。しかしこんにち、こういう事柄を暗示するだけでも、誤解に誤解を呼び起こすのです。こんにちの時代の精神津風土は、誤解しようとする意志が強く働いているので、語るひと言ひと言が、すぐに別の意味に曲解され、批判されてしまいます。なぜなら、私たちの使う言葉は、聞き方次第で別のニュアンスをもってしまうからです。

 今は多くの人が国家主義的な心情で判断するのです。もし誰かが或る民族の一員だったとすると、その誰かを同じひとりの人間として論じていたとしても、同じ民族に属する別の誰かの感情を害する結果になりかねないのです。たとえ現在の大戦に参加している民族がその民族の一員と、ある問題に関して、まったく関係がなかったとしてもです。実際、現代の時代の嵐が生じたのは、こんにち一般に思い込まされているような事情にもとづいている、と信じることは、それがナンセンスであればあるだけ、いっそう有害なのです。嵐の原因は、はるかに深いところにあるのです。ある立場の人たちが主張しているような国家的な野望にあるのでもありません。国家的な野望は、多くの人びとの関心外にある別の権力に利用されているだけなのです。この権力のことは、時代の表面だけを見ている限り、何も分かりません。

 事実が客観的に見えてくるまで、まだしばらくは待たなければならないでしょう。こんにちの大多数の人にとって一番安易なのは、教師の資格試験に出てくるような、当たり前の事柄だけを知っている旧式な教師の頭にあるような発想に従って判断することなのです。生徒たちならまだしも、すべての人に今そのような発想がおしつけられているのです。

 すでに何度も申し上げたように、私は、この恐るべき時代になってから、あらためてウッドロー・ウィルソンについての客観的な評価をしているのではないのです。大戦の始まる前の年、一九一三年にヘルシンキでの講義『バガヴァット・ギータの眼に見えぬ基盤』の中で、ウッドロー・ウィルソンの世界的規模での旧式な学校教師ぶりについて、くわしく申し上げました。そこではこの人物の態度がどんなに浅薄なところから来ているか、指摘しました。ウッドロー・ウィルソンについての評価をわざわざここ数年の彼の態度から決める必要などなかったのです。しかし一九一三年当時は、ウッドロー・ウィルソンについていくら批判しても、人びとはまさに旧式な立場に立っていました。当時はまだ、ウッドロー・ウィルソンの自由について、文化と文芸についての高校生風の論文がヨーロッパ語に翻訳され、広く読まれていました。そしてウッドロー・ウィルソンの高校生用教科書にふさわしい、頭の堅い政策を、大まじめで、ほめたたえていました。そのことを恥じ入るようになる時代は、まだ当分来ないでしょう。

 闇の霊たちの勢力は今、いたるところに現れています。人びとが今眠りこけている薄闇の中から目覚めさえすれば、二〇世紀初頭にウッドロー・ウィルソンとその教えを頭から信用していた自分たちのことをとんでもない屈辱だったと思えるでしょう。現在進行していることを恥だと思えるようになったときが、目覚めの時なのです。

 この時代の中で真実を語るのは困難です。なぜなら人びとは、心の中にすでに植え込まれているころを批判されているように聞くでしょうから。この雰囲気の中で自由な批判精神を保つのは困難です。この雰囲気は、この三年間の中で形成されただけでなく、私がウィーンでの講義[『シュタイナーの死者の書』]の中で社会の癌と呼んだ経済中心主義によって形成されたものでもあるのです。

 こういう事柄に対する必要な態度は、あらためて真剣に向き合うことです。二〇世紀に至るまで公認されてきた概念だけで対処できると思ってはなりません。よく知っておいていただきたいのは、今自分の中で有効な働きをしているさまざまな表彰内容では間に合わないということです。いつまでも既成の概念で対処できると思うとしたら、その態度は世界史に無礼な態度だ、と思わなければなりません。」

「こんにちの事態を深く洞察できる人たちなどいない、と思うべきではありませんが、そういう人びとの声に耳を貸す人は少ないのです。そもそもゲーテの思想のような何かに耳を傾けようとする人は少ないのです。ゲーテの言葉はまるで二〇世紀の声のように響いてくるのに、人びとはその声に耳を貸そうとはしないのです。なぜなら、この声を理解するには、例えば一八七九年秋に闇の霊たちの降下によって生じた重要な事態を理解しようとしなければならないからです。」

(シュタイナー『二つのメモランダム(覚書き)』〜「メモランダム2」(一九一七年)より)

「ウィルソンの言葉は、人間を愛する作家の言葉ではない。それはアメリカ人がそのために武装し、協商国が3年前から中央ヨーロッパに対して遂行している行為の旗なのである。彼らはこの旗の下に、人類の救済と民族の解放のために戦場に赴くと主張しているが、それに対して中央ヨーロッパは戦わざるを得ないというのが、現状である。協商国とウィルソンは彼らの見せかけの戦争目標について語る。その言葉は、宣伝効果を持っている。この宣伝効果はますます増大し危険になる。中央ヨーロッパのある種の人たちは、自分がウィルソンの言葉を繰り返しているに過ぎないことを認めないだろうが、彼らのアイデアはウィルソンの言葉と似たように響くのである。」

「この戦争の原因をより深い意味で知っている者は、協商国とウィルソンのプログラムを、中央ヨーロッパが事実によって断固として拒絶することの必要性を強調せざるを得ない。なぜなら、道徳的に目を眩ませるこのプログラムは、中央ヨーロッパと東ヨーロッパの民族の本能を利用して、道徳的、政治的に不意打ちを加え、アングロ・アメリカ主義に経済的に従属させることを目論んでいるのである。そしてその後には必然的に、精神的な従属が実際の結果として続くのである。」

「協商国とウィルソンの平和の決まり文句の代わりに、この決まり文句の本質が仮面をかぶることなく現れたとしたら、次の言葉になるだろう。
 「我々アングロ・アメリカン人は、世界が、我々が望むようになることを意志する。中央ヨーロッパはこの要望に従わなければならない。」

 この仮面を脱いだ平和の決まり文句が示すように、中央ヨーロッパは、戦争に突入することを余儀なくされたのである。もし協商国が勝利するならば、中央ヨーロッパの発展は抹殺させられるだろう。」

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