見出し画像

酒井隆史インタビュー「「だれがみずから自由を手放すだろうか」──2010年代と現在をめぐって」/『賢人と奴隷とバカ』

☆mediopos3480  2024.5.28

酒井隆史『賢人と奴隷とバカ』については
mediopos-3115(2023.5.29)
およびmediopos3281(2023.11.11)で
とりあげているが

今回は「以文社」のサイトに掲載されている
酒井隆史へのインタビュー
「だれがみずから自由を手放すだろうか」
 ──2010年代と現在をめぐって」から
『賢人と奴隷とバカ』についてあらためて

賢人きどりの知識人の多くは「バカ」が嫌いで
賢人になりたい奴隷の多くは
「バカ」と思われないように「自発的隷従」を事とする

そして「バカ」を馬鹿にし
「反知性主義」「陰謀論」「反ワク」
といったレッテルで攻撃する

そうした「バカ」の構図をつくったのは
賢人と知識人のナルシシズムであり
それを方向づける「支配する知」である

『賢人と奴隷とバカ』の帯に
「だれがみずから自由を手放すだろうか」
という文言が掲げられている

これは編集者が本書の意図を汲んで
作成したものだそうだが
酒井隆史はあらためてルソーの
『人間不平等起源論』の一節に
まさにそのことが書かれてあるのを見つけたそうだ

そのなかで特に重要な点は
「奴隷になった人びとの卑屈さを根拠として、
人間には屈従する自然の傾向があるのだとは、
主張してはならない」という点
そして
「すべての自由な人びとが抑圧から身を守るために、
どのような奇蹟をなしとげてきたかに学ぶべき」
という点である

つまり「自発的隷従」を如何にして避け得るかということ

二〇一一年以降
さらにはこの二〇二〇年以降
偽装されあるいは無自覚に機能させられてきた
「支配する知」がむきだしの露骨さを見せている

それにもかかわらず
いまだその「支配する知」に寄り添おうとする
賢人と奴隷はとくにこの日本では目覚める様子がない
目覚めてはいけない目覚めさせてはいけないのだと
政府もマスメディアも総がかりだ

さすがにここにきて
各地で訴訟事やデモなども起こっているが
それがマスメディアで報道されることはほとんどない

「(国家)暴力への恐怖ということが、
日本の知的言説そのものに浸透して」いるなかで
「過剰な防衛反応を引き起こして、恐怖とその否認によって、
いろいろな無理や不条理が起きている」のだが
それにいかに抵抗すればいいのか・・・

本書に書かれているように
「3.11以前であろうがそれ以降であろうが、
このくり返しの地獄を脱却することなしに、
わたしたちの未来はどこにもない」
まさに「地獄」的な様相を呈している

「2010年代の底の深い保守化ないし右傾化は、
ひとつにはゲームそのもの、この世界を画定している
フレームそれ自体を問う態度の忌避によって
特徴づけられて」いるというが

「上から与えられたフレームをうたがわず、
その課題に即してすぐれた解答を提出する」ように教育され
それに優秀な成績を収めようとするような仕方は
「自由ではなく、隷従」にほかならない

そうすることでは「フレーム」そのものは変わらず
むしろ強化されてしまうことになる
そして「フレームそれ自体を問う態度」は
それそのものが「バカ」として攻撃の対象になる

あとがきに書かれてあるように
「膨大な富を投入して、
システムから振り落とされていく人びとに
なおこのシステムには維持する価値があると夢想
(魯迅=竹内好のいう「夢から醒めないことの救い」)を提供し、
システムを回すにあたっての邪魔者をつくりだしては
それへの憎悪を注入していく」・・・

著者の酒井隆史はインタビューの終わりに
こう語っている

「示したような見解がいまの日本において
まったく孤立したものであることはますます痛感しています。
でも、まあわれわれは独立愚連隊ですからね、
いまの日本語圏で孤立しているということはむしろ誇らしい」

ぼくもたとえ孤立しているとしても
「夢から醒めないことの救い」など求めず
自発的隷従だけは避けながら
少なからず「独立愚連隊」であることを誇りたい

■酒井隆史インタビュー
 「「だれがみずから自由を手放すだろうか」
   ──2010年代と現在をめぐって」(2023/12/28 以文社 サイト)
■酒井隆史『賢人と奴隷とバカ』(亜紀書房、2023/4)
http://www.ibunsha.co.jp/contents/sakaispecial02/

**(「酒井隆史インタビュー」より)

*「──『賢人と奴隷とバカ』は、2012年から2021年あたりまで、およそ10年にわたって書かれた「時事的テキスト」(・・・)と書きおろしで構成されています。

(・・・)

酒井/そこで書いているように、2010年代は、この日本語圏の知的世界が基底の部分から崩れていくような感覚があったんですよね。いまから考えれば、もう手の施しようもなく崩れていたものがむきだしになった、というか。
 現時点でも、その趨勢はなにも変わってないですが、でも2010年代の、特に2011年以降、ある時期までパニック的精神状態が遍在していたのが、2020年頃からのコロナ禍をへて、空気が若干変わったということはいえるかもしれません。しかし、2010年代の日本語圏の知的状況は、悪い意味で時代を画するものだったとおもいます。
 にもかかわらず、わたしにみえてないだけかもしれませんが、この10年をふり返る、2010年代とはなんだったのか、をめぐる議論がそれほどなされているようにはみえません。1980年代くらいまでは、しばしば激しく批判の応酬を交わすなかから、ひとつの時代をめぐってその意味を多くの人が画定し、それによってわれわれがどういう時代にあって、なにを課題にすべきなのかを模索していたようにおもいます。
 そういう態度が希薄になったのが、これもまた、日本の2010年代の特徴だったのかもしれない。つまり、いまわたしたちはどこにいるのか、どのような目的にむけて、どのような役割を強いられているのか、そのゲームの画定そのものを忌避する心性です。そんなこんながあり、こういうものでもまとめておいたほうがいい、とおもいはじめました。」

*「──それは「これまで躊躇なしにはいえなくなった、カッコなしにはいえなくなったことから、カッコがとられていった」といわれていることと関係していますか?

酒井/2010年代の底の深い保守化ないし右傾化は、ひとつにはゲームそのもの、この世界を画定しているフレームそれ自体を問う態度の忌避によって特徴づけられています。フーコーはある時点で、じぶんの仕事の目標を定義して、これまでなんの疑問もなくいわれてきたことを、躊躇なしにはいえなくすること、といっています。実際、日本でもこれまで人文社会科学の知は、そのプロセスの源泉にある大衆運動とも共鳴しながら、そうした役割も担ってきました。ところが、2010年代には、問われてきた主流の価値、それゆえカッコに入れることなしには語れなくなったものから、逆に居直る傾向が強くなった。(・・・)
 2010年代は、知がむしろ、このようにそれまでの蓄積をも掘り崩すように機能しはじめた。」

*「──「この時代にこの社会で起きたのは、ネオリベラルな世界秩序への遅ればせながらの全面的順応の過程であった」と。

酒井/「リベラル」の呼称と語彙系が蔓延していったのがそのマーカーだとおもいます。それまでは多種多様な立場の左派のフレームで語られていた事象も、リベラルの語彙をあてられるようになった。理念を変更するのなら、十分に議論や内省があってしかるべきだとおもうのですが、いつのまにか「いきおい」によってズルズルとそうなっている。それが日本独特の「歴史修正主義」(本当はこの呼称をいまの日本でもつような意味で、ネガティヴにのみ使うのはよくないのですが)の常態化を招いているとおもいます。
(・・・)
 リベラルが社会民主主義者に近いニュアンスをもつアメリカ合衆国の用法に日本の知的世界も近づいたということなのかもしれませんが、アメリカは「プログレッシヴ」と「ラディカル」の厚みによって、その意味や機能がまったく異なります。そして、たとえリベラルと連携する場面があったとしても、原則としてのちがいは先ほど述べた「プログレッシヴ」と「ラディカル」の厚みによってつねに相対化されています。
(・・・)
 日本語圏で近年すすんだリベラルの語彙体系の増殖の含意のひとつは、資本主義と国家というフレームのゲームについてはもう逆らわないし、疑わない、という態度変更があるようにみえるのです。これは深刻だとおもっています。おそらく、この「リベラル」化は、述べているように、「歴史修正」を常態化させるだけではない。現代の「リベラル」化は、エキセン(エキストリーム・センター)の趨勢のうちにあって、それを相対化できないリベラルですから、むしろ、それによって右傾化への歯止めが飛んだ、底が抜けたといってもいいとおもいます。
 なぜ2010代の「三重の破局」と、それ以降のそれなりの運動の活性化がありながら、かくも全般的右傾化が深化してしまうのか。そこには以上のような力学も与っているようにおもいます。

──そうした態度と「エキストリーム・センター(過激中道)」現象がつながっているのですね。

酒井/そうだとおもいます。「エキストリーム・センター」とは、ありていにいえば「リベラル」ですから。ただし、それはネオリベラルのフレームに封じられた「リベラル」です。プログレッシヴとラディカルの遠心力のうちにおかれたリベラルと、エキセンのもとにおかれたリベラルは、その意味や機能を異にします。
 エキセンは、現代においてはネオリベラリズムのとる統治と思考の形態です。(・・・)この概念こそ、2010年代、あるいはその前史を形成する日本のイデオロギー状況を、政治や経済、歴史の過程との関係で解明するための、ひとつの重要な鍵だとおもいます。
(・・・)カッコが解除されていったというのも、このエキセンの精神状況がもとめる、唯一のゲームを受容せよといった態度の表現だとおもいます。」

*「酒井/日本語圏に、マーケティング的心性が、どれほど深く浸透しているかも、おそるべきものがあります。自由も表現もデモクラシーも、なにもかもマーケティング的発想のうちに強力に吸収されているのを目の当たりにすることなんて、めずしくもない。しかし「戦略的に」望まれた「効果」はあったでしょうか? 安倍政権は揺らいだか? 橋下徹でもいいですが、批判的な側からの、かれへの差別的言辞が、かれらへのダメージになっただろうか。むしろ逆ではなかっただろうか。
 いっぽう、批判的知の側のモラルのようなもの、あるいは知的構えのほうにダメージが大きかったのではないでしょうか。「ブラック企業」という呼称が、黒人差別だという抗議がありながら、それを広めた運動側が頑として取り下げなかったでしょう? わたしがこれまで知っていて敬意をもってきた運動の態度とはそれは異なります。」

*「──「放射脳」という蔑称にもあらわれる問題ですね。

酒井/「放射脳」とは、黒澤明の『生きものの記録』で三船敏郎の演じる老人のように、ここまでは考えていいという柵、権力と対抗権力がともに設定した柵を越えて、「本能的に」考えすぎてしまう人、行動しすぎてしまう人です。つまり、フレームを超えてしまう人です。
 かたや、東京はいまや知的生産はともかく、それを発信するメディアの一極集中する場となっています。地方で存在感のある言説の場は、関西ですらほぼ消えている。そして、先ほどから述べているように、2010年代の「リベラル」の自意識は、東京の知的階層、とりわけ文化産業の担い手にとりわけ強くあらわれているように感じられるのです。
 反知性主義批判がこうすーっと共感されたのも、東京の知的階層、しかも「リベラル」化したそれ(階級闘争とかいわない)、といった条件をふまえて考えれば理解できる。まずいのは、もうこうした危機と裏腹のある種の「ナルシシズム」に冷や水を浴びせるような、「地方」的知のようなものも衰弱していて、中央から拡散される空気にたやすく感染してしまうことだとおもいます。」

*「酒井/『賢人と奴隷とバカ』でも、すこしふれていますが、世界的にはネオリベラリズムの浸透とそれに対する左派の順応の過程──左派の「リベラル化」とここではまとめます──で起きている、諸領域にわたる「歴史の書き直し」が問題になって、それとの格闘がひとつの焦点です。フランス革命からレジスタンス、1968年などが、近代史のさまざまな地点の意味が重要な知的アリーナになっている。
 ところが、日本では歴史修正主義というと、15年戦争、とりわけ従軍慰安婦をめぐる言説に集中する傾向があります。それによって、こうした歴史認識全体で起きている動向がみえなくなっていて、たとえば1968年をめぐる言説でなにが起きているのかもみえにくくなっているようにおもいます。これはもちろん、日本におけるエキセン現象の強度と関係しています。

──隷従とはなにか、という問いとそれはどう関係しているのでしょうか。

酒井/「自発的隷従」について再考した論考を本書では書きおろしとしてくわえました(第9章「自発的隷従論を再考する」)が、隷従とか服従とはいったいなんなのか、をあらためて考えておきたいとおもったためです。もともとは、ピエール・クラストルの翻訳(『国家をもたぬよう社会は努めてきた』洛北出版、2021年)に付した解説の一部を書き改めて、展開したものですが。ここは実は、本書の要だとおもっているます。自由もそうですが、隷従とか服従についても、わたしたちはよくわかっているようでわかっていないんじゃないか、というのが出発点です。」

*「酒井/もともと、(国家)暴力への恐怖ということが、日本の知的言説そのものに浸透しているのは、私が若い頃から感じてたんですよね。たぶん、1970年代まではちがっていたとおもうのですが、1980年代くらいから、なんか政治的コンテクストやそれにふれるようなものは、事実であっても、過剰な防衛反応を引き起こして、恐怖とその否認によって、いろいろな無理や不条理が起きていることは、ずっと感じてました。この感性が、ネトウヨのひとつの培養源にもなっているとおもいます。

──エキセンの章でもいわれてましたね。ここには知識人のマチズモがある、と。

酒井/多かれ少なかれ、どこにもあるとはおもいますが、こういう空気のすごく強いのは日本の知的世界のきわだった特徴のようにいつも感じてました。専制政治とかファシズムの苛烈な支配のもとにあるのならまだわかるけれども、なんでこう忌避感が強いのか。それと現実世界での政治的なものへの排除が強化しあっている。それがひとつはベースにあります。たぶんそれは、天皇制のテロル構造、そしてその構造が恒常的に生産する恐怖感とその否認と、すくなくともどこかで関係している。」

*「酒井/本書の帯に「だれがみずから自由を手放すだろうか」という文言があります。あれ、じぶんではいったおぼえがなくて、編集の西山さんが意図を汲んで作成してくれたのですが、でもこうスパッといっていいのだろうか、ともおもわないでもなくて。
 そのあと、ルソーの『人間不平等起源論』をあらためて読んでて、この帯の文言でいわんとするところ、そして本書全体に「ドンズバ」(いまさらすみません…)の一節をみつけた。この『人間不平等起源論』というテキストが、「先住民による批判」のインパクトを懐柔し、その後の世界システムの展開にあたって知的正当化の役割をはたしたことは、グレーバーとウェングロウの『万物の黎明』でいわれているとおりです。ただ、ときおり、このインパクトの懐柔の圧力からあふれて、ルソーが荒々しい自由の方に共振している部分があるんですよね。

──どのようなことをいってるのでしょうか。

酒井  ちょっと長いですが、引用します。

  調教された馬は鞭や拍車にしんぼう強く耐えるが、馴らされていない駿馬は、くつわを近づけただけで、たてがみを逆立て、地面を踏みならし、狂ったように暴れる。おなじように野蛮な民は、文明人が文句もいわずにしたがっている首枷に、けっして首をさしだそうとはしない。そして穏やかに屈従することよりも、危険に満ちた自由を選ぶのである。だから奴隷になった人びとの卑屈さを根拠として、人間には屈従する自然の傾向があるのだとは、主張してはならない。すべての自由な人びとが抑圧から身を守るために、どのような奇蹟をなしとげてきたかに学ぶべきなのである。/奴隷になった人びとは、鉄の鎖につながれて享受している平和と安息を、たえず褒めそやしていること、そして「この上なく惨めな奴隷状態を、平和と名づけている」ことは、よく承知している。わたしは、すべての自由な人びとが、自由を喪失した人びとからきわめて軽蔑されている財産[である自由]を守るためには、自分たちの快楽も休息も富も権力も、そして生命すら犠牲にするのをみるにつけ、そして自由なものとして生まれた動物が、囚われることを忌み嫌って、捕らえられた檻の鉄棒に頭を打ちつけるのをみるにつけ、さらに多数の赤裸な未開の民が、ヨーロッパ人の悦楽を軽蔑し、飢えも戦火も鉄の鎖も死をも恐れずに、みずからの独立を守ろうとするのをみるにつけ、自由について語るのは、奴隷のなすべきことではないと実感するのである」(中山元訳『人間不平等起源論』光文社新訳文庫、162−3頁)

「奴隷になった人びとの卑屈さを根拠として、人間には屈従する自然の傾向があるのだとは、主張してはならない」という点、「すべての自由な人びとが抑圧から身を守るために、どのような奇蹟をなしとげてきたかに学ぶべき」という点は、とりわけ肝に銘ずる必要があります。」

*「──最初に書かれたテキストとされている、第8章「「しがみつく者たち」に」に、すでに「賢人と奴隷とバカ」というコンセプトがあらわれていますよね。

酒井/福島第一原発事故直後にご多分に漏れず、水俣病関連、足尾銅山事件関連、そして田中正造の文献などを集めて、読んでいました。あらためてこの日本社会のおどろくべき変わらなさを痛感するんですよね。政府は隠蔽し、御用学者がしばしば「科学」を盾にそれをサポートし、大学制度のなかで出世し(さらに保守のみならずリベラル系出版社で活躍し)、批判の声をあげる勇気のある研究者は「干され」、メディアは「公式見解」を流布し、抗議者をしばしば「暴力的」と非難し、被害者、とりわけ物申す被害者は差別される。使用される言葉遣い、レトリックまで、ほとんど変わらないことが多い。ただそこに、その都度の固有名を代入すればいい。
 この文章は、そのような残酷なエリートたちをひとつの極として、その対極に、「しがみつく」大衆のありようをおいたものです。ここには「賢人と奴隷とバカ」における「バカ」のひとつの様態、近代化の過程でひんぱんに生じてきた外からの生活の解体に抵抗する人びとの様態があります。福島第一原発事故のばあい、むしろ避難を望む人びとの移動を阻止し、その場に抑えつける動きが強力だったので、そこにひねりがくわわりますが、結局、追いだして移動を強いるのも、移動を阻止してその場に抑えつけるのも、おなじ作用、生そのものへの無関心と生の管理統制への関心の作用の表現なんですよね。
 ここで「せっかく便利になるのに」(虚偽か本当かはヴァリエーションがありますが)と、深く根ざした生活環境に「しがみつく」人びとを軽蔑して、変化を促すエリートたち、テクノクラート的思考法の人たちが、竹内好のいう日本の「優等生」の典型です。ひとつの宿題を脇目もふらずこなし、上のものがなにを答えてほしいかを察知し(こういう問いは、知識を問うだけでなく、つねに同時に、問いを提出する主体の欲望を洞察し、それにただしく応じる能力、つまり「服従力」を問うています)、そつのない解答を提出して、優秀な成績をおさめる学生みたいなものですよね。上から与えられたフレームをうたがわず、その課題に即してすぐれた解答を提出する。
 この試験には強い優等生の柔軟性は、ネオリベラリズムのフレームでいうところのフレキシビリティ(たとえば雇用の流動化という意味での柔軟性)に相性がいい。フレキシビリティは自由ではなく、隷従です。全面的フレキシビリティは、全面的隷従です。日本はぜんぜん改革できないとネオリベラルあるいはエキセンは嘆きますが、実は、ここまで労働組合をはじめ抵抗する組織を無力化させることに成功して、だれもそれ以外の世界をほとんど想像もできなくなったという点では、ネオリベラリズムにおいても超優等生なんですよね。
 ネオリベラリズムの劣等生とみえているものは、実は、ネオリベラリズムのもつ特性である、反生産、腐敗、官僚主義、創造性の封殺、自己解体の度合いにおいて、逆説的に優等生のあかしでもある。ネオリベラリズムでも優等であるとみなされているものは、ネオリベラリズムあるいは資本主義一般へのカウンターの強度ゆえもたらされているのです。でも、よくいわれることですが、優等生は危機に弱い。とりわけ、フレームそのものを変化させねばならない深い危機においては、まったく対応できなくなる。

──その「優等生」のいわば外発的順応による変化である「フレキシビリティ」にいわば内発的変化を対置していますね。

酒井/これは元ネタというか、発想源は、たぶん想像できるとおもいますが、カトリーヌ・マラブーです。フレキシビリティに対するプラスティシティ、つまり可塑性です。
 この概念は、「かたちを受容する能力」と「かたちを与える能力」の両方を指すわけですが、わたしが注目したいのは、柔軟性と同時に独特の抵抗力や頑迷さ、そして爆発力をもっている点です。バカのかかわる変化は、優等生のかかわるフレキシビリティではなく、この可塑性を意識しています。ちなみに、マラブーは最近、最も高次の可塑的政治形態はアナーキーだといってますが、それはおいておくとして、この二つの変化のちがいは、先ほどの例でいえば、マーケティング的なあたらしさと「世代」を構成する切断的あたらしさのちがいといってもよいです。
 この概念的区別をすると、竹内好がなにをいわんとしたかもよりよく分節できる気がします。優等生的フレキシビリティは、ネオリベラリズムの時代にその十全な適応をみますが、それまで日本の近代をつらぬいてきた支配的態度でもある。これが同時に保守的態度でもあるのは、「変わることで変わらない」(含蓄ぶかいことに、ルキノ・ヴィスコンティの名作『山猫』においてイタリアの没落貴族が、支配的地位だけは手放さず資本主義的近代に順応するさいに放つセリフでもあります)という資本主義的近代そのものに内在する論理があるからです。
 魯迅と竹内は、それに対して、けっして変化そのものの拒絶を対置していたわけではない。なんといっても、かれはありうべき「モダニティ」を模索していたわけですし。資本や国家のコマンドによって外発的に迫られた変化に対応するフレキシビリティではなく、内発性と偶然によってみずからを変化させ、みずからを発明する可塑性。竹内の言葉遣いによれば、前者が「転向」で、後者が「革命」ということになります。」

*「──本書ではこう書かれています。「3.11以前であろうがそれ以降であろうが、このくり返しの地獄を脱却することなしに、わたしたちの未来はどこにもない」。

酒井/ここでいう「地獄」は、初期社会主義者からの批判的伝統における用法の系譜を意識してます。フーリエによる用法が最初とされていますが、初期社会主義者からマルクスにいたるまで、かれらは資本主義社会の特徴を「地獄」と形容しました。「社会的地獄」とよく表現されます。
(・・・)
 ただしこの時代とちがって、わたしたちの時代のブルジョアジーは、さっきのフロイトの夢(「お父さん、ぼくが燃えているのがみえないの」)とも似て、まさに気候変動によって残りの人類をはじめとする存在が劫火に焼かれているなかで、それを正視できずパーティーをつづけているような感じですよね。

──事態はより切迫しているということでしょうか。

酒井  ベンヤミンがそこに「生産秩序の今後の発展」の帰結をみていたファシズムと戦争より、もしかすると、もしかすると、もっとおそろしい未来像もみえてきている。タイタニックの沈没だけでことはすまないわけですよね。まさに、惑星全体が「燃えはじめている」わけですから。
 でも、もうひとつつけくわえておかなければならないのは、かれらの知識人はともかく、かれら自身は「正視する勇気をもたない」というより、じぶんたちだけは生き残れると考えているようにみえることです。
 つまり、ひとにぎりの神のごとき(「ホモ・デウス」?)われわれは、不死のテクノロジーをも確保し、隔離された都市、あるいは『エリジウム』のような衛星、あるいはテラフォーミングされた別の惑星に半永遠に生きる。こうしたSF的ヴィジョンが、現実味を帯びはじめてきている。この点は、ピーター・フレイズの『四つの未来』が「エクスターミニズム」という概念で、とても明快に分節しています。

──あとがきでは、こう書かれていますね。「膨大な富を投入して、システムから振り落とされていく人びとになおこのシステムには維持する価値があると夢想(魯迅=竹内好のいう「夢から醒めないことの救い」)を提供し、システムを回すにあたっての邪魔者をつくりだしてはそれへの憎悪を注入していくだろう」。

酒井/近年における新興メディアと従来の支配的メディアとの、右派の若手知識人のプロモーションへの熱意はちょっと異様なものがあるでしょう。こうした現象は、あきらかにシステムの根源的危機に対応した支配集団の応答ですよね。デヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ」の厳密な定義とはすこしズレますが、しかし、2010年代には「ブルシット言論」みたいなジャンルがはっきりと生まれてきたようにおもうんですよね。それはすべての深刻な問題を、「クソどうでもいい」おしゃべりに変えてしまう。あるいは、「クソどうでもいい」論点をこさえて、なにか語る意味のあるかのように語る。
 そうした「ブルシット言論」と「ブルシット知識人」が、もちろんそれ以前から萌芽的にはあったとはいえ、既存のメディアというよりも、新興富裕層とかれらの支配するあたらしいメディアの膨大な富によって支えられながらあらわれたのが2010年代でもあった。これは支配層のもつ危機感とも対応しているとおもいます。実質的にもはや大衆を買収することはますます不可能になりつつある。そこで、巨大な資金を投入して、ひっきりなしにイデオロギーを注入することによって、その亀裂をとりあえず縫合する、といった。
 ちょっと不思議におもうのは、メディアにやたらと登場して、専門外のことでも森羅万象を、それほど実績があるわけでもない若い研究者が饒舌に語ってますけど、あれってちょっと前なら、「あんなにテレビにでて、いつ勉強してるんだ」とか、お茶の間レベルでもいわれてませんでした? 知らないだけで、いわれてるんですか? 実感としては、ほとんどみたことないんですが。どうですか?

──うむむ、たしかにあんまりみませんね。

酒井/なんで、あんまりいわれなくなったんでしょう。しょせん、研究とはそれぐらいのものと社会がみつもりはじめているのなら、本当に憂慮すべきだとおもいます。でも、そういうアピールにはなってますよね。あんなにテレビにでて、遊んでて、それをSNSでしょっちゅう流してて、それでいて、学者として、知識人として、世界の事象についてなんでもしゃべれる。なんでもしゃべれるためにも、その程度の研究でいいのか、と。
 いずれにしても、しかし、ここではたんに若い口からいわせること、それだけが重要なんですよね。とすると、ここでいってきたことの純化した表現ですよね。たんに「あたらしい」というだけで価値がある。生物学的に若いというだけの口からでてくるというだけで、実質となんら関係なく価値がでてくる。商品化した言説の極北。かれらは一貫性もなにもかかわりなく、その都度、支配集団のいってほしいことをいいます。批判や疑義がわきおこったら、それをたたきつぶす役割です。これも実質的に説得力がなくてもいい。どんなに正当性のある批判でも、それに対して著名人が難癖をつけて、正当性に瑕疵があるかのようにみせかけられれば役割をはたしたことになる。あるいは、深刻な問題を深刻でないかのように、本質でない問題を本質であるかのように、ただ戦略的な筋に沿って語ることだけが問題なのです。そしてそこに、膨大な資金が投入され、お金がまわるシステムが構築されている。ブルシット・ジョブの構造がここにもみいだせるようにおもいます。
 ブルシット知識人が、みずからむなしいと感じているかどうかはわかりません。もしそのような感性があったら、そういう役回りには耐えられないかもしれません。ですが、かれらがブルシットな存在であること、無意味であるばかりか有害である存在であることはたしかです。高齢者は切腹せよ、なんて放言してはばからないわけですから。

──だから、「若づくり」にまどわされてはならない、と強調されているんですね。

酒井/そう、「若づくり」に幻惑されない、ということは「このくり返しの地獄を脱却すること」の第一歩だとおもうのです。ただ、それは、なぜ3・11以降をめぐってこうなったかをめぐる応酬すらない、いまの保守化のはて、順応のはてに衰弱をきわめた日本語圏には、すくなくとも長期にわたってむずかしいかもしれません。例外は、もちろんいくつかあります。
 でも、2010年代の日本の趨勢は、基本的に、コロナ禍ですこし足踏みをしたとおもいきや、ふたたび順調に2010年代のパラダイムの延長上で、内向と保守化をより深めているようにみえます。もはや右翼どうしの争いになりはててしまった代表制レベルでの「政治」は、この趨勢のひとつの帰結ですよね。本書を公刊してすこしたちますが、そこで示したような見解がいまの日本においてまったく孤立したものであることはますます痛感しています。でも、まあわれわれは独立愚連隊ですからね、いまの日本語圏で孤立しているということはむしろ誇らしいと、著者は決然と言い放つ、と。」

**(酒井隆史『賢人と奴隷とバカ』
   〜「00 はじめに————賢人とドレイとバカ 二〇二三年、春」より)

*「二〇一六年くらいのこと、こういう寓話がウェブに転がっているのをみつけた。(・・・)
  (・・・)
  いまでは選択肢も賢い二つしかありません。この二つは賢いので、とても似ています。バカは選ぶことをやめてしまうか、自分も賢いとおもいはじめました(そうしてドレイと見分けがつかなくなってしまいました)。自分を賢人とおもっているドレイだらけですから、(・・・)そうだそうだと賛成します。バカと思われたくないからです・こうしてバカはこの国からいなくなりました。

  主人の側の賢人たちもバカがなにより嫌いです。かれらは、ドレイの側の賢人はバカにだまされているか、実はバカである、と考えています。だから、正真正銘のバカがいなくなると、勢いにのって、バカ疑惑のある賢人のことなどかまう必要などないといいはじめました。バカを追いだせ、と。バカの話なんかいらない。なぜならバカだからだ。
  おれたちはバカではない、と。賢人と賢いドレイたちは口ごたえをします。バカはおまえたちのほうだ。おれたちはこんなに賢いし、バカではないかた立派なふるまいかたも知っている。バカとはちがって、ゴミも拾える。だから、主人にはわかるはずだ。主人は聞いてくれるはずだ。
  しかし、もうその言葉も空しく大空に消えていくだけです。(・・・)だれもとりあいません。
  賢人と賢人のつもりのドレイたちは必死で叫びます。われわれはバカではない。

 ***

 知る人が読めば一目瞭然であるように、この一文は魯迅の「賢人と馬鹿と奴隷」のパロディである。」

*「当のエッセイの翻訳者である竹内好は、この寓話をことさら愛し、しなしば日本の近代のありようをそこに読み込んだ。

 いわく、日本の近代は、優秀な賢人たちによっておしすすめられた優等生の文化である。そこには、中国の近代のような抵抗が不在であるか、きわめて乏しかった。中国においては、進歩的近代に対し、あちらこちらで反動的な抵抗が起きて、足を引っ張った。それが、ひとつには日本に遅れた原因である。

 ではなぜ、日本の先の大戦における敗戦、日本の近代そのものの破局にいたったのか。本来憂愁な文化であるにもかかわらず。

 通説にいわく。それは優等生のなかに劣等生がひそんでいたから、あるいは大衆のうちに抱えた劣等性ゆえに負けたのだ。

 しかし、と、竹内はいう。日本の近代はその優秀性ゆえに、「負けた」のではないか。」

*「魯迅のような作家を生みだす土壌においては、人はいささか過大なほどに自己に固執している。だから、状況がどれほど変わろうが、にわかに方向を変えることはできない。わが道を歩くしかない。しかし、かれらはのろのろ歩きながら(生きていくには前へ歩かざるをえない)、自己を変えていく。歩くことは、成長したり、困難に遭遇してみずからを変容させたり、それ自体、人が変わることでもあるからだ。しかし、それは自己に固執するがゆえに、わたしがわたしであるために、変わるのである。「私が私であるためには、私は私以外のものにならなければならぬ時機というものは、かならずあるだろう」。それが個人にあらわれるとき「回心」(「転向」とは逆の)になり、あるいは社会にあらわれれば「革命」となる。

 しかし、日本には、この固執する自己がそもそもない。したがって、自己であらんとして内側から変わろうとするのではなく、環境の変転にあわせて、外部の力によって変わっていく。これが日本の優秀さの秘密である。

 いうまでもなく、魯迅は(そして竹内自身も)賢人を憎んでバカを愛していた。とはいえ、賢人がドレイを救うとは考えていないのは当然としても、バカがドレイを救うと考えていたわけではない。そこに注意でよ、と、竹内はいう。日本であれば、これらのキャラクターふぁそろえば、すぐに賢人かバカがドレイを解放するという物語を構成してしまうだろう。しかし、魯迅にとってはそうではない。そこで提示されているのは、だれが夢を充填してくれるかではなく、「夢から醒めても道がない」という苦痛をえがいた物語なのである。
 賢人たちは、この幻想の空間をけんまいに補充しようとするだろう。バカも、語り方によってはそうした物語の一部を構成してしまうだろう。しかし、それたはいずれも、与えられる道の話、与えられる解放の話である。それは相変わらず主人だけあたらしくなったドレイの物語にすぎないのである。魯迅によれば、この苦痛を十全に受け止めることなしに、与えられる解放という幻想を破壊して、ドレイがドレイであることをやめる道はひらけないのである。」

**(酒井隆史『賢人と奴隷とバカ』〜「第Ⅰ部 無知と知、あるいは「大衆の恐怖」について」
 〜「01.現代日本の「反・反知性主義」? 」より)

*「これは筆者の印象なのだが、昨今の日本の状況が「反知性主義」に侵されているとみえてしまうその文脈には、排外主義やレイシズム、セクシズム、あるいは「ポピュリズム」の言説を、その根拠に乏しくとも、貧困層や失業者に即座にむすびつけようとする傾向が執拗にあることと関連しているのではないか。つまり、そこにはそれらの忌むべき「邪悪な情熱」が、知性の反対の産物であるという。それこそ「偏見」がひそんではいないだろうか。

 そして議論がこうつづく。それらの「邪悪な情熱」は、近年の流行語でいえば「思考停止」の産物にほかならない。したがって「知性」を働かせるならば、あるいは「事実」を知るならば、「教養」を積むならば、そうした卑しむべき態度も必然的に解消するはずだ、と。しかし、こうした言説の軌跡をだどっていくなら、それらを練り上げ、メディアを通して流布し、時代の空気の形成を主導してきたのが、もっぱら「知識人」であることはあきらかだ。現在のこのような排外主義的/レイシズムの思考の型は、こうした知識人たちによって練り上げられてきたものの映しである。

 さらに、こうした「知的」な排外主義やレイシズムがのびのびと成長するための栄養分を供給しつづけている普遍的権利への攻撃や「戦後的なもの」への否定と、その気分としてのシニシズムは、長いあいだかけて、制度内外の知識人たちによって耕されてきたものである。現代の排外主義やレイシズムの言説の構造や、さらにそれを醸成する知的気分というものは、あきらかに(狭義広義の)知識人、エリート、メディアの複合体によって「上から」主導されてきたものである。したがって、現代の知的雰囲気を、「反知性主義」と決めつけ、それをときに「群衆化した大衆」に重ねたりする前に、それこそアントニオ・グラムシに謙虚に立ち返り、「市民社会」に分散し、時代を支配する感情や価値にかたちを与えている知識人、あるいは有機的知識人たちの働きの分析、知的ヘゲモニーの分析を必要としているのではあるまいか。」

*「今日の日本の知的状況については、しかし、フーコーのいう知と権力の編成よりは、デヴィッド・グレーバーのいう無知と権力、ないし知と暴力について考えたほうがいい。というのも、その知と権力についての議論がもちえた多様なニュアンスはケインズ主義的福祉国家時代に特有の「妥協的」政治の烙印を押されているからだ。ケインズ主義的福祉国家の時代は、暴力は支配にとって副次的であるという発想が、いわばその恩恵をこうむっている世界の部分にのみ、それなりの説得力をもちえた時代である。しかし、この暴力とう要素を考慮に入れないことには、現在の状況の認識の端緒につくことはできない。つまり、あいかわらずの知による個別の対象化は継続しながら、しかし、支配がもはや、生の増進への関心をさしてもたぬこと、はてしなく増殖する官僚主義的規則と、その有無をいわさぬ押しつけの関係を定式化できないのである。

 官僚制にとっては知とそして無知をも視野に入れることは必要である。そしてその全体は、官僚制が常に暴力を独占した国家装置を背景としていることを念頭におけばみえてくる。つまり、暴力があれば、人は他者を理解するコストを節約できるし、人はあれこれ考えなくてすむ。ジャイアンが、聴衆の顔色をうかがうことなくみずからの歌謡ショーに陶酔できるのは、かれにとってはのび太たちがなにを考えているか知る必要がないからである。ジャイアンに特有の無知は、その暴力に由来しているのである。暴力に裏打ちされた諸機構の「無知の知」のありようは、「人間生活が実際にはらんでいる視点、情熱、洞察力、欲望、相互理解などの間のとてつもなく複雑な駆け引きを無視し、ある規制を制定しそれを破るだれをも攻撃すると脅すこと」にもとづいている。こうして、公園から野宿者を追放する、官僚機構の前線に動員された人びとの表情からは当初の苦汁の色がだんだん消えていく。「現場」の複雑な暗黙の規則や取り決めを解体しながら、増殖する際限のないルールとムダな書類、手続きの増大が、合理化の果ての不合理とカオスを生んでいるのがわれわれの状況だとして、官僚機構とは「すでに愚かである状況の管理」である。カフカを参照するまでもなく、官僚機構は、この状況を愚かでとどめておく必要のためにあるのである。これによって、官僚の「非情」、官僚主義の「バカバカしさ」とこれまでされてきたものも理解できる。

 公園における野宿者の炊き出しについて、それがテロに通ずるといった「知識人」による言説がまかりとおったりする昨今であるわけだが、これが「現場」のさまざまな力学からすればどれほどバカバカしいかはわかるにもかかわらず、しかし、大上段にかまえられた学問的知とみなされるものが、警察発表的あるいはマスコミ的に単純化されたステレオタイプの上に立てられることはめずらしくもない事態である。さまざまな事象について「善悪の二項対立」と括って単純にしりぞけることができるのも、その「善悪の二項対立」に内在する「とてつもない複雑な駆け引き」————戦後の知の特性のひとつはこれを理解することにあった————への想像力を欠き、それ自体の「単純さ」がなにに奉仕しているかに「単純に」目をつむることにある。現代の知性を支配する「エア御用」の思考法とは、そういうものであるように思われる。」

**(酒井隆史『賢人と奴隷とバカ』〜「第Ⅰ部 無知と知、あるいは「大衆の恐怖」について」
 〜「02.「反知性主義」批判の波動──ホフスタッターとラッシュ」より)より)

*「なぜ「反知性主義」のような現象が生まれるのか、かんたんにコメントをしておきたい。

 知そのものは人を解放するために機能することもあれば、人を拘束したり押さえつけたりするために機能することもある。いっぽうで、ヒエラルキーを解体し、わたしたちの共にある条件をよりよくすること、促進することにも決定的に寄与することもあるが、いっぽうで、ヒエラルキーを形成・強化し、専制支配を正当化し、不平等な富の配分に寄与することもある。

 一九六八年以降において、知や知性そのものになにか価値があるといった物言いはもはやできなくなった。日本でならば、たとえば、「大学解体」以降、自主講座運動がなにを問題にしたか、それを想起してみよう。二つの大戦をかろうじて生き延びた知の無垢への信憑も、この時代以降、もはやほとんど全面的に困難になる。問われるべきは、知識人そのものが知を介して組み込まれたヒエラルキーとどうわたりあうかにもなる。そして、知識人は、みずからの知について、どのような条件のもとで人を束縛するものとなるのか。どのような条件で解放的になるのか、自問を強いられることになる。」

「知が支配とむすびつくとき、それはどこかで暴力と縁をむすんでいる。たとえば、国家において、人はつねに動員の対象となっている。それは富の抽出の対象であり。賦役や軍事のための動員の対象であり、逃亡を阻止するために監視される対象である。人びとをそのような対象に仕立てあげるためには、なんらかの知が必要である。文字が必要であり、計算が必要であり、合理的配置が必要なのである。そのような知は、人びとをその生きる平面から抽象化し、それを通して操作的対象とする官僚の知でもある。ここには知でありながら、解釈労働における知の個別性や具体性を欠いている。わたしたちは、上司の顔色をうかがうとき、上司一般の行動パターンを知り、それをあてはめるわけではない。「この」上司の性格やくせをつかみ、「この」上司のいまの感情の動きをつかみ、それによって「この」上司の機嫌を損ねないようにふるまうのである。いっぽう、官僚の知、支配の条件と展開した知は、そうした具体性の平面には無知である。あるいは、その無知とそれによる冷酷を「合理性」と誇るのも、この知である。したがって、この知は、つねに国家の暴力にどこかで繋留している。」

**(酒井隆史『賢人と奴隷とバカ』〜「20.あとがき」より)

*「総じていえば、この時代にこの社会で起きたのは、ネオリベラルな世界秩序への遅ればせながらの全面的順応の過程であった。単一のゲームの勝敗、取り分の大小の競い合いにほとんどが収斂し、それをはみだしていく動きは、全方向から取り締まられてしまう。この世界のありようをひらいてみせるよりは、「政権」やそれを「支持する人びと」に与えるダメージを狙ったようなフレーズが知的にも好んで流布されたのは、そのような態度のあらわれにもおもわれた。内向と保守化が、批判的言説をも覆い尽くしていったようにみえたのである。それまでの実践や知的ないとなみがカッコに括っていた、躊躇なしにはいえなくなったはずの(そう、おもいこんでいた)語彙から、つぎつぎとカッコが外されていった。二〇一一年の「三重の破局」の直後に爆発的にひらかれたようにみえた諸可能性が、なぜそのような空気へと転じていくのか、茫然としながらも、せめて大勢とはちがってもじぶんの考えを記しておかなければと書かれたのが、ここに収めたテキストの大半である。

 いっぽう。二〇一一年以降、世界をみわたすならば、民衆的実践が世界的に呼応し合いながら別の世界のありかたの模索をさらに深めていくにともない、わたしたちがいまどういう時代に、どういう世界にあるのかを大きくつきとめようとする動きが、知の基盤の変動を加速させていったようにみえたし、そこにはしばしば興奮を誘うものがあた。この世界はやはりおもしろいのである!

 しかし、もういっぽうで、パンデミックを転換点として、本書でみてきた悪しき趨勢もより強化され、よりむきだしになっている。世界のエリート層は、破局を富のさらなる蓄積の機会に転じつつ、一手に集中させた膨大な富の防衛のために地球上の多数の人びととたたかう意欲をますます隠さなくなってきた。富裕層とその同盟者は、システムの正当化が困難になればなるほど、「切腹」や「安楽死」などを口にしながら、「たちどころ」の解決、つまり暴力による解決を求めていくだろう。それと同時に、膨大な富を投入して、システムから振り落とされていく人びとになおこのシステムには維持する価値があると夢想(魯迅=竹内好のいう「夢から醒めないことの救い」)を提供し、システムを回すにあたっての邪魔者をつくりだしてはそれへの憎悪を注入していくだろう。老いた恐竜の悪あがきに巻きこまれることなく、わたしたちが生き延びるためには、その「若づくり」に幻惑されないようにしなければならない。本書の目標は、正否はともかく、その幻惑に抵抗すること、そして、すでに地球上のあちこちではじまっている、つぎの世界の組み立ての過程に、いささかなりとも参加することにある。」

○酒井隆史(さかい・たかし)
1965年生まれ.大阪府立大学教授.専門は社会思想,都市史.
著書に,『賢人と奴隷とバカ』(亜紀書房),『ブルシット・ジョブの謎』(講談社現代新書),『完全版 自由論』(河出文庫),『暴力の哲学』(河出文庫),『通天閣 新・日本資本主義発達史』(青土社)など.
訳書に,デヴィッド・グレーバー+デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』(光文社),デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』(共訳,岩波書店),『官僚制のユートピア』(以文社),『負債論』(共訳,以文社),ピエール・クラストル『国家をもたぬよう社会は努めてきた』(洛北出版)など.

◎酒井隆史インタビュー
 「「だれがみずから自由を手放すだろうか」
   ──2010年代と現在をめぐって」(2023/12/28 以文社 サイト)

http://www.ibunsha.co.jp/contents/sakaispecial02/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?