見出し画像

安藤礼二 「燃え上がる図書館/アーカイブ論 第一回 四次元のモニュメント  マルセル・デュシャンの「花嫁」」

☆mediopos-2555  2021.11.14

マルセル・デュシャンの作品
『花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも』は
四次元のモニュメントであった

それは二枚のガラスが上下に重ねられ
上の領域は四次元の「花嫁」
下の領域は三次元の「独身者」たちが
あらわされているとされるが

そこには無限の「書物」が封じ込まれ
その「書物」から
無限の可能性を読みとるよう
意図された作品であるといえる

デュシャンは四次元の「花嫁」を
一つの「球体」をなしているとするが
その四次元における「球体」が
三次元に存在する「独身者」にとっては
その三次元的に顕現される形としてしかとらえられず
「その真の形態を測定することは絶対にできない」
つまり四次元の「球体」である「花嫁」を
三次元においてそのまま見ることはできない

デュシャンは「球体」である「花嫁」を理解するために
四次元を原理的に思考していった

数学者たち・科学者たちの示唆から
点・線・平面・立体を使った思考実験として
幾何学的に四次元を理解しようとし
鏡のなかに反射するその像の在り方のように
それを「ある一つの立体がもつ潜在的な可能性のすべてを
表現したものである」ととらえていたようだ

そして「鏡の部屋のなかに置かれた
鏡の身体を鏡の目で見る」こと」で
四次元の「花嫁」へと到達し
三次元の時空の限界を超えようした・・・

ここからは個人的な見方になるが
四次元は果たして三次元を包むだけなのか
と問うことはできないだろうか

三次元は四次元の射影であるとともに
四次元が投げた影を物質として
仮象としてであれ顕現させる場でもあるのではないか
そして投げられた影を変容させながら
さらに四次元に投げ返すものでもあるのではないかと
つまり四次元から三次元への複製は
ただの複製であるだけではなく
そこで創造されるものがあるということでもある

その意味ではデュシャンの『大ガラス』の
「花嫁」と「独身者」である四次元と三次元は
クラインの壺のようにつなげられることで
有限と無限・生と死を往還し
あらたなものを創造する照らしあう鏡として
とらえることもできるのではないだろうか

■安藤礼二
 「燃え上がる図書館/アーカイブ論
  第一回 四次元のモニュメント
  マルセル・デュシャンの「花嫁」」
 (『文學界 2021年11月号』所収)

「目の前には、巨大なガラスでできた「作品」がある。透き通った二枚のガラスを上下に重ね、そのそれぞれに特異な形象が定着されている。二枚のガラスで構成された、一枚の透明で巨大なタブローがそこにある。上の領域は「花嫁」を、より正確に表現するならば「花嫁」となる直前の「処女」を(あるいは「処女」のままである「花嫁」を)、下の領域は「独身者」たちを、それぞれあらわしたものであるという。「花嫁」は四次元の世界に吊り下げられており、それゆえの「雌の轢死体」とも呼ばれている。それに対して、九体の「鋳型」からなる「独身者」たちは三次元の世界に立ち、不毛で孤独な運動を永久に続ける後代で複雑なメカニズムを形成している。」

「真の『花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも』とは、ガラスの「作品」のことではなく、二つの無限の「書物」をそのなかに封じ込めた二つの箱のことだったのかもしれない。それらを読むことから無限の可能性を秘めた「作品」が生み出されるからである。」

「『花嫁』と『大ガラス』、『大ガラス』と「遺作」は、ともに同じ四次元の表現そのものであった。複製することができない絵画作品、複製を禁じられた立体作品は、どちらも四次元が顕現してくる「鋳型」に過ぎない。「鋳型」とは、それこそ、そのなかから数限りない「既製品」(レディ・メイド)が生まれ出てくる母胎そのものである。「鋳型」から生まれ出てくる「既製品」は、「鋳型」とその起源である四次元を共有しているという点においてはまったく同一のものである。しかし、そうであることとはまったく正反対に、「既製品」としての作品とは、「鋳型」をもとにしてそれぞれの素材を用いて生まれたという点で、つまりは作品においても「鋳型」においても有限の素材の配合がまったく同一となる確率が限りなく少なくなるという点において、無限に多様な個性、無限に多様な差異をもって生まれ出てくるものでもあった。同一であることと差異をもつことの区別が、ここにおいて完全に消滅する。同時に、オリジナルとしての作品とコピーとしての作品を区別する確固たる基準もまた完全に消滅する。」

「鑑賞者が自らの外部にしてその内部として、内部にしてその外部として目にする「花嫁」とは、その「花嫁」が位置づけられる場とは、一体どのように考えられるものだったのか。その一つの明確な答えを、デュシャンは『ホワイト・ボックス』のなかに記してくれている。「花嫁」は一つの「球体」(une sphère)をなしているのである。われわれ三次元を生きる人間にとって、同じく三次元に存在する「独身者」たちは不完全で決定された形態をもつとともに、その形態は必ず何らかのかたちで測定することができる。しかし、四次元に存在する「花嫁」は、われわれ三次元を生きる人間にとっては決定された形態をもちえず、ある場合には大きく、またある場合のは小さく見え、その真の形態を測定することは絶対にできない(つまり、われわれにとってはただ完全な形態としてしか思考することができない存在である)。デュシャンは、それを「球体」として表現したのだ。(・・・)
 なぜ、「花嫁」は「球体」でなければならなかったのか、また、なぜ、ある場合には小さく見え、ある場合には大きく見えるその「花嫁」の「球体」を通して、三次元に生きるこのわれわれは四次元を認識することができるのか。(・・・)『ホワイト・ボックス』のなかには、当時、三次元以上の空間、三次元を超えた空間認識という意味で超空間的な認識として把握されていた四次元を原理的に思考していった数学者たち、科学者たちの見解を記したメモが収められている。問題となっているのは、点、線、平面、立体を用いて、いわば思考の実験として、次元間の「基本的並行関係」(・・・)を応用することで、幾何学的に四次元を理解するという方法である。」

「『ホワイト・ボックス』には「四次元の目」について、こう記されていた。それは、外部に対しては閉じられているが、「その表面にあらわれた三次元の物体(オブジェ)の印象のすべてを、まったく同時に受け入れるような球体状になった網膜」である、と。四次元の目とは、その表面においてありとあらゆるものに総合を与える球体状の「方法」(定式)でもある。「球体」とは四次元をあらわす原理にしてそれを見る方法でもあった。そして、また、少女の裸体が据えられている部屋の壁面には「碁盤目模様をもったリノリウム」が敷かれていた。つまりはチェス盤そのものであった。そうであるならば、少女の裸体は、そのなかに無限の変化の可能性を秘めた、白色に輝くそのチェス盤の上でゲームの過程で女王にまで昇りつめることが可能なポーン(歩兵)そのものでもあったはずである。三次元の「もの」(オブジェ)はすべて四次元の影である。「鏡の部屋」の中心に、秘めた性器として「鏡の目」をもった「鏡の身体」が安置されている。それが四次元の「透視図法」の消失点である。
 その消失点では、どのような事態が生起するのか。『ホワイト・ボックス』には、こう記されていた(かなり語を補った上で訳出する)。「四次元として存在する潜在的な可能性とは、感覚諸器官が捉えることができる外観の下にあらわれる「現実」ではなく、ある一つの立体がもつ潜在的な可能性のすべてを表現したものである(その有り様は、あたかも、鏡のなかに反射するその像の在り方と類似する)。三次元の物体が潜在的にもっているイメージは無限に多様である、あるいは無限の多様体としてあらわれる。それらのイメージは無限に小さく、また同時に無限に大きい」。鏡の部屋のなかに置かれた鏡の身体を鏡の目で見ること。無限は無限を透過させ、無限は無限を反射する。無限は無限に孕まれ、無限は無限を産出する。潜在的な音が立てる響き(Écho.Son virtuel)とも記されている。潜在的に無限の可能性をもった。それ事態は空虚(ゼロ)な音が宇宙全体に響き渡るのである。それが四次元の「花嫁」の正体である。
 四次元には三次元の可能性のすべてが含まれている。四次元に到達できたものは、三次元を規定する時間と空間の限界を乗り越えることが可能になる。(・・・)マルセル・デュシャンの『大ガラス』は、そして「遺作」は、四次元のモニュメントであり、四次元の「タイム・マシン」である。現代のアーカイヴは、そこからはじまる。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?