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高桑 和巳『哲学で抵抗する』

☆mediopos2652  2022.2.19

哲学することは誤解されやすい
本書では共通理解のための前提として
最初にそのことが示されている

まず哲学は哲学史ではないということ
哲学の本の多くは哲学者とその思想の歴史に終始し
本来の「哲学する」というところが抜けていたりする

また哲学は難しそうなテーマを扱っていて
どこか「世事」から離れたところにあるような
そんなイメージでとらえられたりもする

さらに哲学は人生論や教えではなく
それで悩みが解決されるわけではない
哲学することで「世界の見えかた」が変わり
むしろ世の中一般の常識的な見方に
異議申し立てをすることにもなり
一般的にはむしろ生きにくくさえなり得る

以上のことを確認したうえで
著者は哲学を次のように定義している

「概念を云々することで
 世界の認識を更新する知的な抵抗である」

だれでもがもっている「知性」によって
ある程度一貫した「概念」を使いながら
「世界の認識」つまり「世界の見えかた」を変える
つまり現在の世界に対して「抵抗」するということである

「抵抗」にはさまざまな方法がある
実際に行動するほかに
芸術や音楽や文学といった方法があるが
哲学の基本はあくまでも「知的抵抗」である

しかもそれは
「うまくいくかいかないかという価値判断とは無縁」で
「世界を実際に変革するとはかぎらない」
ある意味ではあらゆる「抵抗」の根っこのところにある
「知的な知覚の変容」である「世界の見えかた」に関わっている

mediopos2636(2022.2.3)でハナムラチカヒロさんの
『まなざしの革命/世界の見方は変えられる』をご紹介したが
ここでいう「抵抗」はまさにその
「まなざしの革命」に連なる営為だといえる

なぜ「抵抗」せざるをえないのか
それは「世界の見えかた」が変わると
すでに世界はそれまでの姿とは変わって見えるからだ

それは世界認識のOSが変わることもでもあるから
それにともなって
さまざまなソフトウェアやデバイスも
かつてのままではいられなくなる
かつての「そういうものだ」が通用しなくなるのである

■高桑 和巳『哲学で抵抗する』(集英社新書 2022/1)

「哲学は何ではないのでしょうか?
 哲学とまぎらわしいものはたくさんありますが、ここでは三つだけ挙げます。
 哲学は、哲学史と同じものではありません。これが第一点です。
 哲学史とは、連綿と続く、いわゆる哲学者たちの営みを語っていく歴史のことです。実際には、哲学史をなぞることで学ばれることはしばしばあります。少なくとも大学ではそうです。」
「しかし、彼らが今日に至るまで集団で形作っているらしい思想の連鎖を学ぶことと、哲学を学ぶことは、まったく違います。」
「哲学史を通して自分なりに学べることはたくさんあるにしても、哲学史を哲学と混同しないということは本当に重要です。」

「哲学とは、「高邁な理念を論じていなければならない営み」ではありません。これが第二点です。」
「世事から遠いもの、賢そうなもの、深遠そうなものなど、哲学らしさのイメージを形作っているものは、いずれもイメージにすぎません。」
「しかし、哲学はそれだけではないし、必ずしもそこからスタートするものでもない。」

「哲学は深刻な悩みそのものではないし、ましてや悩みの解決でもない。これが第三点です。」
「哲学は、生死を含む人の深い悩みに対して、救済や解放を一方的に与えるものではありません。」

「私のお手製の(哲学の)定義は次のとおりです。

  哲学とは、概念を云々することで世界の認識を更新する知的な抵抗である。」

「概念というのは、一貫性のある単語ないし表現のことです。」

「「云々する」とは(…)何らかのしかたで話をする、議論をするということです。」

「大事なのはその「世界」が何らかの全体である、まとまりであるということです。」

「認識というのは、単に情報をニュートラルに受容する、Aという情報があったときにAと理解する、ということではありません。認識は一種の知覚、感覚です。そこには情緒や情感がおのずと含まれます。しかし、この認識という感覚は五感には属していない。(…)
 「世界の認識」というのは、あえて「頭」を視覚に喩えれば、「世界がどのように見えるか」、「世界の見え方」と言えるようなものです。」

「哲学は世界の認識を更新する、ということは、哲学は単なる伝承ではありえない、ということでもあります。」
「どんなに稚拙であろうとも自分なりに考える、という契機が絶対に必要です。」
「哲学的な意味での思考は、これまでの世界の「見えかた」を、ある意味では否定することです。支配的な、マジョリティの、当たり前の、これまでどおりの「見えかた」というものがある。(…)そのような支配的な「見えかた」に大なり小なり打撃を加え、違う「見えかた」をい示すのでなければ、その営みは哲学の名に値しません。」

「あらかじめ、知性が感覚や感情から離れたところにある、というわけではありません。知的であることは情のなさとして了解されることの、何と多いことか!」
「知性とは単に、みんなが等しくもっている「頭のよさ」、「頭のキレ」なのです。そして、「頭」を使う人に「心がないわけではけっしてない。」

「抵抗とは、やむにやまれぬ振る舞いです。「大きなものに流されそうなときに、断固踏みとどまること」です。それは運動の形を取ることもあれば、不動の形をとることもあります。「大きなもの」が不動を強いてくるのでられば動くことが抵抗ですし、動きを強いてくるのであれば動かずにいることが抵抗です。総じて、「言うことを聞かないこと」と言ってもいい。」
「「こうすべき、こうあるべき」とする、あらゆる意識的・無意識的な、有形・無形の思いなしが、広い意味での権力を駆動させている当のものです。(…)
 そのような、広い意味での権力にあらがってしまうことは「抵抗」一般です。」
「抵抗は多様です。芸術制作という形を取ることもあるし、サボりや無視という形を取ることもある。社会的規範に対する違反という形を取ることもあります。
 あるいは、意図的にせよ無意識にせよ、体が動かなくなるとか、病気になってしまうとかいった営為も、窮極的には抵抗になるばあいがあります。」
「抵抗は、それがうまくいくかいかないかという価値判断とは無縁です。」
「哲学もまた抵抗です。それは知的な抵抗です。哲学という抵抗もやはり、有用性や有効性によって価値を計られることはありません。
 つまり、哲学という抵抗は、世界を実際に変革するとはかぎらない。世界に実際的な影響を及ぼすとはかぎらない。抵抗によって状況が変わることももちろんあるけれども、変わらないことも多い。勝つこともあるけれども、負けることもたくさんある。
 しかし、勝とうが負けようが、当の哲学の営みによって、そのとき「世界の見えかた」はすでに変わっている。そのようんば、知的な知覚の変容というところで抵抗をやすやすと遂行し、概念のたわみが堪えられる限界までじりじりと抵抗を継続するのが哲学なのです。」

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