マーク・ボイル『ぼくはテクノロジーを使わずに生きることにした』
☆mediopos-3031 2023.3.6
あたりまえだと思いこんでいるものが
必ずしもそうではないと
その生き方を通じて示してくれることは
「あたりまえ」を根底から問い直す
知恵と勇気を与えてくれる
著者のマーク・ボイルは
かつて「お金を使わずに生きる」こと
さらに本書では
「テクノロジーを使わずに生きる」ことを試みている
「お金」と「テクノロジー」
それは現代人にとって
「あたりまえ」で
「なくてはならないもの」の代表であり
象徴であるといってもいい
おそらくそこになにがしかの矛盾が生じることは
避けられない部分もあるだろうが
それでもその試み/挑戦を通じた
いわば現代文明への批判ともなりえていることは
特筆に値することはたしかだろう
そして訳者が「あとがき」の最初を
「「あなたにとって「絶対これだけは手ばなせない」と
思うテクノロジーはなんですか?」からはじめているように
テクノロジーにかぎらず
自分にとって「絶対これだけは手ばなせない」ものを
問い直す大切なきっかけともなり得る
それは「物」だけではなく
ほかのさまざまなことについてもに言えることだ
そして問い直す際にも
自分自身を他者のようにみなして
「絶対これだけは手ばなせない」と
思いこんでいるもの・ことを
数え上げてみることもおりにふれて必要なことだ
そしてときにはそれらの思い込みを
自分で笑いとばしてみることが
自分を解放してくれきっかけとなる
しかしそうしたことを「主義」にしてしまったり
極論に走ってしまうようなことは避けたほうがいい
それは自分を解放するのではなく
逆にその場所に閉じ込めてしまうことにもなるからだ
■マーク・ボイル(吉田奈緒子訳)
『ぼくはテクノロジーを使わずに生きることにした』
(紀伊國屋書店 2021/11)
(「プロローグ」より)
「明日から小屋で電気のない生活――長いあいだ当然視してきた文明の利器、すなわち電話、コンピューター、電球、洗濯機、蛇口の水、テレビ、電動工具、ガスコンロ、ラジオも、一切ない暮らし――がはじまるという日の午後、一通の電子メールが届いた。ぼくが受けとる人生最後のメールとなるかもしれない。差出人は出版社の編集者だった。その日の新聞に寄稿した文章を読んで、体験をもとに本を書く気はないかと連絡をくれたのだ。」
「産業文明から「プラグを抜く」と決めたときからさらに一〇年ほど前、ぼくはお金を使わずに暮らしはじめた。最初は一年間の実験のつもりだった。結局、その「カネなし生活」を三年間つづけ、以降、お金が人生に果たす役割は非常に小さくなった。そう聞いて、マゾッ気の強いやつだなと思った読者もいるだろう。まあ無理もない。
ところがどっこい、実際はその逆に近い。「〜を手ばなし」「〜なしで生きる」「〜を断つ」などの表現はどうしても、自己犠牲や制約や禁欲を連想させ、得られるものよりうしなうものに耳目を集めがちである。たとえばアルコール依存症者について「酒を断つ」ことが盛んに語られる反面、「健康と良好な人間関係を手に入れる」との言いかたはあまりなされない。人はつねに何かを選択しつづけている。それまでの人生の大半をとおしてぼくは、ごく当然のように、金銭と機械とを選択していた。と同時に、金銭と機械が肩代わりしてくれるもろもろなしで生きることを、無意識のうちに選びとってもいた。誰もに関係する問題でありながら、誰もがめったに問おうとしない————この短く貴重な手探りの人生において————自分は何をうしなう覚悟を持ち、何を手に入れたいとお望むのか、と。」
「現実を正確に言語化するには限界があれど、最初の章(「自分の場所を知る」)でお伝えしたいのは、ぼくがみずからをその一部と化すべく努めている風景と、あらたな生活をはじめた小屋の雰囲気だ。それ以降の章では、人をさまざまな意味で生きる屍に変えてしまう(とぼくが確信するにいたった)文明の利器をそぎ落としていく過程を、四季の移ろいに沿ってお見せする。だから本書は、テクノロジーを使わずに生きる男自身の物語というよりも、見聞きした事柄、現実的な諸問題、農園の木戸越しに交わされた会話、冒険、省察の寄せ集めといえよう。その描写をとおして、生命の基本要素にまで近代的浪費を切りつめようと試みる人間の暮らしが浮かびあがってくることを願っている。」
(「秋」より)
「人からはしょっちゅう、今後もずっとこの生活をつづけるつもりかと聞かれる。周囲の人たちと同じく、ぼくにも将来何が起きるかはわからない。しかし、現代生活の虚飾を手ばなして一〇年たったいまでも、やっと上っ面をなでたにすぎないと感じている。人間の経験には、まだ想像もつかぬ奥の奥があるのだ。ぼくら全員が————自分の責任ではないにせよ————生まれた瞬間から包まれてきた、野心だのプラスチックだの安楽さだののぶあつい層によって、幾重にも隠されている深みが。ぼくとしては、こうした深みをさらに追求して、その下にどんな宝物が隠れているかを知りたい。だからこそ、あらゆる人間らしさと引きかえに安楽さを売りこんでくる生き方には、退行したくない。
万が一にもできるならば、産業文明が濫造した「レンズ」を取りはずして、自分自身の目で、この世界をありのままに見たい。もっとも根源的なレベルにおいて人間は動物であるけれども、その事実が真に何を意味するのか、ぼくにはまだ、ほとんどわからない。何年も前にこう決めた。生計を立てるためにわが人生をついやるのではなく、わが人生をじかに生きよう、と。その気持ちは、今日まで少しも変わっていない。パトリック・キャヴァナが述べたとおり、ぼくも、自分の馬、自分の魂を、いちばん高値をつけた入札者に売りたいとは思わなくなった。「溝を踏み越えて南へ」行った場所の草を実際に味わってみて、農地で栽培された牧草よりもうまいと気づいてしまったのだ。
数週間前にイベントに呼ばれて話をしたとき、「年をとったらどうするつもりか」との質問を受けた。ぼくの答えは「みなさんと同じく、ぼくも死ぬでしょう」。八八歳になって酸素マスクをつけ、死を恐れ、今後どうなることかとおびえつつ、平穏無事な一生を終える————そんなふうにはなりたくない。死との関係は、生との関係を大きく変える。真に生きている感覚をついぞ味わうことなく、不健康な生を長らえるのは、あまりにも易しい。」
(「シンプルであることの複雑さ」より)
「ぼくの暮らしはしばしば「シンプルライフ」と形容され、ときに自分でもこのことばを使う。ある意味で、ひどく誤解を呼ぶ表現だ。この暮らし————わが生業————は、シンプルさとはほど遠いのだから。実際には、かなり複雑な生活であって、ただし、あまたのシンプルな細部でできている。逆に、以前に都市で送っていたのは、かなりシンプルな生活で、ただし、あまたの複雑な細部でできていた。産業文明の無数のテクノロジーはいまや複雑化をきわめ、ふつうの人の生活をかえって単純化してしまう。
あまりに単純すぎるのだ。明けても暮れても、複雑なテクノロジーを利用した同じことのくりかえしに、ぼくはうんざりしてしまった。(・・・)テクノロジーを拒絶した理由の一端はここにある。スイッチ、ボタン、ウェブサイト、乗り物、電子機器、娯楽、アプリ、電動工具、ガジェット、各種のサービス業者、癒やしグッズ、便利グッズ、生活必需品の数々に取りかこまれていると、自分の手ですることなどほとんど残されていないと感じた————唯一、ほかのあらゆる物を買うカネをかせぐ仕事をのぞいては。だからぼくは、カートパトリック・セールが『ヒューマンスケール』で述べたとおり、「単純化よりも複雑化」を望むようになった。
だが、産業社会のテクノロジーや官僚式の手続きが複雑である一方、当の社会そのものはちっとも複雑でない。
(・・・)
けれども見かたを変えれば、ぼくの暮らしには時代を超えたシンプルさがある。産業社会がぼくらを「真空パック」してしまうプラスチックフィルムを、はぎ取ったあとに残るもの、すなわち人間が本当に必要とするものは、いたってシンプルだった。新鮮な空気、清浄な水、ごまかしのない食べ物。仲間。手入れするだけで動く自立共生的な道具を使い、自分の手で割った薪と、そこから得られる暖かさ。ぜいたくも、ガラクタも、不必要なまわりくどさもない。何かを買う必要も、何かになる必要もない。虚飾もなければ、請求書もなし、物事をややこしくする中間業者をとおさずに、ただ、ありのままの生と直接かかわりあうのみ。
シンプルだが、複雑だ。」
(「後記」より)
「本書を書き終えて二か月後、ぼくにもいよいよはっきりわかってくる。一字一句までを手で書いては書きなおした原稿が、実際に日の目を見るためには、すっかりタイプしなおされる必要があるのだ。
(・・・)
それでもしばらくは、かたくなに抵抗をつづけていた。ところが、あるとき気づく。この状況は、一〇年前にカネを手ばなしたとき以来つきまとっているのと同じ問題が、少し形を変えて再浮上したにすぎない、という点に。文明の利器の多くを使わないと決めた瞬間から、ふたつの選択肢と向き合ってきた。ひとつはいわゆる「原始人になる」道で、産業社会には地獄へなりと行っていただく(いずれにせよ産業社会はまっしぐらに地獄へ行きたがっているようだが)。このアプローチにかならず寄せられるのは、「自分本位の現実逃避であって、当人以外の誰の役にもたたない」という批判だ、そうした批判には理論と実際の両面で賛成しかねるものの、ぼく自身、この方向性はどうにもしっくりこなかった。
もうひとつの選択肢は、自分の望む生活を送りながらも、問いなおしの対象とする社会の一員でありつづける道。このアプローチに対する代表的な批判は「偽善」だ。というのも、当の社会のありかた————しばしば自分のありかたと真っ向から対立するそれ————に関与せざるをえないわけだから。でも、このアプローチには、ぼくが走りがちな強硬路線のイデオロギーを超えた何か、誠実な何かが感じられる。それにしても、偽善がなどこんなに評判が悪いのか、まったく理解に苦しむ。デイヴィッド・フレミングが『リーン・ロジック』で述べたとおり、「その人自身が実践できていないからといって、よりレベルの高い生きかたを提唱してはいけない理由など、どこにもない。実際、もしも理想とかかげる生きかたが当人の現状よりもすぐれたものでなかったとしたら、それこそ憂慮すべきであろう」。
読者がいまこれを読んでいる以上、ぼくが偽善者アプローチを選択したことは明白だ。タイプ原稿に同意した時点で、またしても二者択一をせまられた。今度は、誰かにタイプしてもらうか(・・・)、自分でタイプするかの選択だ。好きこのんでそんな仕事を引きうけてくれる人はいなかったので、やむをえず、わがテクノロジーなし生活に一度だけ、可能なかぎり短い例外期間をもうけることにした。自分でタイプしたのである。」
(「訳者あとがき」より)
「あなたにとって「絶対これだけは手ばなせない」と思うテクノロジーはなんですか?」
「多くの現代人が「あって当然」「なければ生きていけない」とみなす、そのような文明の利器をかたっぱしから手ばなし、そこに立ちあらわれる新しい————と同時に非常に古くもある————日常の風景へと読者をいざなってくれるのが、本書の著者マーク・ボイル、別名「カネなし男(マネーレスマン)」です。
アイルランド北西部のドニゴール県で一九七九年に生まれたボイルは、大学でビジネスを学んだのちに、英国ブリストルで無銭経済運動を創始。二〇〇八年の「無買デー」から約三年間、一銭のお金も使わずに暮らしたことで知られています。お金を使わないといっても、食べるびも事欠く窮乏生活ではなく、世捨て人のような隠遁生活でもありません。この世界が待ったんしの気候危機やコミュニティ崩壊に直面するなか、持続可能な地球をとりもどすには、自分の消費する物や地域社会や自然界と、金銭を介さず直接つながり直すしかない、という信念にもとづく運動の一環でした。」
「当初一年間の実験のつもりだった「カネなし生活」の豊かさに魅せられた彼は、結局三年近くその暮らしをつづけ、そkでつちかった無銭の哲学と生活の知恵を第二作『無銭経済宣言————お金を使わずに生きる方法』に集大成します。
【目次】
著者より
プロローグ
自分の場所を知る
冬
春
夏
秋
シンプルであることの複雑さ
後記
無料宿泊所〈ハッピー・ピッグ〉について
○プロフィール
【著者】マーク・ボイル (Mark Boyle)
1979年、アイルランド生まれ。大学でビジネスを学んだ後、渡英。29歳からの3年間、まったくお金を使わずに暮らした。現在は、アイルランド西部のゴールウェイ県にある小農場に自ら建てた小屋で、近代的テクノロジーを使わない自給自足の生活を送っている。農場の敷地内で、無料の宿泊所兼イベントスペース〈ハッピー・ピッグ〉もいとなむ。
著書『ぼくはお金を使わずに生きることにした』は20以上の言語に翻訳され、日本でも大きな反響を呼んだ。他の著書に、『無銭経済宣言――お金を使わずに生きる方法』(以上、紀伊國屋書店)、『モロトフ・カクテルをガンディーと――平和主義者のための暴力論』(ころから)がある。
【訳者】吉田奈緒子 (よしだ・なおこ)
1968年、神奈川県生まれ。東京外国語大学インド・パーキスターン語学科卒。英国エセックス大学修士課程(社会言語学)修了。千葉・南房総で「半農半翻訳」の生活を送り、蛇腹楽器コンサーティーナでアイルランド音楽を弾く。訳書に、ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』、サンディーン『スエロは洞窟で暮らすことにした』(以上、紀伊國屋書店)など。