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松岡 正剛『電子の社会(千夜千冊エディション)』/ダニエル・コーエン『ホモ・デジタリスの時代:AIと戦うための(革命の)哲学』」

☆mediopos2716 2022.4.24

電子の世界は
高度なテクノジーが生み出した
世界だといっても
いってみれば「道具」にすぎない

「道具」すぎないにもかかわらず
あまりにも便利な「道具」なので
いまや「道具」のほうが主体になりつつある感もある

とはいえ
少し注意深くみればわかるように
「道具」にはそれを与えるものがあり
与えるものはそれを通じて
それを使う者を「管理」しようとしている

アナログに近いメディアもそうだが
電子の世界のメディアたちも
管理する者にとって都合の悪いことは
できるだけ見えないようにする

都合の悪いことはフェイクであり
陰謀論であるとして検閲し
見せないようにするのはわかりやすい手法だ

メディアたちが流す情報が
意図をもって編集され
さまざまな情報が隠されているとしても
メディア情報を信仰している者にとって
それそのものが存在しえない闇のなかにある
学校で教えられることが
疑うことすらできないような
刷り込みとなってしまうように

その意味では
すべては「信仰」の世界で起こっている
信じた世界は真実であり
それ以外は信仰を穢す世界でしかない

たとえは松岡正剛の「編集」というコンセプトでさえ
その前提となっているのは
「情報の編集は遺伝子の自己複製と光合成に始ま」る
とされているようなものだ
前提は疑われないまま
そこからしか「編集」はなされない

もちろんそこから漏れてくるものもたくさんあるから
その補償作用として
フラジャイルやノスタルジーやおもかげやうつろいが
その通奏低音として流れることにもなるのだろう

おそらく松岡正剛の世代の多くは
六八年が象徴するものへの郷愁から逃れられないでいる
「平和」や「反戦」や「反差別」などを事とするが
その背景で見えなくなっている「信仰」を
みずから問い直すことができなくなっているのかもしれない
そしてそれはさまざまに露出され
自己主張を通してそれを継承する世代にもコピーされる

おそらくそれを半ば無意識的に反映した余波からか
松岡正剛も「iGenたち」へと
どこか両義的な視線を向けているところもあるようだが
「遺伝子の自己複製と光合成に始ま」るとしかいえない
「情報編集」の発想はその延長線上にしか
未来を見ることはできないのかもしれない

結局のところ「電子の世界」も
人を超えてはゆけない
人の延長線上のものでしかない
そこで働いている人の意図は
医療にせよ教育にせよ戦争にせよ
やはり力や名誉やお金やを求める自我を
超えたものにはならないのだ

■松岡 正剛『電子の社会(千夜千冊エディション)』
 (角川ソフィア文庫 KADOKAWA 2022/4)
■ダニエル・コーエン(林昌宏訳)
 『ホモ・デジタリスの時代:AIと戦うための(革命の)哲学』」
 (白水社 2019/9)

(松岡 正剛『電子の社会』〜「追伸 デジタル世界観は、まだ提案されていない」より)

「ぼくの仕事は情報を編集することにある。情報の編集は遺伝子の自己複製と光合成に始まり、微生物と植物と動物の未曾有の進化と分化によって「脳」の思考に及び、その一端を記号や輪郭図や文字に外部化することで、数々の文明装置をつくりだした。小説もオペラも、写真もタイプライターも、録音装置も映像装置も、無線・電話・シンセサイザーも、「脳」と各種文房具が互いにインターフェースを擬似的に刺激しあって生まれていってしかるべくものだった。それらすべては情報編集のプロトコルの多様化だった。

 ところが、いまわれわれが接している電子社会ではこれらはことごとくネットのどこかに移行可能なものとなり、もはや誰もが「世界はお引っ越し中」だとは思わなくなった。それどころかメタヴァースだって用意致しますという触れ込みだ。情報編集は了ったというのだろうか。本は電子で読みなさいなのだろうか。心の病はデジタル・ホスピタルが引き受けますなのか。

 ここにおいてぼくは「ちょっと待てよ」という気分になった。リアル社会はばらばらなままじゃないか。リアル=ヴァーチャルな編集的世界像なんてほとんど着工されていないじゃないか。知覚と編集情報は切り離されつつあるじゃないか。それなのに、この促成栽培された瞠目すべき電子社会を説明する新たなプロトコルが用意できていないままなのだ。」

(松岡 正剛『電子の社会』〜「第四章 文明/電子機関/人工知能」〜ダニエル・コーエン「ホモ・デジタリスの時代/AIと戦うための(革命の)哲学」より)

「ホモ・デジタリスがいつから準備されていたかというと、十年前ではない。半世紀前の一九六八年から用意されていたと説く。パリでギー・ドゥボールやコーン=ベンディットやゴダールらによる五月革命がおこっていたのだが、そのときすでに「i」的なるもののスタートが切られていたというのだ。
(・・・)
 五月革命から五十年目に本書を書くことになった著者は、だから「68・5」(一九六八年の五月革命のこと)とその世はの動向から起筆し、それ移行、ホモ・デジタリスに根ざした世界がどのように「i」化してきたのかを一冊を通して追った。」

「冒頭、ホモ・デジタリス誕生の歴史は「68・5」に始まったとあった、五月革命がどういうものであったのか、手短かにまとめていうr。まとめたうえで、当時の「68・5」は個人主義の拡大を準備して経済的自由主義の基盤をつくったのか、それとも逆にそのころ拡大しつつあった個人主義に対するアンチテーゼであったのかと問うて、コーエンは「68・5」がそのいずれの答えも出せなかったとみた。
 それでどうなったかというと、消費社会とリビドー経済が蔓延して、われわれはいつしかホモ・デジタリス化することを余儀なくされていったという論旨になる。Nスペ風に言うと「無形資産」に向かっていったのだ。
 同じことをマルクーゼは、「文明がエロス化していく」と言い、ギー・ドゥボールは「スペクタクルが社会を覆っていく」と言い、ロラン・バルトは「消費社会が計算と秩序にまみれる」と言った。」

「ホモ・デジ化や無形資産かの徴候は、既存の体制社会や富の資本主義への反抗でもあった。あるいは仮想社会の可能性の訴えでもあった。出入りの激しいポップカルチャーの界隈もそうした「反抗の行方」とその歪みが先走って表現された。」

「高度資本主義と高速大容量のデジタルネットワークがつくりあげた「電子の社会」は、68年組からすれば疎外された人間像の解放に向くはずだったのだが、たぶんそうではなかったのだ。

 ハラリは、こう書いた。「中世の十字軍は人生の意義を与えるのは神と天だとみなし、現代のリベラリズムは人生に意義を与えるのは個人の自由な選択だとみなした。けれども、両方ともまちがっている。われわれの身のまわりは今後ともきわめて便利な器具と社会構造であふれるだろうけれど、こうした環境が整えば個人が自由に裁量する余地はなくなっていくのである。」

 自由がなくなっていくだけではない。ジャック・ラカンの娘婿で『セミネール』の編者であったジャック=アラン・ミレールは「二一世紀の日常生活の一般モデルは中毒である」と述べ、「スポーツ、セックス、仕事、電子ゲーム、スマホ、フェイスブックはすべて麻薬になりうる」と見た。

 麻薬であるかどうかが問題ではない。古代中世の宗教もボードレールもウィリアム・バロウズも、麻薬でも遊べたのである。問題はスマホが便利な麻薬でありながらも、別様の可能性を持ち出せるかどうかなのである。

 ただし、その前に準備にとりかからなければならないことがあるかもしれない。第一に世界が監視資本主義化したらどうなるかということだ。また一方でGAFAを監視しつづけるにはどうするかということだ。本書はとくにグーグルに警戒したいと言う。第二にユニバーサル・ベーシックインカムをどうするか。すでに各国政府がバラバラの対策に着手してしまった。これでは格差はゼッタイになくならない。第三にデジタル世界全体に自分たちの責任を自問させるにはどうするか。これは期待しにくい「促し」だ。世界はすでにメタヴァースな「セカイ」の漬け物になっているのだ。

 第四に異常な特性をもつシステム(AIやロボット)の出現を阻めるものをつくることだが、そのために超ロボットを開発してみなくてはならないとしたら、トートロジーだ。第五にローコスト資本主義のシナリオを駆動させることである。これは、なんとかできるかもしれないが、ローコスト資本主義は勤労者たちの収入を抑え、極右主義を助長させることにもなりかねない。こんなこと、みんな、そうとううんざりしている。

 いくぶんありきたりな対策に見えるかもしれないけれど、ホモ・デジタリスはせめてこのくらいの自問自答をもっていたほうがいいに決まっている。あとはiGenたちが、どうするか、本気になるかどうかだ。」

「一九九五年以降に生まれた世代をアメリカのメディア・ジャーナリストはiGen(アイジェン)と呼んだ。ウィンドウズ95のGUIとともに生まれたi-generationのことだ。(・・・)いわゆる「デジタル・ネイティブ」のこと、もっと端的にいえば完全スマホ世代のことだ。」

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