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石井辰彦『現代詩としての短歌』

☆mediopos-3045  2023.3.20

ぼくは歌人でも俳人でも
ましてや詩人でも小説家・文学者でもないし
なろうとさえ思ってはいないけれど

だからこそなのだろう
短歌とはなにか
俳句とななにか
詩とはなにか
文学とは何か
といったことが気になるとともに

それらに通底するなにか
(それをポエジーと勝手に読んでいるのだけれど)
についてのなにがしかを
理解したいといつも思っている

それぞれのジャンルをそれぞれのジャンルとして
成立させているなにがしかと
ジャンルの垣根を超えたところで奏でられている
言葉が言葉であるがゆえの音楽・・・とでもいえるだろうか

このところ少しながら短歌を読んでいるというのもあり
二〇年以上前に刊行された『現代詩としての短歌』を
読み直してみたのだが
本書からあらためて
短歌が短歌として現代において成立し得る要因
現代詩と通底している短歌のポエジー性について
考えるきっかけを得られたので
そのいくつかを見てみることにした

本書は一〇章に渡って論じられているが
そのなかの六つの章から

まず「短歌は一行の詩である」
そのなかでとくに現代では
「統的なリズムをきざむ基本的な声部と、
そこに書かれた内容に則した独自のリズムをきざむ声部という、
ふたつの声部を内在させている」

また一行の詩である短歌は
「連作として詠まれかつ読まれる運命にある」
そして「連作」であるがゆえに
多中心的とでもいえる
「ポリセントリックな一面を持っている」

そして「短歌は、漢字や仮名文字を含む
さまざまな記号によって表記され」「読まれる」
ゆえにそこには聴覚的な詩的印象を喚起する
音の連なりの効果が必要となる
現代詩としての短歌は
「自在に音と戯れる」ものであってはじめて
豊かな表現であり得るものとなる
ある意味では音楽そのものでもあるほどに・・・

さらに「現代の短歌は、
むしろ短歌以外の文学や藝術からこそ、
大いに引用を行うべき」である
「あるテクストを引用するということは、
場合によっては世界そのものを引用する
ということでもあるはずだ」からである
果敢に引用をおこなうことで
短歌は世界をそこに映し出すものともなり得る

私小説といった表現にも通じていることではあるが
「短歌は、〈私性の文学〉」ではあるものの
短歌における〈私〉は作者その人のことではない
「短歌における〈私〉は、
作者によって演じられる〈私〉」に他ならないからだ

本書の結論として
著者は理想の短歌像について
「実験的であることによって真に伝統的である文学」
であるとしているが
これこそまさにポエジーの使命だともいえるのだろう
そしてそれこそをすべての言語藝術が
理想とするべきなのではないか

短歌をふくめたすべての言語藝術の底に流れる
ポエジーの夢をみられますように・・・・

■石井辰彦『現代詩としての短歌』
 (りぶるどるしおる31 書肆山田 1999/12)

(「Ⅰ 短歌の構造」より)

「短歌は一行の詩である。石川啄木がそうしたように恣意的に行分け表記を採用しないかぎり、短歌は一首一行で印刷される。一首二行に印刷することもないではないが、その場合にも、機械的に、あらかじめ定められた一行の字数を超過した分を次行に送る、というかたちにするのが一般的だ。たしかに毛筆などを使って書く時には今日でも散らし書きにしたりする。しかしそういうものでもいったん原稿として印刷にまわされれば、一首一行に組まれるのが普通だろう。一首の短歌は、基本的には一行の詩として、詠まれかつ読まれているのである。」

「短歌はもちろん単一の声部しか持っていないが、現代短歌ではその単一の声部が、伝統的なリズムをきざむ基本的な声部と、そこに書かれた内容に則した独自のリズムをきざむ声部という、ふたつの声部を内在させているのである。〈句跨がり〉や〈語割れ〉は、強弱五歩格の基本リズムからすればシンコペイション syncopation を発生させているとも考えられるわけだが、そのシンコペイションを整理してもうひとつのリズムをきざむ声部を想定する、つまりポリリズムの考え方を導入することによって、現代短歌の複雑な構造が一層明快に理解されると言えるだろう。」

(「Ⅱ 連作の力」より)

「現代の短歌には、少なくともある程度はっきりした創作意識のもとに詠まれている短歌には、一首だけで完結している、とは必ずしも言えない側面がある。一首だけで、という場合もまったくないわけではないが、今日短歌は、連作として発表されるのが普通だからだ。
(・・・)
 要するに、一首の短歌は現代においては、それぞれが独立した一行の詩である、という特質は保持しながらも、同時に、連作というひとまわり大きい表現形態のエレメントでもあらねばならない、ということだ。したがって、短歌を、従来一般に行われてきたように一首ごとに論ずるだけでは、片手落ちなのである。連作としての評価をなおざりにしては、現代の短歌を論じきったことにはならないはずだからだ。作家もまた、一首一首の彫琢もさることながら、連作としての全体へも十分な配慮を怠らないこと、さらにはより高いレベルの連作への道を探求することが、今日何より肝要だ、ということになる。現代の短歌は、連作として詠まれかつ読まれる運命にあるのだ。」

「連作短歌は、連作であるというそのことゆえにはじめからポリセントリックな一面を持っている。ポリセントリックな方法が、ポリセントリックな現代を表現するのに格好のものであることは、言うまでもないだろう。短歌の連作は、実は時代の最先端に立つ、この上なく前衛的な文学の方法でもあったのである。」

※ポリセントリック polycentoric:「ウィリアム・フォーサイスのバレエについて使われるタームから転用したのだが、要するに彼が振り付けた作品に特徴的な、多中心的とでも言うほかないダンサーの動きをあらわすものだ。」

(「Ⅳ 音の戯れ」より)

「短歌は、漢字や仮名文字を含むさまざまな記号によって表記される。それらの記号は、読まれる、より正確には読者によって認識されることによって、詩として成立する。第一義的にはそれは、ポエティックな意味の体系として認識されるわけだが、しかし短歌が詩であろうとする以上、音の連なりがもたらす効果を閑却するわけにはゆかない。聴覚的にも何らかの〈美〉ないしは詩的印象を喚起するのでなければ、その短歌は十全には詩とは呼ばれ得ないのである。」

「真正の藝術家はすべて真正の音楽家なのであり、詩人は言葉によって作曲するのである。限りなく音楽に近づこうとする意志、自在に音と戯れる能力なくしては、現代詩としての短歌もまた豊かな結実を期待することができないのだ。」

(「Ⅴ 世界を引用する」より)

「現代の短歌は、むしろ短歌以外の文学や藝術からこそ、大いに引用を行うべきなのである。近接ジャンルである俳句や詩、小説などはもとより、およそ人類が関与するすべての文化的営為が、言語という記号を直接的には用いないものも含めてその対象となり得るだろう。引用する対象が多様化するにともない引用の方法も多様化せざるを得ないことは、これまた言うまでもない。要するに、作品の創造性さえ保持されるなら何をどう引用しょうと勝手次第ということである。」

「そもそもわれわれがあるテクストを詩であると言うとき、それはそのテクストに詩人が世界をどう認識したかが示されているということなのではないだろうか。しかもわれわれは自分たちの目や耳だけでは十全には世界を認識することができないのであって、人類が蓄積してきた膨大な文化的テクストに導かれる必要がある。ここであらためれ「すべてのテクストは引用のモザイクとして組み立てられている」というクリステヴァのテーゼを想い起こしてみよう。テクストが別のテキストを引用というかたちで内包する以上、あるテクストを引用するということは、場合によっては世界そのものを引用するということでもあるはずだ。詩は、それが意識的になされたかどうか、すべての受け手によって識別されうかどうかはともかく、引用によって詩となるのであり、引用を駆使できてこそ詩人は詩人と呼ばれ得るのである。
 短くとも短歌は詩である。したがって歌人もまた、静かに流れるような動きで彼にむかって押し寄せる古今東西のテクスト群を虚心に、しかも積極的にうけいれ、詩には音楽においてベリオが行ったように果敢にそれらを引用しなければならないのだ。」

(「Ⅵ 演じられる〈私〉」より)

「短歌は、〈私性の文学〉たる運命からどうしても逃れられない詩型である、と言えるのかもしれない。しかしそうであればなおのこと、短歌における〈私〉と作者その人とを単純にイコールで結ぶ考え方は、この詩形から未来を奪うものだと言うべきなのではないか。短歌における〈私〉は、作者によって演じられる〈私〉であるべきなのである。」

(「Ⅹ 歌人である、ということ」より)

「実験的であることによって真に伝統的である文学・・・・・・。これこそ私たちは求める理想の短歌像にほかならない。私たちは、実験的であることによって真に伝統的である歌人とならねばならないのだ。そしてそう決意した時、私たちは自身の真実に忠実な、しかも歌人であるという過酷な運命を甘受する者として、誇らかにこう宣言することができるのである。それも全世界に向けて・・・・・・。過去と現在と未来に向けて・・・・・・。人類の藝術を司る不可知のなにものかに向けて・・・・・・。」

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