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塚本邦雄『ことば遊び悦覧記』/高橋康也『アリスの国の言葉たち』/高橋康也編『「言語遊戯」遊びの百科全書ー❶』

☆mediopos3254  2023.10.15

塚本邦雄の『ことば遊び悦覧記』が
新装復刊されている
手元にある初版は昭和五十五年三月刊なので
四十年以上ぶりの復刊である

塚本邦雄の手がけた
アンソロジー+解読・鑑賞はすぐれたものが多いが
本書は和歌や俳句の選集ではなく
「言語遊戯」という主題のもとで
回文・折句・いろは歌・円形詩などなど
古今東西の詩歌における多彩な言語遊戯が
過剰なまでの密度で収められている

「言語遊戯」ということでいえば
高橋康也の名を忘れるわけにはいかない

高橋康也といえば
かつてのルイス・キャロル・ブームの仕掛け人でもり
ノンセンス・言葉遊び・道化・戯作・笑いをめぐり
文学・演劇・美術・哲学など
そのジャンルを超えた戯れに
当時ずいぶん影響を受けたが

あらためて思い返してみると
その後そうした「言語遊戯」や「ナンセンス」の世界は
次第に姿を消してきているように感じられる

おそらく九十年代の半ば
阪神淡路大震災やオウム真理教事件を経て
さらに二十一世紀にはいり経済も停滞し
ある種のシリアスさを増しながら
「遊び」を自由に飛翔させる場所をもつ
そんな余裕が持てなくなってきているからかもしれない

かつて梁塵秘抄が
「遊びをせんとや生まれけむ」
「戯れせんとや生まれけむ」と詠ったように
「生」は「遊び」なくしては成り立たず
「遊び」には自由な精神が不可欠なのだが
それこそが失われてきているということもであるだろう

その意味においても
こうした「ことば遊び」を
ささやかながら復権させてみる必要がありそうだ

塚本邦雄が『ことば遊び悦覧記』の序で
「詩歌も「ことばあそび」の最たるものである、
などと言ひきると、途端に厳粛で禁欲的な諸賢の、
猛烈な反駁に遭ふかもしれない。
だが、その駁論執筆者の大部分が「あそび」なる行為に
重大な偏見を抱いてゐるのも、
言ひ切る前から見え透いてゐる。」
と書いているように

文学や芸術においても
「ことば遊び」に特段の価値を置こうとはしない
スクエアな真面目さに固着する向きもあるだろうが
(高校のときの国語の先生もそうだった)
「ことば」から「遊び」が失われたとき
(「論理国語」というのもその典型だろう)
「ことば」は翼をなくし歌を忘れた
幽閉された鳥のように貧しくなってしまうだろう

さて高橋康也の『アリスの国の言葉たち』
という対談集を久々本棚から発掘してきてみると
そのなかに大好きな詩人の入沢康夫との
懐かしい対談を見つけた(一九八〇年のもの)

有名な「キラキラヒカル」や
「わが出雲・わが鎮魂」そして
「いまゆめのかけはしのかけに」という詩が
紹介されているので参考までに画像を載せておいた

また塚本邦雄『ことば遊び悦覧記』の裏面や
高橋康也:編『「言語遊戯」遊びの百科全書ー❶』にも
掲載されている「八重襷(やえだすき)」という
歌を組み合わせて図式化したものも
あわせて載せているので
驚きとともにその「遊び」を愉しんでいただければ・・・

■塚本邦雄『ことば遊び悦覧記』(河出書房新社 昭和五十五年三月)
■高橋康也『アリスの国の言葉たち』(新書館 1981/7)
■高橋康也:編『「言語遊戯」遊びの百科全書ー❶』
 (日本ブリタニカ1979/10)

入沢康夫「キラキラヒカル」「わが出雲・わが鎮魂」「いまゆめのかけはしのかけに」
八重襷(やえだすき)

(塚本邦雄『ことば遊び悦覧記』〜「遊楽の序」より)
 ※漢字は現代仮名遣いにしています

「詩歌も「ことばあそび」の最たるものである、などと言ひきると、途端に厳粛で禁欲的な諸賢の、猛烈な反駁に遭ふかもしれない。だが、その駁論執筆者の大部分が「あそび」なる行為に重大な偏見を抱いてゐるのも、言ひ切る前から見え透いてゐる。俳諧は一先づ措いて、和歌は「歌道」であり、帝王学の一として聖別され、また古今伝授なる権威づけが行はれて以来、ますますかたくなに「あそび」を拒み続けて来た。

 狭義の言語遊戯の要素を含む和歌は、万葉集ならば巻の第十六「由縁のある雑歌」の殊に後半に、これらを一括して並べ、古今集では巻第十の「物名」と巻第十九の「俳諧歌」に、前者は精選し、後者は比較的寛やかな選でこの種の歌を集め、いづれも他の歌とは区別した。差別を示したと言つてもよい。歌学者の中には、歌は徹頭徹尾「述志」の詩形であると力説する人もゐる。そして有力な証歌として万葉貴種の相聞、柿本人麻呂の挽歌、あるいは八代集の賀歌、神祇歌を誇示するだろう。述志、まことにこの語は和歌のみならず詩歌の本質を示す。そして、しかしながら、述志は、家持においては「抒情」と同意、等価値の心緒に他ならなかった。「遊び」とは、美的快楽創造・享受の志である。「志」とそれほど言ひたければ、さう定義するがよい。そしていつの時代にも、いづれの国でも「美」の包含する意味は恐るべく多岐多様広範囲である。たとへば述志リゴリズムの典型とされる人麻呂が、漢字表記による美的効果を極限まで追求し、その幻惑的なまでの絢爛性に、陶酔沈溺してゐたに違ひないことに、「遊び」拒否論者は一度も及んだことがないのだろうか。六歌仙時代から新古今時代へ、泡立ち、たぎつつ迸る歌の流れが、亡びの寸前に得たものは「物語・絵画」あるいは「歌謡・呪文」等、述志ストイシズムの堰を破り、溢れた異次元憧憬要素であり、まさしく幻想としての遊びの、完璧な言語化であつた。

 事は単に「和歌」のこよに限るものではない。すべての言語藝術が、常に最も喪ひやすいのは「遊び」の要素であり。悦楽へとの志向に他ならぬ。古今東西、悲劇に対する信仰は抜きがたく、事実は虚構を駆逐し、苦行は讌遊を蔑視する。簡素淡泊な正述心緒文学が、草食人種の孤島日本の守り本尊となり、歌道など忘れさられた後も、私小説信仰道となつて生きながらへるのは、至極当然成行だつたかも知れない。天才芭蕉の悲劇的な「発句」と、句以上に悲劇的寂寥感に富む逸話ばかりの実人生伝記に集約短絡されて、今日に伝へられる始末である。

 私は広く、限りなく緩めた範囲の言葉遊びまで含めて、これに芸術を僭称させようとは決して思はない。前記勅撰・準勅撰集に挙げられた作にしたところで、私なら大半は削除するだらう。また当然のことながら詞華は即和歌ではない。論を日本文学に限定するとしても、更に詩歌のみを論ずるとしても、「歌謡」は時として和歌を凌ぐ芸術的香気に満ち、しかも悠悠と遊んでゐる。私は詩歌これ遊戯といふ一種の極論的詩論は一応措いて、記紀以来の詩歌の中の、殊に智慧の力もて創り上げられたと思しい巧緻な作ばかりを、記憶の海から採り出して、今一度みづからのためにも整理紹介を試みねばならぬ。詞華集は勿論、民間伝承の口伝形式のものも多かろう。時代を前後し、溯り下りつつ、人がかくまで、言語の華の開花に、好奇心を唆られ、飽くなく愉しんだ歴史を眺めて行きたい。禁欲派の狭義正述心緒作称揚が、却って異端であり間道であることが、その結果ありあると指されることを希はう。時間の下降、遡行のみではない。空間もたまたま北上し、南下し、東西に向きを変へるかも知れない。そして、もとよりこの文章は、つひに「論」でも「説」でもなく、私自身の愉楽のための防備録に止まるだらう。それゆゑに、ある時は自作の援用もためらふまい。

 言語遊戯要素を多分に含む詩歌の理想像は、その技巧が「遊戯」のあらはな志向さへうかがはせぬほど洗練されたものでらう。「あそび」は次第に巧緻を極め、それは傑れた推理小説が永遠の謎を内包した純粋な文学作品となる例に似てゐる。あるいはまた、古事記と旧約聖書、シェイクスピアの四大悲劇と西鶴、秋成の諸伝奇諸パロディを精緻と奸智の所産に数へともよい。一方、遊びのための遊びに徹した広義詩歌、たとえは廻文、文字襷、四十八音歌も、結果的に文学性を勝ち得、詩的香気馥郁たるもの、神秘性充溢せるものは、智慧者の遺産として殊に記念せずばなるまい。地口、洒落の類さへ、凡歌、拙句より遙かに美しいものは有りうる。一篇の落語の落ちが先哲のマキシムやアフォリズムを凌ぐ場合も決して少なくはないのだ。」

(高橋康也『アリスの国の言葉たち』〜入沢康夫・高橋康也「言葉遊びとしての詩/書くこと、読まれること」より)

「高橋/入沢さんの作品に「キラキラヒカル」がありますが、これを読んだ時には腰を抜かすくらい驚きました。ぼくの考えでは現代ににおける驚くべき作品の一つだと思います。
(・・・)
 この詩の楽しみ方は二つあって、一つは内容から見ていくのと、もう一つは純粋に形から見ていくことだと思います。結局は、その了承が一つになるところがこの詩の醍醐味なんですけど。
 また、キラキラヒカルというイメージが次々といろんなモノに付いていって、形容されるモノの変化の仕方が面白い。モノは、財布、魚、女、お鍋、お金、星空、涙と変化していくのに形容詞は常にキラキラである。形容詞を固定しておいて名詞をくるくる変えることにより、一瞬カレイドスコープみたいに風景が展開し、最後には女が星空の下で泣くと言うドラマティックな場面に行きついてしまう。これは叙情的な反応を誘い出すことに主題的なねらいがあったのではなく、またポーの「大鴉」という詩みたいに最後の一句が先に生まれたわけでもなく、形式的な遊びに徹しているうちにそういう結末になってしまったんだろうと、読者としてそう考えます。
 それからヴィジュアルには目の楽しみとしてだけでも結構面白い。不断は縦を読むわけですが、右から横に読むことも出来る。各段には必ずキラキラヒカルがあり、最上段と最下段はそれぞれ文法的にも成り立つ。また、斜めに見ると、ほとんど幾何学的な模様をしている。詩の意味とそういう幾何学性との組み合わせが実に面白いですね。」

「高橋/入沢さんの代表作の一つ「わが出雲・わが鎮魂」という大作は、全体の構成そのものが遊びになっている。入沢さんの郷里である出雲の国という古代日本の親和的な「根の国」に、入沢さん自身の私的な根っ子を結びつけていくという、非常に野心的な試みですね。古事記や日本書紀などを下敷きに使い、作品全体が何重もの入れこ細工になっている。そういう入れ子こ細工的構造というものも広い意味での遊びだと考えていいんじゃないかしら。」

(高橋康也『アリスの国の言葉たち』〜入沢康夫・高橋康也「言葉遊びとしての詩/キャロルとアルトーの異常な体験」より)

「高橋/ただ、言葉遊びといった場合、文字通り遊びですから他のすべてと同様にたちまち堕落する危険を持っている。遊びに淫すると、遊びに緊張がなくなって、ただの遊びになってしまう。そういう自己崩壊の危険を、おそらく他の遊び以上に内蔵していると思うんですけど。

入沢/そうなんです。現代詩でも言葉遊びをする人はかなりいますが、どうも遊びのための遊びになってしっている場合が多い。つまり言葉の面白さに足をすくわれてしまって、遊び的なものと、遊び的でないものとのせめぎあいがないところで作品がどんどんできてしまうのではないかと、危惧を覚えることがあります。」

(高橋康也『アリスの国の言葉たち』〜入沢康夫・高橋康也「言葉遊びとしての詩/言葉を壊すおと、創りだすこと」より)

「入沢/詩に限らず、芸術行為はお祭りみたいなもので、そこでは日常生活とは違った秩序に支配されて思いがけないものが現れてくる。また日頃の秩序が混乱して、抑圧されていた感情とか潜在意識的なものが表面に出やすい状態であると思うんです。
 だから、詩が、詩が、ある種の芸術的な感動と関わりを持ちえているならば、そこには必ず、言葉の並べ方に日常の言葉とは違った踏み外しというか、くい違いが起こっていなければいけないという気がします。遊びということをそこまで範囲を広げて考えると、詩にも遊びがないと・・・・・・。
 また逆に、何の変哲もない、日常言語の言葉をそのまま使う、例えば新聞記事の言葉をそのまま作品の中に取りこむと、その並べ方次第では詩が生まれてきることもありうるわけです。」

「入沢/最後にまたまた私の作品のことになって申し訳ないのですが、「いまゆめのかけはしのかけに」というのがあります。この詩は、滝口修造さんを追悼するために書いた作品に他ならないという意味で大変に悲しい詩です。悲しい詩が遊びの詩と結びつくことも少なくともぼくの主題の上では成り立つと申し上げてみたいと思いまして。
 この詩は全部仮名文字で書かれていて、濁音がことさらに省いてあり、引用符を除けば句読点が何もない。これには理由があって、瀧口先生の詩は大体において漢字が多く、観念的な言葉あるいは実体的な言葉が固い言葉で散りばめられている。そして応々にして片仮名で漢語が接続されている詩が多い。そこで、さらに逆に漢字がない形で書いたらどうなんだろうと考えたわけです。瀧口先生の作品はこんな方法ではないけれども、一つのものがさまざまな光の当て方でいろんな光を放ち反射しうるということをなさっていたわけで、それを自分なりにやりとどういうことになるか。それと、瀧口先生の作品の中の言葉を詩の中に散りばめていき、濁音をはずしたことによって何通りかの読み方が可能になりうることを試したかった。(・・・)
 題は、このまま読めば大部分の読者は「いま夢の架け橋のかげに」とお読みになると思いますが、「いま夢のかげは詩のかげに」とも読める。瀧口さんの有名な詩論に「夢の影が詩の影に似たのは正にこの瞬間であった」という結びの作品があり、この両方の意味を同時に表そうとしているわけで、そういう意味では巧んだ作品です。」

(高橋康也:編『「言語遊戯」遊びの百科全書ー❶』〜「八重襷」についての解説より)

「俳諧による八重襷である。春夏秋冬、各四句ずつ、全部で16句が縦、横、斜めに二重に組み合わされている。また、交叉点上にある9文字を、右から縦に読んでゆくと〈はいかいゆふたすき〉となり、俳諧によって襷を結いあげるという趣向を示すものとなっている。」

「〔八重襷〕
折句や沓冠は、一定の場所に、定まった文字を置くという基本的ルールから成り立っている。このルールをもとに、一首から十数種の歌を組み合わせて図式化したのが八重襷(やえだすき)である。各歌を縦横、時に対角線上に配列し、その交叉する箇所が一定になるように構成されている。このように幾重にも、行が交叉しつつ結び合わされているので、八重襷とよばれるのである。欧米で行われている文字の魔方陣が単語レベルで構成され、全ての文字が交叉するのに対し、八重襷は、各句の冠を交叉させてゆくので隙間の部分が生じ、できあがった図形は格子状となる。歌の数、行の数、交叉のさせ方などにより、様々のヴァリエーションが生じるが、交叉点の文字だけをとりだして読むと、意味のある言葉になるような複雑な構成のものもある。八重襷は、歌ばかりでなく俳諧によっても作られた。」

※「キラキラヒカル」は詩集『倖せ それとも不倖せ』正・補篇から
 「いまゆめのかけはしのかけに」は詩集『駱駝譜』所収「かはかりにきさりもたしめ」から

○塚本邦雄『ことば遊び悦覧記』目次

 遊楽の序
 一 古代詩歌
 二 十世紀のアラベスク和歌
 三 いろは歌今昔
 四 回文
 五 折句七変化
 六 続・折句七変化
 七 野馬台詩
 八 形象詩と詞絵
 九 幾何学形詩
 十 続・幾何学形詩
 十一 輪状詩・循環詩
 十二 補遺余滴
 跋

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