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山田晶『中世哲学講義』(グノーシス)・荒井献・柴田有『ヘルメス文書』・筒井賢治『グノーシス』

☆mediopos-2530  2021.10.20

グノーシス思想といえば
二世紀以降キリスト教において
異端とされた思想である

異端とされる前は
ヴァレンティヌス・バシリデス・マルキオンの
三派に代表されるキリスト教グノーシス思想があり
新約聖書のなかにも
ヨハネの福音書とその書簡やパウロ書簡には
グノーシス的な思想形態や表現形態が見出される

福音書に収められてはいないが
1945年にエジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』には
きわめてグノーシス的な「トマス福音書」が含まれている

グノーシス思想にはさまざまな複雑な側面があり
ひとくくりに論じることはむずかしいが
『中世哲学講義』で論じられているように
グノーシス思想の諸側面を
次のように分けておくととらえやすい

ヘレニズムの諸思想におけるグノーシス(古代ギリシア・ローマ)
神秘主義のグノーシス(ヘルメス・トリスメギストス)
旧約聖書におけるグノーシス(ユダヤ教)
福音におけるグノーシス(キリスト教)

ヘレニズム時代の思想界においては
グノーシスとは「神の知」を意味する
グノーシスを獲得することによって
人間が究極的に救われるという救済知であり
帝政時代のギリシア・ローマ世界全体に広がっていた

その思想は東方宗教の影響を受けており
学問的な探究よりもそれによって得られる
「救済」が強調されている

ヘレニズム時代に特有な神秘的グノーシス思想は
「ヘルメス文書」のなかに典型的にもみられる
そのなかでも特に重要なのは
その巻頭にある『ポイマンドレス』である

ポイマンドレスとは人間の牧者である最高神ヌースであり
筆者の求めに応じて
「天地および人間の創造、その堕落、その昇天」を啓示する

叡智なる神はロゴスと結びつき
感覚的世界(物質界)の創造主である
第二のヌース・デミウルゴスを生み出す
ヌースは自分に似せて人間をつくりだすが
人間はデミウルゴスのように創造しようとする
そしてそのことで人間は地上にとらわれ
自己の本質を知る者と知らざる者に分かれてしまう
そして前者は恵みを得ることになるが
後者は闇のうちで死の苦しみをなめるようになる

その意味で人間はグノーシスを得る(神を知る)ことで
地上を離れた永遠への恵みを得ることができる

そうしたヘレニズム的なグノーシス思想に対し
旧約聖書におけるユダヤのグノーシスは
神の永遠の本質を知ることではなく
神の人間に対する要求を知ることを意味している
そのために「律法を知る」ことが求められるのである

それに対してキリスト教の福音におけるグノーシスでは
「外的形式なる示現」としての律法を守ることよりも
「精神の内面」において内面化されることが求められる
根源的には「愛」によって動機づけられているのである
そこで「愛なる神」を知るとは
「キリストにならい神と人を愛すること」であり
復活においても「愛するものなる神」を見ることである

さて二世紀以降キリスト教において
グノーシス思想はなぜ異端とされたのかだが
ごく単純化していえば
神が創造した物質世界に対して否定的であること
(キリストが肉をもって
死と復活をしたことの意味がスポイルされてしまう)
教会の権威なくして「神の知」を得ようとすることだろう
(やがて人間が有していたはずの霊魂体のうち
霊は教会が管理するものとされてしまうことにさえなる)

シュタイナーは人智学を
グノーシスとして位置づけていないが
それは現代においては古代回帰にしかならず
物質世界や自然を否定的にとらえ
霊的世界への帰還だけを指向するような
欠損した認識に陥ってしまうことになる
人間は人間であることそのものなかにおいて
神的知識でもある霊的認識を得る必要がある

「神を知る」ということは
単に霊的な認識を得て「救済される」ということではなく
むしろ霊的認識を得ることでこそ
ほんらいの意味で「地上」を知り
「物質」を知り「自然」を知り
そして「人間」を知ることで
霊的進化の道を歩む必要があるのだから

■山田晶(著)・ 川添信介(編)
 『中世哲学講義: 昭和41年―44年度 (第一巻) 』(知泉書館 2021/7)
 〜グノーシスに関する第五章〜第一八章
■荒井献・柴田有『ヘルメス文書』(朝日出版社 1980/10)
■筒井賢治『グノーシス』(講談社選書メチエ 講談社 2004/10)

(「第五章 グノーシス思想(一)−−−−その問題−−−−」より)

「三七 グノーシス思想 gnosticism は、二世紀の教会内部にあらわれたきり、教会の正当によって異端として斥けられた大きな思想的潮流である。しかしその発端は決して二世紀にあるものではなく、その淵源ははるかに古い。その内容はきわめて複雑であって、様々の要素を含んでいる。それらの要素を手がかりにグノーシス思想の源をさぐるならば、それはユダヤ教、原始キリスト教のみならずヘレニズム哲学、シリア、エジプト、バビロニア等の東方宗教、ギリシアの民族宗教、さらにまた、占星術や魔術に到るまでその原型となる要素を見出すことができる。」

「三九 グノーシス思想の成立に関しては、次のように考えることができよう。すなわち、現象としてのグノーシス思想が、正当キリスト教に対立する思潮として、社会内部に成立し、やがて教会から分離してゆく過程をとるのは、二世紀以降のことであり、これは「キリスト教グノーシス思想」ということができる。しかしながら、このグノーシス思想が社会内に成立する以前に、その母胎となるべき思想環境はヘレニズム世界を支配していたのであって、教会そのものの成立したのはまさにそのような思想環境のうちにおいてのことだったのである。この意味でのグノーシス思想は、キリスト教以前からすでに存在していたともいえる。

四〇 これを固有の意味でのグノーシス思想、すなわちキリスト教グノーシス思想に対して、原グノーシス思想 proto-gnosticism とでも名づけるとするならば、キリスト教はまさにこの原グノーシス的思想環境のうちに種子をまかれ、その生成発展の過程において、自分自身の内から、キリスト教グノーシス思想という鬼子を生み出していったのだともいえよう。」

「四一 新約聖書そのものが、かかるグノーシス的思想環境の中で徐々に成立していったものである。それゆえ、新約聖書の中に、とくにヨハネの福音書とその書簡およびパウロ書簡のうちに、グノーシス的な思想形態や表現形態が見出されるのはむしろ当然のことであるかもしれない。」

「四二 グノーシス派と称せられる人々は、子細に検討するならば、その思想は決して同じではなく、かなりの相違がもとめられる。しかし一般にその創立者によって、ヴァレンティヌス、バシリデス、マルキオンの三派に分かれうる。」

(「第六章 グノーシス思想(二)−−−−ヘレニズムの諸思想におけるグノーシス−−−−」より)

「四八 グノーシスという言葉はヘレニズム時代の思想界において、特別の意味を有する。それは単なる知識、ないし認識ではなくて特に神の知であり、それの獲得によって人間がはじめて究極的に救われうるごとき救済知である。フェスチュジエールによれば、かかる救済知としてのグノーシスに対する熱望は、帝政時代のギリシア・ローマ世界全体にわたってひろがり、この時代の思想全体を特色づけるものであるという。」

「五〇 ギリシア本来の思想は、東方宗教との接触によって、著しく宗教的色彩を帯びてきた。この時代に復興したプラトン派、ピュタゴラス派等も、ギリシア本来の単なる反復ではなくて、その中に多分に東方宗教の要素を加えている。またこの時代の支配者的哲学たるストア哲学も、プラトン、アリストテレスの用語を継承しながらも、その思想の根本は著しく東方宗教の影響を受けている。そしてこれらの学派はすべて、純粋な学問の探究よりもむしろ、学問を通して得られるはずの「救済」を強調している。」

(「第九章 グノーシスの意味(三)−−−−神秘主義のグノーシス、ヘルメス・トリスメギストス−−−−」より)

「九二 ヘレニズム時代に特有な神秘的グノーシス思想は、エジプトの神にしてギリシアの神ヘルメスと同一視されたトトに仮託された著作「ヘルメス文書」(Corpus Hermeticism)のうちに、最もよくあらわされている。この書はおそらく、一世紀の半ばから三世紀の終わり頃までの間に成立したものであって、十八篇の論文より成り、そのうちには、プラトン、ストア、新ピタゴラス派等、伝統的なギリシア哲学と、東方宗教の諸要素とが混合しているが、全体として、神の知としてのグノーシスによる人間の救済をテーマとしたものであって、神秘主義的色彩が濃厚である。

九三 ヘルメス文書のうち特に重要なのは巻頭の『ポイマンドレス』である。ポイマンドレスとは、人間の牧者の意味であって、人間の牧者である最高の神ヌースのことを意味する。この筆者の前にこの神があらわれ、その求めに応じて彼に一つの示現 visio をみせる。その啓示の中で、彼は、天地および人間の創造、その堕落、その昇天を見る。その啓示の内容は或る点でイスラエルの宗教およびキリスト教のそれと非常に類似しながら、或る点で非常に異なっている。その後にあらわれるグノーシス思想は、ここにその原初的形態を有している。グノーシス思想の本質を理解するために『ポイマンドレス』は、ヘルメス文書の中で最も重要である。」

「九八 神なるヌースは、ロゴスによって、デミウルゴスなる第二のヌースを生み出す。」

「九九 ロゴスはいままでいた下位の元素の世界から出て上昇し、いま創造されたばかりの純粋な世界のうちに入り、デミウルゴスなるヌースと結合する。そのため元素の世界はロゴスを失って単なる質料になってしまう。デミウルゴスなるヌースはロゴスと結合して世界を廻転せしめ、この廻転によって諸元素の中から、非理性的なる諸々の生物を生ぜしめる。すなわち、気からは鳥を、水からは魚を、地からは地上に住む諸々の動物を。−−−−以上が世界の創成である。」

「一〇一 人間は、デミウルゴスが世界を創造するのを見て、自分も創造したみたくなり、父の許しを得て創造の圏にはいった。」

「一〇二 人間は、七つの圏をつき破っていく途中、下方の自然界にその美しき姿を示した。自然はこの美しい人間の姿が、自分の上に、すなわち水と地の上に映じたのを見てこれを愛し讃美した。人間は、自然のうちに反映している自分の姿を見ると、それを愛し、そこに住みたいという気をおこした。ひとたび欲するや、それは実現した。自然は、愛する人間を受け取ると、これを抱きしめ、両者は合体した。かくて、天上の人間は地上に住む身となったのである。

一〇三 それゆえに、地上の人間は、二重の性格を有している。すなわち、その身体に関しては可死的で、その本質に関しては不死である。人間は不死であるかぎりにおいて、万物に体知る支配権を有しているが、それにもかかわらず可死的であるかぎりにおいて、運命に従わねばならぬ。彼は不死であるかぎり、世界を超越しながら、可死的であるかぎりこの世界の奴隷である。」

「一〇六 人間は二つの部類に分かたれた。すなわち、自己の本質を自覚せる者と、無知なる者とである。両者は豊かな恵みを受けるが、自己の本性を自覚せず、エロスのあやまちによって生じたこの身体に執着する者は、闇のうちにとどまって、死の苦しみをなめるのである。」

(「第一〇章 グノーシスの意味(四)−−−−神秘主義のグノーシス、ヘルメス・トリスメギストス(続き)−−−−」より)

「一〇七 ヘルメス・トリスメギストスによれば人間は二つの種類に分かたれる。すなわち自己の本質を知る者と知らざる者とである。後者は誤ったエロスによって自分に結びついた肉体に執着しその情欲の奴隷となり、死の苦しみをなめ、永遠に暗黒のうちにとどまる。前者はこれに反し、特別の恵みを受ける。」

「一一六 人間には、真の意味での究極的グノーシスは死後でなければ得られないとしても、それに似たグノーシスを示現の形で見る可能性は現世の人間に与えられている。(・・・)その可能性を実現せしめるための手段が浄めの生活と秘儀への参与である。」

(「第一二章 グノーシスの意味(六)−−−−旧約聖書におけるグノーシス−−−−」より)

「一三四 「グノーシスの意味は、その対象が神である場合に、ギリシアとイスラエルとにおける相違は最も明らかとなる。ギリシア哲学において神を知るとは、神の永遠不変の本質を知ることである。知性認識の前に姿をあらわすのは、時間を超越した神である。」

「一三五 これに反し、旧約聖書において「神を知る」とは、神の永遠の本質を知ることではなくて、神の意志を、力を、人間に対する要求を知ることである。」

「一三八 神の人間に対する意志はイスラエルの民にはとりわけ父祖や預言者に対する啓示を通して与えられたのであり、その啓示の本質は「律法」のうちに保たれていた。それゆえ「神を知る」とはまず第一に彼らにとって「律法を知る」ことだったのである。」

(「第一四章 グノーシスの意味(八)−−−福音におけるグノーシス−−−−」より)

「一六一 天国における直視を中心にイエスの教えを考えるならば、そこに福音におけるグノーシスをみとめることができる。もちろんそのグノーシスは、ギリシア哲学におけるそれとも、東方宗教のそれとも異なるものである。のみならずそれは旧約聖書やユダヤ教におけるそれとも異なるものである。それにもかかわらず、人間の救済を「神を見る」ことにおく点に、グノーシス的性格をみとめることができる。」

「一七三 福音におけるグノーシスは、それを可能ならしめる場として「天国」を有している。そしてこの天国は(一)さいわいなる霊魂のゆく場所(・・・)、(二)生ける神の子キリストによって地上にもたらされた神の国、(三)終末において実現される栄光の世界、という三つの場所において成り立つから、それぞれの場におけるグノーシスもそれぞれの場にふさわしい仕方で成り立つ。そして一切は、終末における神の直接的な直視に秩序づけられている。」

(「第一六章 グノーシスの意味(一〇)−−−福音におけるグノーシス(続き)−−−−」より)

「一八五 律法は福音においては、二つの方向に完成されている。すなわち内面化と普遍化の方向である。内面化によって、律法の有する形式性は全面的に否定されたのではない。内面的動機が外的形式なる示現にあらわれることが必然であるかぎり、外的形式的側面も重視されなければならない。しかし外的形式的行為の価値判断の根拠はあくまでも精神の内面にあり、それゆえときによってはその外的形式的側面は、無視され否定されることもまた可能である。」

「一八七 律法が完成さるべく究極的に志向しているものは「愛・アガペー」である。福音における律法の内面化と普遍化とは、根源的には「愛」によって動機づけられている。」

「一九六 キリストを知るとはキリストのあとに従い、その愛を行ずることを意味したように、神を見ることは、ただ神の愛を知ることではなく、みずから神の愛においてはたらくことである。我々は愛することにおいて「愛なる神」を知る。地上においては、キリストにならい神と人を愛することにおいてキリストの愛を知ったように、復活においても、人々は単に神を「見る」のみならず、たえざる神と人への愛のうちに「愛するものなる神」を見るのである。そこでは愛することが見ることであり、見ることが愛することとなるであろう。この点に、福音における神の直視と、東方的グノーシス思想におけるそれとの根本的相違がみとめられる。」

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