日記とか2「写真について」


2月6日土曜日 晴れ

昼に起きてラーメンを食って、昼寝をしてから母と買い物に行った。晩ごはんはエビフライだった。この週末が締切のレポート2本を昨日終わらせたので気楽に過ごしたけど、やることはあるのであしたからほんきだす。

おわり




……何もしてなさすぎだろ。まあさすがにこれで終わらせたらわざわざ書く価値もないので、こないだぼんやりと考えてたことでも書き残しておく。


Instagram(というよりSNS全般)が流行ってる今の時代、人に見せるために写真を撮る人が多い気がする。それも単に被写体を見せるためとか、写真の構図そのものを見せるためというだけじゃない。流行のものを被写体として、それをまた美しい構図で見せる。そしてそれをアップロードすることで、流行に乗っている自分を演出する。1枚の写真そのものが演出されるのではなくて、「(流行りのものの)写真を撮って見せる」という一連の行為が演出されている。そしてその行為にある価値、つまり評価項目は、「インスタ映え」という一言に集約される。そんな構造が見て取れる。

別にそのことの是非を問うつもりはない(自分の価値観には合わないが)し、もしかしたらInstagramの流行に関係なく、こういう写真の在り方は昔からあったのかもしれない。自分が普段それほど積極的にInstagramを利用しないのもあって、さっき書いたことも全然的を射ていない可能性もある。

大概自分が写真を撮るのってそれ自体が目的ではなくて、思い出の備忘録というか、自分が見たもの行った場所を記録として残しておくような感覚なんだよね。まあ例外もあるけど。それでふとした時に眺めたりして、「あの頃は幸せだったなあ」とか「あの子かわいかったなあ」とか懐かしむなどする。キモいな。


この前実家を掃除してたら、母の古いガラケーが発掘された。いま使ってるスマホからもう3代も前だし、普段開けないところから出てきたから多分ずっと電源すら入れてない(充電はできるらしい)。でも母に捨てないのかと聞くと、5年前に死んだ猫の写真が入ってるからダメだと言う。

見たり、見せたりしなくとも、それが在ること、記録していることに意味がある。そういう写真の在り方もあるのだろうか。写っている内容や撮ること自体ではなくて、記録して在る、ということに写真としての本質を求める。そのことが、その記録されたものが現実に存在していたことの証であるとでも言うかのように。

でも考えてみればそういう在り方って、別に珍しいことではないのかもしれない。例えば七五三の写真。写真館でプロに撮ってもらう人が多いと思うけど、その写真を何度も見返したり、ましてや人に見せたりすることは滅多にないのではないだろうか(もちろん人によるだろうが)。それでも見ないからといってその写真を捨ててしまう人は、まあそれほど多くはないだろう。いや、ないと信じたい。であればまさに、その写真は記録して在るということこそに意味がある。たとえ押入れの隅や箪笥の底に眠っていても、現実を記録したそれがあるということが、自分が七五三を迎えたことの証、いや七五三を迎えた自分がかつて存在していたことの証なのである。


思いつきでこんなことを書いてみたけど、特に生産的な内容でもないので話半分に読んでほしい。批判的に読んで議論を持ちかけてくれるぶんには全然構わないんだけども。

あと七五三のくだりで何を例に挙げるか検討してるときに知ったんだけど、「ひもおとし」って山陰ローカルなのね。知らんかった…

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?