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スラム街に見つけた共通点

1.アルゼンチンに安全な場所はない。

そんなことを教えられながら3ヶ月が経過している。さらに踏み込んではいけない地域があって、治安が崩壊しているとも言われるスラム街と呼ばれる場所がある。

前情報が凄すぎて行くことも迷ってしまいそうなほどではある。でもちょっとだけ興味があったのは、アルゼンチン人に街の風景画像を見せただけでBienな場所とそうではない場所の判別ができたということ。

要するに、一歩踏み込むだけで安全ではない場所が国民に嗅覚的に備わっているという事が言える。この感覚が何かに似ているとずっと思っていた。


2.その共通点とは

それが1980年~1990年代のヤンキーの文化と凄く似ていると思ってしまったのである。昭和の暴走族と置き換えても同様のことが言えるかもしれない。
彼らには彼らなりのルールが必ず存在する。大人の常識からはおおよそ理解できないとはいえ、必ずそこには主張があって暗黙の了解とも言える文化があるもの。

しかも、そこには弱肉強食の上下関係が存在している上に、誰にも負けない仲間意識の強さが根本にあるということ。外部の人から見たら危険な場所にあるものが、彼らにとっては生きる場所として成立しているということ。

3.生きるということを意識する

彼らを見ていて思うことは、真剣に生きることを意識していること。決して楽な選択をしているという意識はないと思う。人からはアウトローに見えていても自分の目線では全うな生き方なのである。

そして、アウトローを見ようとしてしまう意識が彼らを刺激しているというだけのことに過ぎないと思えてきたのである。生きるために何かの共通点を見出して集まったのがそこの集合体というだけで、そこにはきちんとモラルが存在しているのである。

4.そこにパワーを秘めている

かつてヤンキーや暴走族は何を主張していたのか。それは自分たちを阻害する常識だけで人を判断しようという人たちへの主張なのであって、罪を犯すことが目的なのではなく、一般社会に受け入れてもらいたいという主張も秘めている。

だから、何かのきっかけで社会に出ることができて成功を収めている人を何人も見てきているし、「元ヤンキー」(元ヤン)を恥ずかしがる人をあまり見かけないのも、そこに秘める自信の表れなのである。

反骨心を自分の力に変えられる強さがそこにはあって、人の繋がりを知る集合体での経験値の高い人材なのは間違いない。

5.この力を何かに生かしてみたい

ドラッグのことも含めて、スラム街という場所には諸問題があることも承知している。ある程度の人が集まって何かの主張をするということ自体は、日本人が苦手とするところで、近い将来に失われていく文化の一つと言える。

自分のテリトリーを最高の空間として、人には伝わらなくても自分たちの美意識の中で自衛しながら生きていく。治安が悪いという言葉では片づけられない事情があって、そこでもアウトローになってしまう人が人の道を外れてしまうという仕組みはどこも同じ様な気がする。

誰かのひと声で集まれることのできる集合体。仲間の助けに呼応することのできる意識。そんな力を何かに変えていけば良いだけのこと。

6.移民になって感じること

日本で「外国人」という日本語を使っていた自分が恥ずかしいと思う。それ自体が差別用語だという意識すらなかった。こちらではお店で買い物をする時に、言葉が通じない移民への対応の温かさを感じることだけで感謝の気持ちが芽生えてくる(逆もあるが)。

翻訳アプリを使ってやりとりしながら「Perfect!」と言ってもらえた時にそれを感じるのだが、こちらの方はそういうニュアンスではないことも分かっていても、「褒めてもらえた」と前向きに捉えながら生活している。

言葉がわからないからこその感覚、これが何かの嗅覚に変わっていく様な気がしている。スラム街を通っただけのことなのだが、単純に疎外したり距離を置くだけではなく、人と人との可能性を探せばすごいパワーにできる気がしてしまった。

運転中の車内からではあったが、スマホをかざしただけで感じる視線は、少し怖い気もした。もちろん一人で行ったり夜に踏み込むことはできないけれど、分かり合う瞬間があれば何かを生み出せるんじゃないだろうか。



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