発表のことば

 雷で目が覚める。寝入り端い痛かったのどは、少しばかりましになっている。

 昨夜、『週刊女性』を買いに、夜、ぶらぶらとコンビニへ。春馬くんのこれまでの写真が並んでいる。関係者の談話も少し。それから、一周忌のその日を待たず事務所からお母さんからの文章が出た。今年の2月末に雑誌に出て以来、5ヶ月近く大きな情報の発表はなかった。お母さんの文章に、私は特別に違和感はない。違和感がないだけではなく、そこになにかお母さんらしいものや真実らしいもの、現実的なものもない。つまり、特にどうということのない文章が発表された。お母さんについて、度を超えた取材が続いて、人権を侵害していること、直ちにそのような取材はやめてほしいということが主訴となる文章だ。さらにこの状況が続けば法的手段にでますよ、の前段階みたいなものかもしれない。

 であるから、ここに特別の真実らしいもの、本心らしいものや、「お母さんらしい」リアルなものはむしろない方が自然なのだ。春馬くんのことを「故人」と言うのも、喪主の挨拶と同じである。事務所が書かせた、書いたとしても、特にどうということがないと私は思う。

 成長課題のない大人がいないように、母親も人間だし、子育てをするなかで自分の成長を図れる部分もあれば、普段はなりを潜めている歪んだ部分が、さらに捻れた形でこどもとの関係に現れることもある。これは自分が常に対峙している自分自身。母親がいい母親であるかどうかは二者間の問題。人間としてどうかなんていうのはお付き合いしてみないとわからない。

 それからことばというのがことさら取り上げられることもあるけれど、心情をかたるためにどのようなことばをチョイスするかなどと考えるのは作家のすることであって、さびしい、つらい、かなしい、のことばの裏側には想像もつかないような複雑なものが人間にはある。悲しみかたは人それぞれ。正しさはない。1年でなにを語れるだろうか。

 私もこれまでに感じたことがない闇が、意識の奥深い、普段ぴっちりとしまっている蓋がずれて、流れ出てきたように感じたことがある。とても怖かったし、これが続いたら生きていられないという苦しみが、ほんの10分ほどだったがあった。こうなったら仕方ない、仕方ない、と春馬くんのリアルにぐっと接近した気がした。しかし、春馬くんを思う気持ちに自分が向かった経過を記していて、やはり自分が甘い悲しみに浸っていたという疑念を払うことができない。実際、春馬くんのことを考えていると、とても幸せな気持ちになれた。お化けでいつか会いにきてくれると言った来泉ちゃんと同じ気持ちというのもおこがましいけれど、暗闇で「はるちゃん」と呼びかけるときに、私は悲しいか楽しいかというと、楽しかったんだと思う。彼は特別な存在になって、だれもが彼を近くに感じることができるようになったのだ。そこに、会ったことのない春馬くんと自分との対話がやはりあったのだ。

 私はまだ、母親とひとり息子の物語を探し続けている。映画でも、小説でも、実話でも、なんでも。春馬くんのことを知るためにいろいろなヒントがほしい。それは春馬くんのためでもなんでもなく、自分がその謎解きに魅せられているからだ。たすけて、の声を昨夜キャッチした。以前いっしょに働いていた人。ギリギリなんじゃないかと勘が働いたのは、春馬くんのおかげ。私はやりすごさないよ。春馬くんの生と死から大きなものを受け取っている。


 

 

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