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孤独と祈り

先週の金曜日辺りから体調が変だった。熱が出るとか喉が痛いことはなかったが、辺りが灰色になる倦怠感と、掴めるところがないからダムで溺死した幽霊が私の両肩に掴むように取り憑いている肩こりが主な症状だ。去年の夏、それはカネコアヤノの野音でのライブ数日前のこと。ひどい扁桃炎にかかり、野音にも行けず(悔しすぎてレコードも買わなかった)、その時から大きい発熱などにはならないものの体調を頻繁に崩すようになった。
それでも、一年弱時間を経て、だいぶその回数は減っていた中での、体調不良である。私の目的は、仕事を探すことでも、日雇いでバイトをすることでも、映画をみることでもなく健康になることだ。なぜなら次の週の水曜日に、カネコアヤノのライブがあるからに決まっている。
しかし、すぐにはよくならなかった。これだけは平等である無料の太陽を浴び、餃子の王将でニラレバとにんにく激マシ餃子を食べ、ビタミンと鉄分を取ったのにだ。本当に徐々に徐々に、良くなったかもを繰り返して、やっと前日の火曜に及第点だろうと思えたぐらいだ。すると、その晩栄養ドリンク(もちろんカフェイン・糖質0)をかち込んで、寝所に入ると全く寝付けなかった。ワクワクなのか緊張なのか自分でも分からないが、脈が大きく打ち、身体が火照る。それでもそのまま目を瞑っていると、気持ち悪い予感がして、それは急に吐き気に変わった。これはまずいぞと、ひとまず身体を起こして深呼吸をしながら吐き気を治めた。すぐに横になるとまた吐き気が襲ってくるかもしれないと思い、そのまま目を瞑り眠くなるまで待ち、睡魔が到達したとこで横になってなんとか眠った。

結局、夜中に何度も起きた。そしてアラームよりも三十分前に起床した。
珍しく朝ごはんを食べて、それから髪の毛を直し、支度をした。その間に、イベントの前はよく体調に異変があるなと考えていた。野音をはじめ、オードリーの東京ドーム前は胸が運動に支障があるほど痛かったので、病院に行くとストレス性胃炎と言われ、四月に決行した流離いも二日前ほどから体調が怪しくて、旅の途中に一回、旅終わり翌日に一回病院にかかる羽目になった。健康それでいてくれたらいいと、何もできない私だからそれだけは、好きな人たちに向かって祈る。

ヘム鉄をかち込んで家を出た。
名古屋に着いて歩いていると、今日も信号無視をするおっさんが数人いて、「電柱に頭打ちつけろ、昼飯で胃もたれしろ」とか胸の内では思っていたりする。
美容室についてとりあえず髪の毛を切った。だいぶ伸ばしていたとこから、爽やか青年(私は爽やかにならないが)ぐらいカットして、さっぱりしたから大満足。

それから福水園という好きな中華料理屋を訪れた。
「月曜休みだったの?」
「月曜暇なもんで休みました。それといたでしょ、あの中国のおばはん。なんか体調が悪いからしばらく休みたいって」
「あら、ま。最近は休むっちゅうもんが当たり前か」
「ダメっすわ。あの人」
常連客と店主の話をいやでも耳にしながら、これまたレバニラを食べた。
店を出て、一三時。ライブは一八時会場。途方に暮れて、曇り空にため息をかけ灰色に拍車をかけてやった。いつものごとくまずブックオフに行き、小説や漫画を五十音に物色していく。それでも購入したのは谷川俊太郎の詩集一冊だけで、はあ中学生かわたしは、吟味吟味その上に百円の文庫を一つ手に取る。そんな自分も多少いるが、俺はこういう人間なのだと楽しんでいる自分がだいたいだ。

そして、本当に明確なやりたいことはなくなった。パルコへ入って買わない服でも見ようかと店内を回ると、店員がおしゃれでその上、俺よりオシャレじゃないそこの雑魚褒めてやるから服買えば?みたいなことを思ってそうで、店を次々に過ぎ去り、気づけば島村楽器に辿り着き、すぐに一階まで降りて後にした。
大須の方にいって、疲れたから公園で座り、せっかくだからと好きな喫茶店へ行ったら、いつのまにか潰れていて、捨てられたアリゲーターガーの気持ちはもしかしたらこれなのかもしれないと思った。

ここまできたらとことん歩いてやるからな、何に対してか自分でも不明なまま開き直って、ライブ会場の方に向かって歩いた。ずんずん歩いた。気がつけば愛知大学も中京テレビも通り越し、zeepはもう過去のように離れていく。行き着いた先は、極楽浄土。ではなく普遍的な喫茶店だ。席につくと、横にある水槽でメダカが泳いでいて、「え、俺も泳いでいいの?」と訊ねたが、「お前はまだこっちにくるべきじゃない」とあっさり断られたから、アイスミルクを注文した。
あれ、と外を覗いたと思ったら、首をかしげて店主は戻ってきた。
「今日って雨やないよね?」
本を読んでいた私は反射的にそれを閉じ、
「違うと思いますよ」
と答えた。なんとなく嬉しくなり、それはなぜか考えていたら、それはどう見ても若造の私にどちらかというと年の功である天気について訊ねられたからである。今日やっと他人に信用され、私はその役目を果たしたのだ。
と、調子良くそのまま本を読んで、合間にメダカに「やっぱそっちいけないすかね?」とか訊ねていたら、五時までだからと言われ店を出た。しかし、捨てられてその池で寂しさもないまま、繁殖だけを続けるブラックバスとだけは仲良くなれないな、なんて思う。

時間を持て余したが、ひたすら周辺を歩いた。適当に歩いていたらライブ会場に着いたが、まだ時間はあったので、その辺のベンチに座って本を読んで待った。

整理番号がだいぶ後ろで、そのためどこの入り口も人で溢れていた。流れに沿って入場したらそこは一番前のブロックで、それから真ん中に詰めていったからだいぶいい位置につけた。始まる直前まで携帯を触っている人や、後ろの人は野球の速報をずっとおっていて、なんだろうか、その人達は始まった瞬間にすぐ切り替えられるのか不思議に思っていた。
そんなことを考えながら待っていると、会場の照明は一段と暗くなり、カネコアヤノを含めたバンドメンバーがステージに姿を現した。その時、目の前にいた丸刈りの青年が横にいた女性に「見えますか?」と言って前に入れたことで、見える位置を確保していた私の視界のほとんどが丸刈り頭になった。
その状態でライブは始まった。音にのって身体を動かし、その動きを利用して見える良い角度を探した。しかし、丸刈りも結構身体を左右に動かしていて、振り子のように私の視界に侵入する。丸刈りで二十代前半ぽく、音楽をやっている友達と重なり、心のなかでその友達の名前を何度も呼んだ。どうにかしてくれ、と思いながら呼んだ。最終的に少し右に傾けることで妥協したが、右目には映らないものの、左目にはいて、チカチカするようにその丸刈りは映る。
それでも少し落ち着いて、脈を直接打たれるような音に身を任せていた。曲もゆったりなものになってきて、昼下がりの夢のような心地でいた。飛べるのではないか、今なら息をしたまま泳いでいけるのではないか、そんな感覚がしていたときだつた。
「あーーーーーー!!」
真後ろの人(直前まで野球の速報を追っていたお腹が大きいおっさん)が、静かな曲の前奏で急に叫んだのだ。それはまるで我慢していたストレスが爆発して発散するような叫び声だった。私は後ろを振り返って、嫌悪感を抱く。そしてすぐあとに、私がなにかストレスをかけていたのではないかと心配になって気が気でなくなってしまう。前には変わらず丸刈り。

どこかライブそのものに完全に集中できないまま進んでいく。盛り上がる曲になると、その後ろのおっさんは横目で見えるほどに手を掲げ、私の肩や身体を軽く殴る。お腹で勢いよく押され、その勢いで丸刈りにぶつかりそうになる。狭いとはいっても、横の人と軽く触れるだけで十分スペースはある。大きめのおっさんの息が首元に何度もかかって、その度にゾクッとしていた。

だから、途中で開き直るしかなかった。一度目を閉じて音だけを聴いた。すると照明の演出やそれによってできる影が、胸の中に自然に投影され始めた。やっと目を開いて、ステージを見るとそこには永遠があった。現実的な永遠など存在しないが、その瞬間の永遠ならあるように思う。それがそのステージ上にあった。

この前、カネコアヤノアンチだという人に出会った。理由を訊ねると、マッチングアプリでサブカル好きと謳う人たちのアイコンとなっているからというのだ。そうやって消費され続けている人というイメージだから、魅力を教えてほしいと言われた。しかし、私は上手く答えられなかった。力強い歌声、日常への詞、音の調和。それぐらいしかいえないのが悔しかった。

私がカネコアヤノを一番好きな理由は、「弱さの中にある強さのどちらにも偽りがなく、それが日常のある瞬間で救われる詞」だと思う。もちろん音も大好きだが、音楽の知識はないからどこがいいとかはちゃんとは分からない。
いい意味で、こちらがほっとかれている気がしてならない。自分のために音楽をしていて、自分のためにギターを掻き鳴らしている、その感覚がステージ上のカネコアヤノを見ていたら湧いてきた。
しかしそれと同時にこちらを信用してくれているような気もした。よすがをリリースした際のインタビューで、コロナでライブが飛んで人に聴いてもらえないことことが増えた時音楽を作るモチベーションがなくなった、という記事を目にしたことがある。
カネコアヤノは、あくまで自分のために音楽をしているが、それと同時にこちらを信用して、あとはそちら側で受け取って、たのしんでと言われているような気がした。
忘れてしまいそうな瞬間や、目に焼き付いている風景や出来事。カネコアヤノを聴いている度にそんなことを思い出す。そのどの場面も私は孤独だった。孤独は寂しいことではなく、周りに人がいても私は孤独なのだ。自分の中で、何かを感じる、考える瞬間は孤独で、その孤独を愛している人たちが少なからずあのライブ会場にはいて、カネコアヤノもきっと孤独を愛しているのだと身勝手に思っている。今だったら聞いてきた知り合いにこう答える。
しかし、こうやって感想を書くのは躊躇ったし、言語化をしたくないとも思った(多分まだ全然できていない)。まあ、誰も読んでいないだろうから、とりあえず拙くめちゃくちゃにでも書いておくか、そんなところである。
「仮病を使って休んだ日に見た あなたと午後の光が僕を包んでくれるかぎり」
どれが好きとは選べない中の一つではあるが、好きなフレーズの一つである。陽の光に救われることが本当にある。なぜかこれがあるんだから生きていける、と根拠もなく思う日がある。孤独の中に住んでいる。
ライブが終わったら、攻撃を繰り返したおっさんは一目散に出ていったようで姿はなかった。目の前の丸刈りを見ながら、やはり丸刈りの友達のことを思い出して、彼も日常の些細なことを大切して歌っているよなとか深く考えないまま思っていた。

ライブ会場を出ると、涼しい風が吹いていた。人の流れに沿って歩いていると、そこら中からライブの感想が聞こえ、まだ自分の中で堪能したい私はそっとイヤホンをした。風が段々と渦巻いた熱を連れ出していって、残ったのは永遠の表情をする彼女。駅に近づいていく度に、仕事帰りの人たちが混ざっていき、ホームの階段を登りきるときには、さっきの熱気が夢のように、照明が白い。電車がやってくるまで夜に浸かるホームの向こうをカネコアヤノを思いながら眺めていた。電車がやってきて乗り込むと、車内の明かりはホームに比べ一段暗く、くすんでいた。この照明に抱く感覚は久々だった。

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