≪≪行こう≪GO VOTE≫投票に≫≫
#都知事選2024 まであと2週間を切りました。
#期日前投票 が、6月21日から出来るようになりましたね。
私も7月6日までに #不在者投票 に行ってきます。
投票は難しいことじゃないよ。
何気なく、自分が外に出て買い物をするとき、
自分の意志で、自分で選択して買う。それと一緒よ。
買い物は金銭という対価を払って何かを手にするけれど、
投票におけるその対価は、もう既に先人たちの計り知れない犠牲で払われてる。私たちには今は当たり前のように「選挙権」がある。
当たり前に【なかった】世の中から、
当たり前に【ある】世の中になってる。
そしてこれだけ法が捻じ曲げられ無法地帯になっている今は、
その当たり前の【ある】が全く守られていない状況で、
それはこのままだとどんどん悪くなる一方。
まともに「選挙権」をもって投票に行けるのはこれが最後になるかもしれないって、ここ数年は毎回そう感じて投票に行ってる。
国民は言うことを聞く奴隷か何かだと思っている政治家が私腹を肥やしているね。日本でなければ何回政権が吹っ飛んでいるか分からないと思う。
馬鹿にするな、生きてるんだよ。
と言いたい。
考えることを放棄しないし、ぶつぶつ言うのを止めない。諦めたりしない。
時々そうやって自分に宣言する。
子ども達に何て説明する?
別に自分の子どもに限らない。今の大人はみんな恥ずかしい。だって
「あのとき、何で何もしなかったの??」
「そんな馬鹿げた状況を何故ゆるせたの??」
って訊かれて、何か答えることが出来るのだろうか。
全く大袈裟なんかじゃない。ここ10年、20年で社会がこんなに変化、疲弊しているのに。その社会の中でみんな生きてるはずなのに。
表現の自由を、性加害の自由と履き違えたり、
あの都知事選のポスターが並んでいるのを見て「アホやな~」ってふって笑って終わる人もいるだろう。
あれを「多様性」と思うのか?
性善説で何とか回していた社会が、
性悪説で回さないといけなくなっているこの感じ。
みんなウォーキング・デッド観たことない?マーベルだって何だってさ。
これだけ人間の教訓になる歴史が、それを土台に作られたものがあふれている世界で、目の前にあるのは映画やドラマの話じゃないんだよ。
へらへら傍観している場合じゃないんだ。
都知事選のポスターにしても、今のこの社会に蔓延している学習性無力感は私は間違いなく安倍政権が長い期間やっていたこと、壊したものの影響が非常に大きいと思う。土台にしてきた教育を含め。
モリカケサクラ、閣議決定の連発、強行採決、言葉の破壊。
昔から政治家はカネの問題はあるやろうとはいえね、
「まさか一国の首相がそんなことはしないよね?」の連発、
質問に答える、そんな当たり前のこともやらない。
腐っても自分の志とか矜持みたいなものがさ、せめてそこは人間としての良心があるでしょうよ、と、そんな感覚をぐちゃぐちゃになぎ倒したよね。
法の隙間を突いたグレーな行い(行い自体は真っ黒)を国民に見せつけ、それが強さと言わんばかりに権力という力でねじ伏せ黙らせる。
今確かにここにいて、存在している人やものの話を
「多様性の時代だからね」と見ないようにして置き去りにするのは問題のすり替えで、その言葉が使われるときに何度も何度も
意識的・無意識的な蔑視、冷笑の気持ち悪い感覚を受ける会話をしている。
裏から裏から、傍観して自分は大丈夫って思いたくて石を投げたり、
自分たちにとって未知のことや感覚におびえて不安になる。
不安になっているけれど、それは「この時代だから」じゃないんだよ。
あなたたちが勝手に見ないようにしていた人たちは、前からいるんだよ。
生きてる。
多様性の時代だから突如現れたわけでも、
突如社会が寛容になって見えるようになったわけでもない。
自分が『見ていなかった』ことが少しだけ見えるようになっただけよ。
突然現れた特殊な ひと、こと、もの、ではないです。
社会の中で❝容れ物(入れ物)❞になって生きている人たち、
置き去りにしている人たちは、
「ここでそれを認めてしまったら自分の人生は何だったんだ!」
と自問自答する羽目になるやろうし、
それは恐ろしすぎてとても出来ないことなのだと思う。
ひとりでは。
・・・それを認めてしまったらのそれっていうのは
容れ物ではない自分=例えば肩書き・社会的地位のない自分
ただ自分がそこに生きていても良い安心感と言っても良いだろうし、条件の要らない、ただ人間として生きていくことなんだけれど
それはきっと新しい価値観だったり、知らない感覚を指している。
確かに私たちは皆社会の一部であるけれど、それは自分の中の一部であって、社会=自分、なわけでも、その自分がすべて、なわけでもない。
容れ物で慣れすぎて麻痺してしまっているから、だから、
消費すること、されることにこんなに鈍感になるんだと思う。
選択制ってわざわざついてる夫婦別姓もそう。何が問題なのか?
この間、強行採決した共同親権の改定案もそう。自分が容れ物だと、
他者に対しても平気で「所有物」の感覚を持つのだろう。
信じられないけれど、見た目はちゃんとしているような大人たちがその馬鹿げた法案を強行採決しつづけている。必死になって。
だからNO!というものにはNO!と言いつづけなければ。
小さくても大きくても。じゃないとこころが死んでしまう。
投票は難しいことじゃない、何気なく、と書いたけれど。
その何気なくの買い物が、投票が、出来ない状況に
人が簡単に追い込まれることも、身をもって知りながらやってきたから
そりゃ知らない人が「投票なんて行って書くだけなんだから簡単だよ!」
って言うてきたら私もカチンとくる。
その「行くだけ」「書くだけ」は、
残念ながら今の日本ではみんなが安心・安全に出来るわけじゃない。
だから、だからこそ、投票に行くんだって思う。
みんなが安心安全に投票出来るようになるべきだって。
それを想像出来そうな人に、話を聴いてくれそうな人に投票する。または
それを全く想像出来なさそうな人に票を入れないってこと。
白票は意味がありません。
必ず誰かを選び、誰かを選ばない。ってことです。
こんな場合もあんな場合もあって【前例がなくても】ここにあるんです!
困っているんです!って。先ず知ってもらわなあかんのやと。
投票したいのに安全に投票が出来ないんです、毎回泣く泣く棄権しているんです。って人は沢山いるはず。
私も何年も泣く泣く棄権してきて、自分が不在者投票を安全に行うためにどれだけの人の手を借りてきたか。耐えて耐えてやってきたから本当に思う。
【たった一票】ではないです。
生きるか死ぬかの状況は、人の数だけいろんな場合がある。
どれだけ世の中の当たり前があっても、絶対に私たちが想像も出来ない状況というのは起きるし、実際に起きている。
ようやく出来た不在者投票は2021年の都議選と衆議院選挙のときだったけれど、そのときに書いたことと今も同じことを強く思っています。
もう一度ここにも書いておこうと思う。
人間の生きる力を奪う何より強力なものは
「考える力を奪う」こと
私たち夫婦は「どうしたら共存出来るか」みたいな話を延々と、大真面目に
何年経ってもああじゃないか、こうじゃないかと話しているのですが。
それは、❝当たり前だと思っていた事が相手にしたら夢のような話だった❞
経験を、未だにお互いに経験しているからで。
考え続け、お互いの共有できる言葉やその意味を見つけるため話し続け日々その擦り合わせの中に生きています。
中でも、教育の話は避けられない話なので自然とよく出てくる。
それは政治の話でもあり。当然、人権の話でもあります。
自分自身、殴られたり蹴られたり引き摺り回されながら身体的な暴力が日常の中で過ごしていましたが、身体的なものは治ることが多い。
ただし、精神的な暴力は別です。
お前は駄目だ、だからお前は駄目なんだ、と
小さい頃から言われ長らくゴミのような扱いを受け続けていると
親の機嫌ひとつでご飯が食べられなくても、真冬に裸足で外にいなくちゃならなくなっても、「おかしい」とも「何で」とも思わなくなります。
「全部自分が悪いから仕方ない」と本気で思い、
そのうちに自分で外に出たりします。その罰を受ける必要が、自分にはあると思って。何より母親に人間扱いして欲しくて、必死にやります。
(今だからようやく、人間扱いから更に真逆の行動をしていると感じることが出来ますが。当時、そもそも二十数年間、自分の家族、家の中での出来事を本気でおかしいと思ったことがありません。誰かに話したこともなかった。)
未だにこの「罰を受ける必要がある」感覚と葛藤しながらトラウマの治療を続けていますが、二十数年間かけて幼少期から身につけざるを得ずやってきた感覚は、そうそうなくなりません。
【考えられない】【選べない】【自分にはその価値はない】
これだけで人間は死にます。
例え衣食住を守られていても。まともな身なりをしていようがいまいが
良いとこの仕事に就こうが良いとこの学校に行けていようがいまいが。
身体的には死にはしないのかもしれませんが、こころは死にます。
思考停止がそのまま反映された今の投票率では、私たちが生きやすくなったり、子どもたちの生活を豊かにすることは出来ません。
もうすぐくるであろう衆議院選挙時
ついに長男も来年には選挙権を持つ年齢になります。
正解か不正解ではなく、間違ってもやり直し、考え続けること。
うちは事情があって世にいう地元はないし連絡網も絶っているので
小中高の同級生なんかと同世代で話をしたくても気軽に出来る環境は今はないですが。
みんなどんなことを考え、それぞれ生活しているんだろうな
とはよく思ったりします。
思想が強め、のような言い方があるけれど
政治の話を、生活に直結する自分たちのことを冷笑ですます人たちは何で自分は大丈夫と思えるのか不思議でたまらない。
明日どうなるかなんて誰にも分からないのに。
こんなの思想でも何でもない。
ただ命や生活をおびやかすな、というだけ。
子どもや自分の家族、猫や犬や動物も。安心して暮らしたいだけ。
質疑応答も出来ない、しない、嘘で真っ黒の大人たちが
守られるべき対象の子どもを守らず、自分たちの権力・カネを守るためだけに法を変えようとする。
普通の会社で
領収書は10年後に出しますね!黒塗りかもしれませんけど!
ってなったらゆるされるわけないだろう。頭おかしいのか?ってなるのに。
何故、国会でそんなことがまかり通るんだ。
裏金裏金っていつまでそんなことやってるのって思う人言う人、
そのお金は国会議員のポケットマネーちゃいますよ。
家のお金が、会社のお金が、知らない間に何百万もなくなっていて
それが何年も何年も積み重なっていて。
「記憶にございません」「領収書は出せません」
で、はい、そうですか!とはならないだろう。
みんな好きなものや人、あるよね。
それは毎日食べているものだったり、かわいいかわいい猫だったり、場所だったり、推しだったり、作品だったり。
私は出来るだけそういう好きな人やことやものと生きていきたいよ。
なくなってほしくないから。きずつけてほしくない。
だから出来ることはやる。
しつこく考えるし、人と言葉や意味を交わし共有しながら
他者との共存の中生きていきますよ。
私たちは誰かの付属でもないし、容れ物でもない。
こころが死なないように。
生活を守り、より良くしようと、諦めなくて良いように。
投票に行こう。
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