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先生を辞めて1年経った今の話

現職の先生をしている人には怒られるかもしれないけれど、僕はまだ意識として先生のままです。

先生を辞めてから、環境や状況がたくさん変わった。

ミスiDを受けて、ファイナリストになることができました。

平成墓嵐というグループにも入れて、アイドル活動も始めて。

転職もしました。IT企業の正社員です。

応援してくれる人も増えて、周りからの扱いが変わってきたことも感じます。


それでも最近思うのは、依然ぼくの気持ちは教員だった頃のまま変わらないということ。


未だに元教え子が心配になることもあれば、DMで近況を教えてくれて安心することもあります。
「先生やってた頃はこうだったな」と思い出すことばっかりで。
髪色が変わってもピアスの数が増えても、変わらず先生として扱ってくれる元教え子や、ミスiDで知り合った女の子たちに感謝することしかなくて。

今、僕が大勢の人の前に立って何かを伝える場は教壇からステージに変わって、それでも、それでも、伝えたいことは何ら変わっていなくて。

校則破っちゃったって、勉強したくなくてゲームをしちゃったって、仕事に行きたくなくたって、トイレでちょっとサボっちゃったって、嫌いな人がいても学校や仕事を辞めたくても死にたくても最低な日々に中指立ててても全然良くて、好きなものを人に認められなくても君が君であることだけが尊くて、誰もが好きなものを好きと言えるままでいてほしい。

その思いだけは変わらないなと実感する毎日です。

先生のときは学校の方針もあり、そんなこと伝えられる場がなくてもどかしかったけど、今ならこうやって伝えられることが辞めて1番良かったと思えることです。

全肯定なんてできないし、全理解なんてできない、僕と君は別の人間だから。
肯定が下手な僕がたったひとつ伝えられる肯定が、君は君でいていいよ なんです。

変かもしれないけど、辞めて1年経って初めて、僕は僕がなりたかった先生になれたような気がしています。

アイドルやポエトリーをやる人間としてステージに立とう、人前に出ようと思ったのは、好きな髪色・好きな姿・好きな場所にいて好きなことをしている自分を見せることで、君もそうしていいよと伝えられたらと思ったのがきっかけです。
言葉で伝えるのには限界があって、なら肉体で表現するしかないと思ったから。
その勇気をくれたのは、半年前に元職場の学校の文化祭に行ったとき髪がピンクの僕を見て「先生」と呼んでくれた生徒たちです。

教師だった自分なくして「夢庵ゆめ」という存在は成り立たなくて、1年越しでそれに気付いたのは遅いのかもしれないけれど、今はありがとう なんてありふれたことが1番言いたい。
思えば教師のときもそうだったな、廊下で会って「先生!」と呼んでくれる生徒たちがいて初めて、ああこの子達が僕を先生にしてくれたんだと思ったことがありました。

僕は僕の「好き」を貫きます。
それを見て、1人でも自分を認められる人がいるなら良いなと思います。
そしてまた勇気が持てた頃、教壇に戻るのが密かな夢でもあります。

夏目漱石は、弟子の芥川龍之介にこんな手紙を宛てています。


勉強をしますか、何か書きますか。君方は新時代の作家になるつもりでしょう。僕もそのつもりであなた方の将来を見ています。
どうぞ偉くなって下さい。しかしむやみにあせってはいけません。ただ牛のように図々しく進んで行くのが大事です。(中略)
あせっては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可(いけま)せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。
決して相手を拵えてそれを押しちゃ不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうしてわれわれを悩ませます。牛は超然として押して行くのです。
何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
(1916年8月24日)
夏目漱石『漱石書簡集』より

僕もこれを読んでいる君に、ゆっくり進めばいいと伝えたい。
間違っても、回り道をしても、僕は今こうして好きな場所で思うことができています。
君が好きなことを好きと言い続けて進んで行く限り、望む場所へ辿り着くと信じています。

それだけをただ、これからも粛々と伝えていくつもりです。

2020年4月13日  春の夜にて

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