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「ミュンヘンのふわふわベカライ」第8話


第八章 びっくり 九月

「ねえアカリ」
「わっ、びっくりした!」
 突然話しかけられて私は跳び上がった。
「何それ、私がさっきからキッチンに座ってるの知ってるじゃない」
カルラは呆れて言う。
「うん、知ってたわよ。でも話しかけられたのは突然だったの私には。びっくりしたのよ」
「変なの。まあいいけど。トマトとモッツァレラのサンドイッチ作るけど食べる?」
「うん食べる。ありがとう」
 まだ少し心臓がドキドキしている。そうなのだ。私はすぐにびっくりしてしまう。昔からそうだ。

 ーーふいっとリビングに入ってきた夫に話しかけられて「きゃ!」と悲鳴をあげたり、ソファーで共に思い思いの姿勢で本を読んでいる時に話しかけられて「ぎゃっ」と叫んだり。その度に彼からは「ハーイ! 僕はここに住んでいる人なんですけど? 君と。ハジメマシテ」とからかわれたものだ。
 自分でもなぜだかわからない。特に深く思いにふけっていた訳ではないし、「今ここ」に意識を集中するとかいうマインドフルネスを実践していた訳でも全くない。実はカフェでも近くのお客さんに不意に呼ばれて「わっ」と驚いてしまい、何か悪いことをしていた子供のようにバツが悪くなることもある。もしかしたら大概の人が開いている外の世界に繋がる意識の窓を、私はいつも軽く閉じているのではないかと思う。それは外との交流を無意識に遮断しているという事かもしれない。鍵こそかかっていないが自分から外を見る気にならない限り窓を開けるつもりはないのだ。だから外の方から窓が開けられると力ずくに感じてその暴力的な感覚にびっくりしてしまう。
 当然携帯に電話がかかってくるのも嫌いだ。鳴ったり振動するとびっくりしてしまうので、部屋の定位置にサイレントモードで置いている。確認したくなったら自分から行って見る。電話をくれるならまず先にメールで『電話して良いか』アポイントメントをとってほしいと切に思う。

「ねえ、あかりにお願いがあるんだけど」
 サンドイッチをよこしながらカルラは珍しく居心地悪そうな笑みを向けてきた。カルラも私と同じように人にお願い事をするのが苦手だ。
「何?」
「今日は一日アパートにいるの?」
「そのつもりだけど?」
「私もいるんだけど……。ヘナで髪染めるの手伝ってくれるかしら?」
「もちろん。お互い様じゃない」
「それからね」
 少し言いにくそうに、
「私宛に荷物が届く予定なの。それで、悪いんだけど、来たら受け取ってくれないかな?」
「いいけどなぜ?」
 信頼できる相手からの頼みごとは可能であればとりあえずすぐオッケーし、理由は後からきくのにやぶさかではない。相手に気持ちをアピールするいいチャンスだ。
「それがね、最近気味の悪い配達人なのよ」
 私は滅多にネットショッピングなどしないので知らなかった。
「どんな風に?」
「褒めてくるの。綺麗だとかスカーフが似合ってるとか、毎回」
「うわーそれはうざいわね」
「そうなのよ。ニヤニヤしながらしつこく言ってくるの。それで会いたくないの。でも荷物は必要なのよ」
「わかった。私が受け取るよ」
 褒められれば何でもいいってもんじゃないこと、分からない人が結構いる気がする。カルラは誰から見たって美女だから賞賛に慣れているだろうとは思うけれど、配達の度に一々容姿について言われるのが不快な気持ちはわかる。例え私に起こることのない事だって、想像で分かるものはわかるのだ。
 その後、バスルームでカルラの手の届かない髪の毛の部分にヘナを溶いたものをこれでもかと塗りつけ、浸透時間を置く間シャワーキャップをするのを手伝いながらふと、こんな泥のようなもので髪を固めてレゴの人形みたいになった頭に、更にビニールキャップを被ってさえ凛とした美しさのあるカルラに改めて見とれた。彼女は元々淡い茶色の髪の持ち主だがそれをヘナで赤みがかった栗色に染めている。太めで隙間なく豊かに生えている眉の色はダークブラウンだ。秀でた額から繋がる眉間は高く、そこから驚くような立体感を持った鼻筋が先まで通っている。その鼻先はまたツンと軽く天を突くように魅力的で、一つ一つが一級の芸術作品のようだった。
 そのあと二人で居間で過ごし、お茶を飲んだり本を読んだりしているとベルが鳴った。カルラの荷物だ。
「ヤー、ハロー?」
 私が応え、アパート入り口のロックを開けて部屋のドアの前で待ち構えた。
 階段を上がって現われたのは小柄で浅黒い肌の男だった。待っていたのがカルラでないのでがっかりした様子だ。私はすっぴんにメガネをかけ、頭はボサボサ。かなりくたびれたジーンズにダンガリーシャツという出で立ちで迎えた。男は値踏みするような目つきで私を見た。太りすぎてはいないみたいだが、若いのか若くないのか、綺麗な部類に入るのか醜女なのか、決めかねているようだった。それによって態度を決めるつもりなのだろう。女性の見た目によって振る舞いを変えるタイプの男だ。
 荷物を受け取り配達人が去った後カルラに渡すと、
「ありがとう!」
 カルラは両腕を大きく広げて私を抱え、頬に大きく音を立ててキスした。石鹸とヘナの混じった良い香りと柔らかな体温にふんわりと包まれ、私は少しうっとりした気分で、女性の唇って柔らかいなと思った。

ヨッヘン情報
 新作のパンの件以来、少しずつだがヨッヘンとは話が続くようになっている。
 ヨッヘンに絵を描く趣味があるという事も知った。日本画に興味があるらしく、私に誰か好きな画家はいないのかと何度も尋ねてくる。わたしは日本画についてよく知らず、頭に浮かぶのは浮世絵版画、また美しいけれど個性的でない花鳥風月画や、のっぺりとしてひたすら真っ白い肌の女性の、必然性を感じない大胆なヌード、という位のイメージしかなかったため、知識のないことを恥ずかしく思った。しかし何度もその質問を受けた後にふと、中学の時の美術の教科書に日本画でとても好きな絵があったことを思い出した。そこで確認してからその画家の名前を教えるからとヨッヘンに約束をした。記憶の中のその絵は、この世のものとは思えない幻想的な野に不思議な花が咲き乱れ、空には二つの月が出ておびただしい数の蝶が渾然となって空に向かって群れ飛んでいる、という、えも言われぬ美しさを醸し出している絵だった。一面に舞い上がる渦のような炎のような蝶の姿が印象的で、どこか霊的な世界の風景だった。こんな日本画も存在するんだ、とその時強く思ったのを、しかしヨッヘンにきかれるまでは全く忘れていた。調べてみると近藤弘明という日本画家だった。
 ヨッヘンは日本画の圧倒的な静けさが好きだと言う。例え炎であっても水しぶきや紅葉の鮮やかな絵であっても、日本画にはいつも圧倒的な静けさを感じると言う。それは一旦絵の対象を心の中に収めて消化し、自分というフィルターを通して描いているからなんでしょう?と観照と言う言葉も知っていて、私に教えてくれた。

 ある日のベーカリーで、オリーブの実の注文に間違いがあって種ありのものが沢山届いたというので、私は暇さえあれば種を取る作業を手伝うことになり、ヨッヘンとも一緒に作業を行った。台の上で指やナイフを使って押し付けるように実をしごくと、種の周り部分が緩んで取りやすくなる。それでも一つ一つ取っていくのはかなり地道な作業だった。この単純作業の間にヨッヘンと話をした。彼は非常に良い聞き手で、いつも次の話を上手に促してくれるような返事をくれる。私はヨッヘンとの会話を楽しんでいる自分に気づいていった。
 作業台の片隅に置かれた皿にヨッヘンが後で食べるのであろうバターとジャムが塗られたパンが一切れ置かれているのを見て、思い出した事があった。幼い頃に読んだグリム童話に出てくるジャムを塗ったパンの絵だ。深い赤紫と青紫の混ざったようなジャムの色がそれは鮮やかで強烈で、美味しそうでたまらなかったのを未だに忘れられない、と言うとヨッヘンは、
「見かけによらず食いしん坊だね」
 と笑った。生憎その本はもう持っていないのだが「勇ましい仕立て屋」という話だった。私の記憶では色からしてそのジャムはラズベリーなのだが、残念ながらヨッヘンはその話を知らなかった。早速ネットで調べて言うにはMusムースとあるし、何かはわからないけれど時代から言ってジャムよりさらりとしたものかも知れないね、と教えてくれた。
「他には? 他にも食いしん坊お気に入りの食べ物の話はないの?」
「私だけじゃないわよ。ハイジに出てくる都会の白パンはみんなの憧れだったのよ。今では日本のパン屋さんでハイジの白パンの名前で売っている位なの。でも本物と違ってふかふかよ」
「本当に? それは一度日本に行って見てみたいな!」
 ヨッヘンは心から興味を惹かれたように目を輝かせている。
「他には?」
「ハイジで言えば、新鮮なヤギのミルクやチーズの美味しさが沢山書かれていたし、クララはそれを食べて元気になったから私は本当に憧れたの。そしてそれを母に言ったら『ヤギのミルクなんて臭くって、あんたには絶対に飲めやしないわよ!』ってピシャリと言われて本当に悲しかったな。でも母は正しかったわよ。私、ヤギやヒツジのミルク製品はダメだもの。匂いが鼻についてしまって食べられない」
「なるほどね。他には? 何か日本のものはないの?」
 ヨッヘンは楽しそうに催促する。
「日本の絵本で、細かいことは忘れちゃったけれど森に行って沢山のさくらんぼを拾い、汽車での帰りにケーキ屋さんに頼んでそのさくらんぼを使った大きな大きなチェリーパイを作ってもらってみんなで食べる話があったの。そのおっきなチェリーパイがね、もう本当に美味しそうだったのよ〜」
「はっはっは」
 ヨッヘンは話を始めた時から笑い通しだった。私の食べ物への関心に驚くやら可笑しがるやらでやたらと感心している。チェリーを使ったケーキはうちにも黒い森のさくらんぼケーキがあるじゃないというので、ああいうのではないの、と残念がってみせた。挿絵にあった私の記憶に残る大きな大きなチェリーパイは、おそらくパイ生地にカスタードクリームを入れ所々にフレッシュなチェリー埋め込んで焼いたもの、といった感じだ。またさくらんぼはアメリカンチェリーのように毒々しく赤くなくて、日本でよく見かける淡い桃色にハケで珊瑚色をさっと足した様な、とても綺麗な色をしていた。
 それから私は日本のパン屋さんのバラエティに富んだ品揃えについて説明したりした。ヨッヘンはドイツパンの専門家であるけれど、日本の面白い組み合わせの惣菜パンについて語っても不審がったりせず、好奇心いっぱいといった様子で聞いてくれた。
 そこで今度はヨッヘンに、何か思い出の食べ物はないの?と尋ねると、彼は一瞬の間黙り、何かを思い出すように目を細めながらポツリと、
「トスカーナの、海辺でおやつに食べたパンかな」
 と言った。
「パンなの? じゃあ自分で作れるじゃない。作ってみないの?」
 無邪気に言い募る私に、ヨッヘンはあまり乗り気じゃない様子だ。
「うん、そうだね。……でもね、たくさん泳いで腹ぺこで食べたあの平たいオリーブオイルたっぷりに焼かれたフォッカッチャの美味しさには、あの時の潮の香りも太陽も必要だし、同じにはできないと思う。再現はできないと思うんだよ」
「へえ」
 なんだか思い入れがありそうで、私はそれ以上きくことはできなかった。

 この時期のドイツの夕方は日本の夏の終わりと同じ匂いがするし、音もする。音といえば増してくる虫の鳴き声に加えて、どこかで秋祭りの太鼓練習をしていると錯覚してしまいそうにくぐもって響く、何かを規則的に叩く音も聞こえてくる。そんな音や匂いを感じながら目を閉じると、子供時代の夏休み終わり頃のあの切ないような気分が蘇ってくるものだ。永遠に続くと思われた自由な夏が終わってしまう悲しさ。でもこのままでいられる筈もなく変化は必然なのだという諦め。同時に子供らしく、新学期には何か新しくて面白い事が自分を待っているのではないかという期待もあった。そんな懐かしい気持ちに浸ってから閉じた目を開けると、目の前に現れるのは記憶の中の日本とは異なった風景であり、子供の頃常に窓から見えていた山の代わりに平地が広がっている。自分があの時代とは違う土地にいることを、そこで思い知らされるのだった。

朝帰りのセクシープロフェッサー オクトーバーフェスト
 九月に入りオクトーバーフェストが近づいてくると、すでに民族衣装を着て友達と出歩くミュンヘンっ子、急遽衣装を購入し嬉々として身につけている観光客が増えてくる。期間前後にも関連したイベントがあちこちで開催されるのだ。男性は革の吊りズボンであるレーダーホーゼン、女性は胸元が開いた胴衣に白いブラウス・スカート・エプロンを合わせたディアンドルが基本型だ。この衣装はドイツ全体の民族衣装と思われる事が多いが実際はバイエルンや南ドイツのものなので、他の地域のドイツ人はそう思われるのを嫌がるときいた事がある。
 最近はモダンな色やデザインのものが売られていて、靴やバッグにアクセサリー、髪型まで全身をコーディネートして着こなしている人たちを通りで見かけると素敵だなと思う。年配の男性が半ズボンに膝当てのような靴下を履いて脚を出しているのもなんだか可愛らしい。女性も男性も骨格がしっかりあり立ち姿が堂々としているのでで決まるのだろうと思う。
 そんなある朝出勤のためにアパートの階段を降りると、自分の先に一人の女性が出て行くのが見えた。ピンクや赤色の混じる派手なディアンドル風ミニコスチュームにハイヒールを合わせ、肩に羽織っているのはハードな黒の革ジャン。異彩を放つ装飾的な日傘を手にしゃなりしゃなりと歩く、マリリンモンローみたいなプラチナブロンドの女性だった。年齢はそれほど若くなくて五十代後半か少し上といったところだろうか。長い脚を交差させるキャットウォーク風な歩き方といい真っ赤に塗られた唇といい、びっくりする程何もかも意識的に際立っていて、セクシーだった。
 こんな早朝に、こんな、カクテルに刺さってるみたいな派手なパラソルを差して歩いているなんて。
 私はすぐに、夜の女性だと思った。誰かが昨夜呼んだ女性が今帰っていくのだと。わあ、こんな身近に?そんなどこかの外国ドラマで見たようなシステムがドイツにもあるのね?いささか興奮気味に思った。
 彼女の通った後を歩くとムワッと濃厚なフレグランス香が残っていた。でも嫌いな香りじゃないな、と思う。ムスク系の香りで朝の清々しさとは合っていないが、一体どんな人間がつけているのだろうと人の興味をかきたてる香りだ。

 ーーその香りはふと別の香りを思い起こさせた。全く似ていない香りなので記憶からことさら強く抽出してみないといけない。そういえば私にはとても好きな、危険な香りがあったのだった。それが香水やコロンの類なのか、あるいは整髪料やボディソープの香りなのか実は全く知らない。ドイツで初めて遭遇した特定の香りだ。男性がまとっていて、時々道やスーパーマーケットで側を通り過ぎる人から漂ってくる。ほのかで爽やかなシトラス系といったところだろうか。鼻で捉えたら最後私はえも言われず高揚し、この芳香の最も濃厚な部分に顔を埋ずめ、鼻いっぱい胸一杯になるまで深く深く吸い込みたいという熱狂的な気持ちになってしまうのだった。衝動を抑えるのが大変だ。どんな時であれ一瞬にして神経を持っていかれ、その源を突き止めるべく周囲の男性を狂おしい表情で見比べながら立ちすくむことになる。それほど訴えかけてくるかぐわしい香りだった。ところが香りの主がわかったとしても知らない男性に突進して行くわけにはいかない。何の香りか尋ねるために話しかけることさえ、できていない。やむなく顔をそらし、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れるだけだった。
 この話を打ち明けたとき、夫は苛立った。私はこんな奇妙な嗜好を笑ってもらえるとばかり思っていたので意外だった。ちゃんとなんの香りか見つけてくれ、そうしたら僕がつけるからと言う。そしてしばらくしてから実はそんな香りが僕にもあると言った。女性のつけている香りで、それを嗅ぐとやはり顔を埋めて全てを吸い取りたい気分になるそうだ。それは困る、私は思った。そうか、だから私の話に憤慨したのは無理もなかったとそこで納得したのだった。
 あの人は匂いに敏感だった。その事を考えた。今はどこで、どんな香りを感じているんだろう。
 そんな思いは、カフェに着いてコーヒー豆の強い香りに満たされているうちに次第に薄れ、ついには消えて無くなっていった。

 その日勤務を終えてアパートに戻り部屋でフルートの練習をしていると、カルラが帰って来た音が聞こえた。ふと今朝の話をしてみたくなり、私はキッチンに行って彼女に合流した。
「今朝ね、夜の女性を見かけたの。すごく派手でパラソルをさしてたわ。このアパートでもそういう女性を呼ぶ人がいるのね?」
 一息に言ったらカルラは少しの間言葉を失ったように目を泳がせて考えていたが、ハッとした表情になり可笑しそうに、
「もしかしてそれって、階下に住んでいる女性じゃないかしら? かなり派手といえば派手。綺麗にしていて私は好きだけど。いつも革ジャン着てるわね」
「え? 住人だったの。知らなかったわ」
「そう、確か学校の先生をしてたんだと思ったわ。でももう六十歳過ぎていると思うし、勤めているかは分からないけど」
「え、もしかして下の階のドクターフィッシャーって表札の部屋?」
「そうそう。私一度荷物を預かってもらってたから取りに行ったんだけど、しどけない姿で出て来たからちょっとめまいがしたわ。ホルターネックのスリップ姿だったの」
「えー!」
 私が驚いた声を出し、二人で笑いあった。私たちはおしゃれで個性的な女性が大好きだ。セクシープロフェッサーは親切そうな感じだったわとカルラがいい、私は興味深く聞いた。彼女についてひとしきり盛り上がった話が収まると、カルラは
「そういえば、ジェリーにオクトーバーフェスタに行こうって誘われたの。チケットがあるって。あまり気が進まないんだけどね」
 と口をすぼめて少しだけ暗い顔をした。
「ジェリーには初めてなんでしょ? じゃあ二人でバイエルンの衣装着てノリノリで楽しんで来たらいいじゃない?」
 そうは言ったものの私も本音ではフェスト会場に行きたいと思わない。人混みや酔った人々、歓声や大音声の音楽が苦手なため、一度見学に行っただけで十分だと感じた。この時期は普段以上の観光客に加えスリ集団がやってくるというし、会場の警備は厳重になっているが毎年のように強姦や暴力事件のニュースをきく。地元のドイツ人でも仕事の飲み会以外ではまず行かない人も多い。フェストシーズンは騒がしくて嫌だ、どんちゃん騒ぎするために世界中から人を集める祭りなんて恥ずかしい、と嫌っている人もいる。しかし勿論、心待ちにして衣装を新調する人もいるし、ミュンヘンにやってくる電車内からすでに他人同士酒盛りを始めてる人がいたりと、ウキウキした空気がそこら中に満ちて活気溢れる時期でもある。人々が楽しそうに明るい顔をしているのを見るのは、心が和むものだ。

 そうしてオクトーバーフェストが終わると秋も徐々に深まってゆく。人々は内省的になり、あのどんちゃん騒ぎが嘘みたいに、今度はささやかながらも親密な温もりを求めたくなってくる。人恋しさのピークとなるクリスマスまで、その高まりは続く。木々が紅葉して目にも鮮やかな色を見せ始めると、その華やかさにもかかわらずもの寂しさが増してくるものだ。それはやはりこの紅葉の輝きがじきに色褪せ落ちてなくなってしまうと心の底で思って見るからだろうか。まるで桜の花のようだなと思う。

アナのこと
 ヨッヘンがレオの母親となるアナと知り合ったのは、トスカーナにあるホテルのパン&菓子部門で修行をしていた時だそうだ。彼女は一緒に修行した仲間の一人で、偶然にも同じミュンヘンから来ていたのだった。マチルデがある日そんな事を話してくれた。よその土地で若い者同士が長い時間を過ごして仲良くなり、内気なヨッヘンでも次第に打ち解けて開放的になれたのだろう。二人は付き合うようになったがドイツに戻った後一度別れてしまったという。しかしアナの妊娠が分かり、ヨッヘンは彼女に求婚したがアナは断ったそうだ。なぜなのかはマチルデにも分からないと言う。その後一緒にこそ暮らしていないがヨッヘンは息子の幼稚園の迎えや日常の世話を分担し、他のベーカリーで働くアナを支えて父としてできることをして来たようだ。
 アナの事は何度か見かけたことがある。ヨッヘンと話す為に店に来ることがあるからだ。年齢はヨッヘンと同じくらいの二十代後半。赤毛のショートヘアが可愛らしい女性で、胴体が丸々として肉付きが良い反面、手足が長くて細く顔が小さい。そのため太っているのか痩せているのか判断に迷う。ゆで卵に楊枝を刺したみたい、と私は彼女を見るたび密かに思った。肌が透けるように白く、モッツァレラチーズみたいに瑞々しく張り詰めた皮膚はすべすべで、そこに赤みを帯びたそばかすがたくさん浮いている。夏になるとそのそばかすが肩にも腕にも広がっているのが見えて何とも微笑ましい。
 そのソバカスが散った左腕には、大きな二つの意匠が目立つタトゥーが彫られていた。ハードロックだかヘビメタバンドのファンと聞いたのでそれと関係しているのかもしれない。絵柄の一つは肘のあたりに咲くゴツイ鎖に巻かれた青いバラで、その鎖は周囲に伸び、鎧の腕当てのように腕中を覆っていた。バラの青はターコイズに近い鮮明な色で、陰影を含めてかなり力強く描かれている。この透明感ある青と、アナの髪の燃えるような赤色のコントラストを見るたびに私は素敵だと思った。もう一つのタトゥーは上腕に、黒の細かい線でレースの透かし模様風に浮き立つよう描かれた蝶だった。鎖の青いバラもレースの蝶も、繊細というよりは迫力のある豪華さで、生命力に溢れたアナにピッタリ似合っている。ニコッと笑うときれいに揃った小さな上の歯の、歯茎までがのぞいて見えて、それがまた人懐っこい雰囲気だ。感じの良い女性だった。

ミライと占い
 今日はマチルデが休みを取るのでミライが勤務に入った。ミライは幼い頃トルコから家族でミュンヘンに越して来て育ち、今は市内の大学に通っている。ヒジャブをかぶって髪をすっぽりと覆っているが、そのヒジャブも服に合わせて色柄をコーディネイトしていてすごくおしゃれだ。クッキリした眉にびっしり生えたまつ毛。濃い顔立ちに浅黒い肌。小柄だがバランスがとれてスタイル良く、全てがキュッと締まっている。大きな目の中に浮かぶ、小粒のブラックパールと形容したくなる瞳はいつも潤っていて、私は目を合わせているとその複雑な濃淡の万華鏡に吸い込まれてしまいそうに感じた。そんなミライは、ランチ後の客が少ない時間帯にドイツの女性誌を取り出して私に見せにきた。
「ねえ見てこの占い。中国のものと西洋のものを掛け合わせたものらしいんだけど、すごく当たるのよ」
「へえ。ミライは何が当たったの?」
「あなたは外国に行ってそこで生涯を終えるでしょう、って。ね? 当たってるでしょ? アカリもやってみなさいよ」
 音がしそうなくらいニコッと大きな笑顔で私に雑誌を差し出す。言われて手に取ると、生年月日その他の質問に答えると前世やら未来やらを当てると書いてある。少し面倒に思ったが、若いミライと共通の話題がなくて手持ちぶたさだったこともありやってみることにした。
 結果を見て私は一瞬だけ絶句した。ミライがどれだった?と聞いてくるので口を結んだまま微笑んで指し示す。
「あなたは前世で悲しい別れを経験しています。現世でも同じように悲しい別れがあるでしょう、ですって。ねえアカリ、ちょっとがっかりね」
 ミライは少し慌てて言った。
「でもほら、まだ何か書いてあるわよ。えっと。しかしそれを跳ね返す力があなたにはあります。幸せをつかんで下さい。だって。そうよ、アカリは幸せになるって書いてあるわよ!」
 ちょっと違うと思ったが、そう願うわ、と笑って答えておいた。別に信じるも信じないもないけれど、よりによってなんでこんな占いなんだろう。私はちぇっ、と舌打ちしたい気分だった。
 でもまあしかし……。当たっていると、言えばそうなるのだろうか……。
 途端に灰色の雲が周囲を覆い始め、胸がザワザワとして息苦しくなってきた。荒くなった呼吸を自覚したのとほぼ同時に、一体どうしたというのだろう、頭の中に風が吹きすさぶような音がし始めた。その音はぐんぐんとボリュームを上げてあっという間に凄まじいまでの勢いになってくる。ひゅるひゅるゴウゴウと音を立てながら嵐となって渦巻き、頭の中で起きているとは信じがたいような大音声だ。ほんとうに耳を覆いたくなる位の暴風音でとてつもなくうるさいのに、そこから逃れられない。さらに増す、咆哮する風が引き起こす強力な振動と空気を切る音に、どこからともなく悲鳴に似た高音までが加わり始めた。キヤーンという金切り声がこの荒れ狂った風に恐怖の色をつけて、それが私の頭中いっぱいに広がっている。とにかくも驚くべき嵐だ。絶え間ない叫びだ。なんでこんなものが頭の中に発生したのだろう?私の頭はどうかしてしまったのだろうか?

 気づくと、それは工房の換気扇の音だった。換気扇のスイッチが入れられたのだった。大して大きな音でもないのに引き込まれるのは、それが色々な音を含んでいるせいだろうか。普段は無視できるのにふと無防備な時に侵入して心をかき乱す音。フルートの高音がピヒャーっと力任せに吹かれた時の耳をつんざく音も微かに混じっているし、土砂降り雨の音もするし、誰かの話し声、嘲笑、ドアの開閉音、何かを引きずる音も混じっている。今までに耳にしてきたありとあらゆる音が含まれている気がする。
 
 ーーあの人が、私を愛情持って呼びかけていた頃の呼び声も聞こえるだろうか。
耳を澄ましてみたが、それらしきものを捉えることはできなかった。

下まつげとライオンの行進
 今日はレオに会いに行く約束をヨッヘンとしている。なんでもレオがどうしても私に会ってみたいと言っているのでお茶に来て欲しいと招待されたのだ。きっと片思いの日本人クラスメートのせいで日本への関心が高まっているのだろうが、私は単純に嬉しくて、急ではあったけれどオッケーした。ヨッヘンとは携帯のメッセージを交換をするようになっていて、昨晩恐る恐るという感じにレオに会う事を提案されたのだった。出かける準備の前にカルラに報告しようと思ったら洗面所らしい。ドアが少し空いたままなので、必要なら入ってもよしのサインだ。ノックしてから入り、カルラにそのことを話すと、
「あら、単に日本人に会いたいからだなんて失礼しちゃうわね。私だったら断るわ」
 と言ったが、まあ気にはしない。日本人はここミュンヘンにイタリア人ほど沢山いないのだ。私はできるだけ感じ良くして日本を更に好きになってもらおう、などと多少気負っていた。日本人の女の子に恋をしたなんて、私までがこそばゆく嬉しい。
 カルラはジェリーと食事に行く支度をしていた。と言ってもごくシンプルで、私が話をしながら眺めているうちにパウダーをはたいて下まつげにマスカラをつけて、あっという間に終わってしまった。
 洗面所は女性が二人住んでいる割にスッキリしていると思う。小ぶりな引き出し一つずつに各自の化粧品は収まってしまう。壁にはカルラの洗顔クロスと、私のパック用シリコンマスクが下がっている。バスタブの周りにも共有しているボディソープ一つしか置いていない。
 カルラのメイクに見とれながら、
「下まつげにしかマスカラは塗らないの?」
 ときいてみた。
「そうよ。バランスをとってるだけなの」
 と言って大きな目を更に大きく私の方にパチパチまたたいて見せた。確かにぎっしり生えた上のまつげはマスカラなどいらないように見える。しかしそのお陰で目の上の輪郭が強すぎて下が弱いのだろう。そこで下まつげにマスカラをちょんちょんと付けて力を加えると確かに、しなやかに美しい目がキリッと顔から浮かび上がり、更に大きく印象的に見えるのだった。感心して見ているとカルラは、
「何よ?」
 と笑っている。そこで以前から思っていたことを言ってみた。
「カルラはたとえ目の下にクマができても似合うわよね。美人だもの。私の考える美しい人の条件はね、男女を問わず目の下のクマが似合う事なの。ただ可愛いタイプの人だったら疲れて衰えて見えるだけ。でも本当に美しい人には箔が付くというか、荘厳さが加わったり凄みが出たりしてある意味ますます美しくなるのよ」
「何それ?」
 カルラは呆れた様子で肩をすくめた。まあ分からなくていいのだ。美しく生まれてきた人は自分の外見を素直に受け入れやすいため、容姿に頓着しない人が多いように見える。多少の不満があったとしても決定的にはなり得ないだろう。私がするみたいに他人の美しさを観察したり分析したりもまずしないだろう。
 その後、どこから見ても申し分なく凡庸な私も支度をし、昼をすぎてから勤務先に行ってヨッヘンと落ち合った。ヨッヘンも私も今日は非番だ。レオとアナが住むアパートはここから自転車で十五分くらいの場所にあるらしい。アナのパン屋は土曜も終日オープンしているので、ヨッヘンはアナと相談しながら勤務を調整して片方がレオと過ごせるようにしているとのことだった。
 サマータイム時間が続いていて日は高く、今日はまた夏の陽気がぶり返している。レオを一人で待たせているので私たちは日差しをさんさんと浴びながらなるべく急いで自転車を漕ぎアパートまでやってきた。
 ベルを鳴らすと子供らしい「ヤー、パパ?」と言う声がして入口が解錠された。階段を上がって行くとすぐ突き当たりの部屋のドアが内側に開く。ヨッヘンに促されて私が先に足を踏み入れると小型の真っ黒な犬が勢いよく飛び出して来たのでびっくりしてしまった。その犬は吠えはせず、ただただ鼻息荒く興奮して何度もジャンプしては鞠のように軽く私に飛びかかってくる。黒い毛が体中を覆い、顔の、特に眉や耳や口の周囲はフサフサの毛だらけで、まるで美容院の床に落ちた大量の髪の毛をかき集めて作り上げた新種の生き物みたいだった。そこにドアをひいて後ろから支えていたレオが出て来て、私たちは自己紹介と挨拶を交わした。レオは慣れた手つきで犬を腕に抱きとると、犬はテリアで名前はレオンだと教えてくれた。
 「レオとレオンだから紛らわしいんだよ。レオ、レオンと一緒にアカリにアパートを見せてあげたらどう?」
 ヨッヘンが言うとレオは私を見上げながらニコリと頷いた。ヨッヘンは汗だくになってしまったからちょっと失礼、と言って肘を掻きながらシャワーを浴びに行った。
 レオは五歳になったばかり。照れ臭いのか犬を撫でつつ体をゆらゆら左右に動かしながら立ち、辺りを見回す私を好奇に満ちた瞳で観察している。オレンジやターコイズ色が入った細い縞模様の半袖Tシャツに、ジーンズを履いている。金髪に近く明るい色をした髪は少し伸びすぎていて邪魔そうだった。下を向いたりさっと横を向くだけで長い前髪が目に覆いかぶさるのを、その都度小さな手で振り払っている。そうしながら多少緊張気味に、しかし笑顔を絶やさないで私を見る様子がかわいかった。
「レオは幼稚園に行ってるんですって?」
 きくと、
「そう。ママと。ママと幼稚園に行ってバイバイしてパパと、帰ってくるんだよ」
 中途半端なところで間をおきながらも、いかに自分にとって正確に返事をしようか、一言一言考えながらの調子で一息に話した。私は続けて何か訊いてみようと思ったが、体を揺らしながら立っているレオがまるで捕らえられた小鳥みたいに見えたので、やめにして早速アパートを見せてもらうことにした。
 先に立ってアパートの案内をするレオの様子はかなりしっかりした印象だ。少なくともこの年の私にこんな事は出来なかったなと思う。アパートはこじんまりとして白と木目が特徴の感じ良い住まいだった。アナはヘビメタファンと聞いたのでもっと全然違った住まいを想像していたが、キッチン兼リビングの壁には古い時代のケーキ型やパン焼き道具、調理器具などが装飾として飾られている。レオの部屋にくると、
「ねえ、見てこれパパが描いたんだよ」
 と壁の絵を指して見せられた。
「え、パパって、ヨッヘン?」
 私はつい大きな声を出した。当たり前のことを聞き返してしまったのだが、レオは誇らしそうに「ヤー」と微笑んでウンウン頷く。ヨッヘンが絵を描くと確かに聞いてはいたのに漠然としか理解していなかったことに私は気づいた。だから実際の絵を見て胸を突かれたのだ。どんな絵ならば意外でなかったのかはわからない。ただ具体的なイメージが全く浮かばなかったとしか言いようがない。
 それは草木が生い茂る田園風景を描いたものだった。季節は秋を思わせる。一見して筆致に独特な調子があって、画の中にその特徴が凝縮されたかのような、風景画にしては個性が感じられる絵だった。最初の衝撃が軽く収まって更にじっと見つめていると、次第に柔らかな繊細さと優しい躍動感が目に入ってくる。大地に根ざす自然と、そこに入り込んで共に生きる小さな人間の営みが調和する田園の一風景が、少し枯れかけたような草色の淡いトーンで表現されていた。色や形が流れるように勢いあるタッチで描かれ、まるで画面の上で全てが微かに動いて生きているかのようにも見えた。黄金色に覆われた畑の周りに草木がそよぎ、静けさをより深めている。遠くに見える農家の納屋、その周囲に木の生い茂った様子。全てがただそこに存在し互いがそよいで調和して、ひたすらシーンと美しかった。そこには確かにこの世界が存在していることを感じられる、見れば見るほど静かに心惹かれる絵だ。もしも私がこの風景を実際に車窓や写真で見ても見過ごしていただろう。こんな風に胸を打つ景色ではないだろうと思う。実際の風景とこの絵の関係はそれほど大きくないかもしれない。画家の目で捉えて表現された風景は、もうその画家の作品としか呼べないものだった。
 絵は油絵の具で塗られているがキャンバス上の絵の具はとても薄く、筆の跡もないしギラついた反射もない。現実のランドスケープがヨッヘンの内面で消化されるとこんな風に洗練された情景になるのだ……。私は意外さと作品の持つ力に打たれて、しばらくの間絵の前に佇んで隅々まで見入った。
 気づくとレオはそんな私を辛抱強く側で見守っていた。私は我に返り周囲を見回した。部屋にはその他に日本語の挨拶言葉が書かれたポスターのようなものがある。
「日本語ね?」
「うん」
 しかしレオはそれ以上言わず、照れくさそうにそそくさと私を自分の部屋から外に誘導し、私たちはリビングルームに戻った。それから、
「何か飲む?」
 親切にも私に飲み物を勧めてくれた。
「ママが作ったケーゼトルテがあるんだよ。皆んなで食べてって。食べるよね?」
「わあ嬉しい、喜んで。じゃあ一緒にお茶の準備をしましょうか」
 私はレオが指差す冷蔵庫を開けてケーキを見つけ、尋ねながら食器棚を開けてお皿も出した。レオはフォークや紙ナプキンを出したりとまめまめしく手伝ってくれる。湯沸かしに水を入れてお茶の準備はあらかたできたがヨッヘンがまだ来ない。そこでなんとなく周囲を見回すと、片隅に、薄い茶色の木目のアップライトピアノがあるのに目が止まった。周囲の木調の家具たちに程よく馴染んで影がうすいが、れっきとした楽器だった。きくとレオの亡くなった叔母さんのものだったそうだ。しかし今は家族の誰もピアノを弾かないらしい。レオも触って遊んだりしないというのでピアノが少し気の毒になった。じゃあ私が触ってもいいかな?一緒に弾いてみる?と音を出していい時間か時計を確認してから尋ねると、レオはちょっと不思議そうな顔をして前髪の隙間から私の顔を見上げながら、うん、と頷いた。
 私は古ぼけたピアノの蓋を開け、ピアノの前に置かれた長椅子に座って両手を鍵盤に乗せた。鍵盤は埃っぽく、黄ばんで薄くなった塗料の下から木目が現れてきており、表面もボヨボヨとむくんだ状態だった。とりあえずざっと全ての音を押してみたが、左手の真ん中のミが鳴らなくて代わりにスカスカ変な摩擦音を発したり、他にもタッチのおかしな音がいくつかあった。明らかに調律もされていない様子だが大体の音は出る。そこでレオを呼んで横に座らせた。
「一緒にマーチを弾こうか。『ライオン王の行進』っていう曲があるの。王様ライオンが行進するのよ。レオの名前はライオンって意味だったわよね? どう?」
 レオが頷くのを見てから、
「じゃあ左手でこの音とこの音を同時に押して、勇ましいライオンが堂々と行進している様子を想像して弾いてみて。ほらこんな風に。ダーンダンダン、ダーンダンダン。力強く」
 レオの小さな指の上から自分の指を重ね、気をつけて優しく押しながら一緒に数回弾いた後、今度は支えを離して同じテンポで弾けるようになるまで一人で練習させた。レオは音を出すのが楽しいようで「ダーン!」と言いながら機嫌よく鍵盤を叩き続けている。
「そうその調子、そのまま続けて」
 そう言いながら私はレオが力一杯刻む大太鼓のようなリズムに合わせて右手のメロディーを弾き始めた。どこか異国的に響く魅力的な調べが、重々しい伴奏に軽やかに乗る。この曲は幼稚園の時に弾き、ライオン王の行進するイメージと共に想像が膨らんでワクワクさせられたものだった。レオも自分の伴奏に旋律が乗ったのが楽しいらしく、興奮しながら更に力を込めて鍵盤を押している。
「そう、ライオンらしく、堂々と、レオはライオンなんだから、ガオ~!」
 二人で「ライオン王の行進」を弾いた。シンプルなメロディーの繰り返しを何度か続けて私が弾き終えても、レオはまだ「ダーンダンダン!」と言いながら弾いている。そこで続けてもう一度弾き、さらに適当な装飾をつけまた頭から繰り返した。それでもやめないので、後はもうレオの伴奏に合わせて適当な旋律を弾き続けることに決めた。
「ダーンダンダン!」
 レオはノリに乗って椅子から飛び降り、ピアノを叩きながら足踏みしたりジャンプするせいで指が外れてしまい、一度は音の位置を見失って私が直さなくてはならなかった。
 そうやって賑やかに弾いているところにヨッヘンがやって来た。白いTシャツとジーパンへ着替えてこざっぱりした様子だ。私たちと目が合うと「やめないで!」というジェスチャーをしてから、携帯のカメラを取り出して写真をとっている。私はそろそろ弾くメロディのアイディアが尽きて飽きてきていたので、レオの肩を叩いて次が最後よ、と合図をしてから、一緒にライオンの行進を通して弾いて終わりにした。ヨッヘンが盛大に拍手をする。
「レオ、ピアノが弾けるじゃないか!」
「うん、アカリが教えてくれたよ。僕はもうピアノが弾けるんだ」
 得意そうに大きく首を上下しながらレオは答えた。私はテーブルに出したままになっているチーズケーキが気になってきていたので、そちらに向かって笑顔で二人を促した。ヨッヘンがカモミールティーを入れ、私たちは三人でお茶を飲んだ。
「僕もね、実は昔々数ヶ月だけピアノを習ったことがあるんだよ」
 ヨッヘンが言った。
「ベートーヴェンの『月光』が弾けるようになりたくてね」
「あらその話、どこかで聞いたことがあるわ」
 私は可笑しくなってカルラの話を紹介した。ヨッヘンの場合は先生はいい人だったが『月光』にたどり着くにはそれなりの年月が必要だと実感してがっかりし、ピアノの良さを理解する前にスケッチなど絵を描く事に夢中になって辞めてしまったそうだ。
 レオは私たちの話を嬉しそうに聞いて頷きながら自分が飲むお茶の準備をしている。蜂蜜はポットからすくってこぼさないように慎重にティーカップの中に垂らし、小さなスプーンで静かに何度もぐるぐるとかき混ぜる。そのスプーンをソーサーの上にゆっくりと置き一口飲んで甘さに満足した後、チーズケーキに取り掛かったが、その綺麗に食べる様子を見て私は感心してしまった。口に入る分だけカットするためにゆっくりとフォークを下へおろし、切り離された一切れをそっとすくって口に運ぶ。下ろしたフォークがお皿でガチャンと音を立てないように、口に運ぶ際に落としたりしないように、配慮しているように見えた。小さい子供と思えないくらい繊細で丁寧な動きだ。慎重だがスムーズで、一口食べるごとにちゃんと味わっているようでもある。そうヨッヘンに言うと、
「そうなんだよ。この子は小さなグルメボーイなんだよ」
 と微笑みながら言った。レオはそれを聞いてニコニコまた自分で頷いている。どうやらすぐ頷くのがレオの癖らしい。笑顔とセットでとても好感が持てる。
「僕は味がよくわかるんだ。子供だから大人より更によくわかるんだって。でもちゃんと感じる為には誰でも丁寧に食べないといけないってママが教えてくれたんだ。前に見た映画でね、プリンを食べるのが大好きな女の子がいたの。でもそれは嘘なんだよ。だってお母さんが毎日大きなプリンを用意してくれて彼女は毎日大好きなプリンを食べることができるのに、食べ方がものすごくガツガツしてるんだ。プリンを前に席に着いたらすぐにスプーンでぐちゃぐちゃって刺して崩して、そしてあっという間に平らげちゃうんだ。本当に好きだったらゆっくり食べる筈なんだよ」
「なるほどね」
 私はもっともだと思ってそう言った。本当に好きなものだったら慈しみながら丁寧に食べるべきなんだわ。
 ふと近くの棚にアンティークと思われる乳鉢と乳棒が飾ってあるのが目に止まった。金属でできている。
「この器具、金属製のものは珍しくない? 初めて見たわ」
 私がいうとヨッヘンは、
「そうだね。薬局や実験でも使うし素材は陶器だけじゃないみたいだよ。これはアンティークだけどね。アナはものが使われて年月を経て古くなった時の形や質感が好きなんだ」
「とてもいい味があるわよね」
「僕も好きなんだよ」
 レオも口を挟む。そこでそろそろ頃合いかと思い、
「レオ、日本語を勉強してるんですって? 何か私に質問はある?」
 ときいてみた。レオは途端にはにかむように肩を大きく落として首を横に傾げ、え〜と……ともじもじし始めた。しかしすぐに心を決めた様子で、
「うん、日本人の女の子と友達になるにはどうしたらいいの?」
 言ってしまってから恥ずかしさに顔をしかめ、両手を使って目を隠すように一瞬覆ってから、指に隙間を作って私を上目遣いでそっと見た。しかしその手もすぐバタンと下に落として、私の反応を待っている。私は考えながらゆっくりと言った。
「友達になる方法? それは日本人かどうかは関係ないんじゃないかしら。普段レオは誰かとどうやって友達になるの?」
「わからないよ。気がつくと友達になってるんだ。誰かと友達になろうって思ってなったことは今までないんだ。だけどモモとは友達になりたいの。でもどうすればいいのかわからないんだよ」
「そう、モモちゃんていうのね。で、レオは日本語の挨拶を覚えたんでしょ? それを使って話しかけてみたら? 朝会ったらおはよーって言ってみるとか」
「それって自然な日本語なの? おかしくない? いきなり言って気持ち悪いと思われないかな」
 うえ〜、と気持ち悪くて床に吐く真似をしてみせながらレオは言った。
「まあ彼女の反応は私にもわからないわね。でも私だったら嬉しいけどね」
「そう? アカリだったら嬉しい?」
 パアッと顔を輝かせる。
「ええ、嬉しいわ。他の子達がからかってきたとしても気にしないで堂々としていればいいわよ」
 レオはこちらの方に首を伸ばして、まるで自分の可愛い歯を見せつけようとしているかのように笑顔で身を寄せながら、声を大きくした。
「じゃあ僕、おはよーって言ってみるよ。おはよーおはよー。練習しなくちゃ!」
 私は微笑んで頷いてみせながら、モモちゃんが良い反応を返してくれるといいな、と心から思った。
「自分に興味を示してくれるのは嬉しいから、モモちゃんに色々質問してみるのも良いんじゃないかな。なんでモモって名前なのとか、いつもどんなご飯食べてるの、とかなんでもきいてみたら?」
「そうだね。そうしたら話ができるね!」
 レオはそんないい考えを初めて知ったといわんばかりに相変わらず興奮気味にうんうん頷いている。私は少々気恥ずかしくなり、また嬉しかった。

 それぞれがケーキを食べ終え二、三杯のお茶を飲んだ後、ヨッヘンが、
「アカリありがとう、今日はレオに会いにきてくれて」
と改めて礼を言って私に帰るきっかけを与えてくれた。私はいいえとかぶりを振りつつ、ソロソロといとまの準備を始めることにした。すぐさまレオが察して、
「え、もう帰るの? まだいても良いんだよ、ねえパパ? ケーキもあるし日本語の本もあるよ。ねえパパ?」
 ヨッヘンをせっついて私にもう少し居て欲しいようだ。しかしヨッヘンは、
「今日はこれまで。もしもまた機会があったら来てもらおうね。それまでにレオも日本語で何か言えるようにしておいたら?」
 レオは悲しい顔つきになって口を固く閉じ、上半身をテーブルの上ににガバッと突っ伏した。そして少しの間左手でテーブルの縁を撫でながら怒ったように口を尖らせていたが、
「わかった」
 ポツリと言った。私はそんなレオの背中をそっと撫でながら、
「また会いましょうね」
 とまんざら社交辞令でもなく言った。
 
 その後は自転車を漕いでアパートにまっすぐ戻った。帰宅後も、人に会って時間を過ごした後の自分にしては珍しく疲れていない。普段だったら部屋着に着替えてすぐに座り込んでしまうところだ。その代わりに気分が良く、近いうちに嬉しい予定でも入ったかのような甘くふんわりした気持ちに満たされていた。子供に力をもらったのかもしれない。あるいはドイツに住んでドイツ人の知人に会いに行くなんていう健全な過ごし方をしたから、自分でもその充実ぶりに満足しているのかも知れないな、と皮肉に考えてみたりした。
 その後実際のところ、毎週のように土曜の午後をレオとヨッヘンと共に過ごすようになるとは、夢にも思っていなかった。

#創作大賞2024

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