見出し画像

「僕はそうは思わないな」と言える人間関係だけを抱えて生きていきたい

誰かが言ってることに「私の意見とは違うね」って言える?

私は、言えなかった。

もしかしたらそもそも、「私の意見」なんて、なかったのかもしれない。

「NO」とか「好き」とかは言う。

でも相手の意見に対して「私は違う」ということはしなかった。


学生時代は「絶対こうだと思う!!」って自信をもって言うタイプではなかった。

「私はこう思うな」という気持ちがあっても、誰かが「自分はこっちだと思う!」と言っていれば「あ~そういう見方もあるよね、確かに。わかるかも~」と別の意見も割とすんなり受け入れる。

私以外の誰かの意思が形を成す器なら、どんな形に変わっても苦ではない水のような意思を持っていたと思う。

別にこれは卑屈でもなく、「素直である」という自分の長所だと思っていた。

なんなら今も、「私ってこんな齢になってもあらゆる意見に耳を傾けられてなんて柔軟な人間なのだろう」と自画自賛してしまうくらい、素直な自分が好きだったりする。

なので誰かが「これは白に塗るべきだ」と言っていれば「あ~それもいいね~」と相槌したし、別の誰かが「いや、そもそも塗る必要なんかない」と言えば「うんうん、そういう考え方もあるよね~」と、主に同調するパターンが多かった。

共感と同調だけの関係性は、ぬるく心地よく、安心感がある。

どちらかというと「私は赤だと思う。なぜならこういう理由だから」と自分の立場を明確にすることで、誰かと対立するのが面倒だと感じていたかもしれない。また、「なぜならこういう理由だから」という、理由付けを考えるのすら、面倒だったというずぼらな側面もあった。

私がまだ20代前半だった頃、商談で、「僕はそうは思いません。なぜなら…」と、さらりと言ってのける人と話す機会があった。

そのスマートで嫌みがない、対等な世界に、少し感動したのをいまでも覚えている。



先日、英語のラジオを聴いているときに、「I don't think so. I think...(私はそうは思わないよ、私はこう思う…)」と、穏やかに対話している声を聴いた。

(英語ってそういう表現がストレートで嫌味がないよね。ディベート慣れしているイメージ)

そのとき、「あ、そうだった、これが私が今欲しい、対等な対話だ」と思い出した。

相手に対し「あなたと私は意見が違うね」と伝えることは、少し勇気がいる。

でも、私はそれを言える関係性を大事にしたいんだな、とようやく気付いた。


私が学生だった頃「空気読む」のが流行ったし、友達とは「気が合う」ことが大事だった。

でも大人になった今、「私はそうは思わないかも。どっちかというと、こう思う。なぜなら…」と伝えられることは、より心地よいことに気づく。


今、私の周りにいる人たちは、「あ、あなたはそれ好きなんだね、私は好きじゃないけど。」とさらっといえる人たち。

「私はそうは思わない。こう思うよ」と私が安心して伝えられる人たち。

忖度とか、機嫌を損ねてしまったらどうしよう、そういう次元でまごつかなくてもいい人たち。

この「意見が食い違ってもお互いを尊重できる」そんな関係性だけ大切にして、これからも生きていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?