『明月記』の原本を観てきた その1 慈円入滅の記事

 先日東博の常設展でやっていた、「藤原定家―『明月記』とその書―」特集を観てきた。ちょうど村井康彦『藤原定家『明月記』の世界』(岩波新書)を読んでいたので、古代メキシコ展そっちのけで大興奮で釘付けになっていた。「平成館混んでるから本館ちらっと覗いてくるか~」という安易な気持ちで常設展を覗いてはいけないのだ。
 さいきんの展示は親切で、私のように草書やくずし字に通達していない者にもQRコードを読み取って翻刻を確認出来たりするのだが、翻刻があるのは残念ながら東博所蔵の断簡や軸装の書状に限られていたので、ガラスケースに食らいついて分からないなりに『明月記』を解読していた。その中から気になった記事を数点、翻刻を掲げながら紹介してみようと思う。

『明月記』慈円入滅の記事

十日、朝天清明、時雨乍晴灑、風寒、夜前戌時前大僧正[慈ー(円)]、遂遷化給[今年七十一云々]。三塔識物由者、悲涙如喪父母[云々]、傍家又成歓喜歟。法性寺禅閣(藤原忠実)之最末息、後法性寺禅閣(九条兼実)之一腹、長于台嶺之密宗、其行法勇猛精進也。建久三年補ー(任)天台座主、同七年辞退[依博陸籠居也]、其後四度還補、毎度辞退。園城寺実慶僧正他界之後、補天王寺別当。自三ケ年以来居住東坂本、去七月有祈願之旨、被奉造八王子三宮御体[云々]。今月朔之比忽祈願之偈、示付三塔之浄侶、被祈速疾遷化事。自其間所悩…後聞、正念無違乱、自他唱釈迦宝号、北首西面臥給。其日奉請法親王、入夜…

『明月記』嘉禄元年九月二十五日(?)条

 後期展示の劈頭を飾るのは慈円円寂の記事。原本も、翻刻のため参照した『明月記 第三』(国書刊行会、1912)にも安貞元年(嘉禄三年、1227)六月十日の記事として立項されているが、『慈鎮和尚伝』によれば慈円の入滅は嘉禄元年(1225)九月二十五日である。現在最も信頼できるテキストである冷泉家時雨亭叢書本を参照していないので何とも言えないが、記事本文を見ると「夜前戌時…」「今月朔之比…」とあるから、もともとは嘉禄元年九月二十五日条であったか。貼り継いだ際の錯簡と思われる。「自其間所悩…」以下も別記事のものである。

 慈円は定家が家司として仕えた九条兼実の実弟に当たり、和歌を通して深い交流を持っていた。享年七十一歳。慈円の業績について定家は「三塔の道理を知る者は父母を喪ったように悲涙した」「台嶺の密宗に長じ、その行法は勇猛精進であった」と伝える。建久三年(1192)に天台座主に任じられたが、建久七年(1196)に兄・九条兼実の失脚(建久七年の政変)によって座主を退く。その後四度還任されたが、毎度辞退した。
 「今月朔日のころ、急に祈願の偈を比叡山三塔の清僧に送り、すみやかに遷化することを祈らせられた」とあるのが気になった。残念ながらこの後は脱文があるが、『慈鎮和尚伝』によれば、病が重り、もはや死は避けられない。その時に及んで厭離穢土・欣求菩提の志はいよいよ増したため、銅銭十万枚(十貫)を十人の僧侶に賜り、病が重くならないよう、七日のうちに速やかに遷化を遂げ、所願が成就するよう三塔の本尊・七所権現に祈らせたのだという。
 この背景には源信の『往生要集』以来、社会一般にひろまった臨終正念の思想があった。臨終の一念によって次生の処が定まるから、苦痛で心が乱れないうちに遷化を遂げようと願ったのである。自他共に釈迦の法号を唱えたというのは天台の説く寂光浄土への往生を願ったものだろうか。
『明月記』同記事の上方にも「後聞、正念無違乱、自他唱釈迦宝号、北首西面臥給」との書き入れがあるから、慈円はその願い通りに違乱無く臨終を迎えたのだろう。

 長くなりすぎたので数回に分ける。気がむいたらまた投稿します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?