貞慶『法相初心略要』現代語訳(五)阿頼耶識の認識対象、我法二空について

凡例

  • 底本としては『大日本仏教全書』第八〇巻(仏書刊行会、1915)を用い、訓点や文意の確認のため適宜京大所蔵本を参照した。

  • ()は補足、[]は文意を補うための補足で、いずれも筆者の挿入である。

  • 〈〉は原文中の注や割書を示す。

心が対象を認識する時の表象(行相)の事

 『[成]唯識論』に云く、「[確かに、外界に物質的存在は実在せず、認識対象とはならないだろう。しかし、他者の心は実在するだろう。どうして実在する他者の心を認識対象としないことがあろうか。]
[答える。誰が他者の心は認識対象とはならないと言ったのか。但だ、それは自分の識の直接的な知覚対象(親所縁)とはならない説くのである。]
 というのは、認識が生じる時、実の作用は無いからである。[正量部が説くように][手]などが直接外の物を取るように知覚したり、[ヴァイシェーシカ学派が言うように]太陽の光が伸びて直接外境(場所)を照らして認識するものでもない。但だ、鏡などが認識対象に似て[対象の影像を]映し出す[ように、自分の心の中に他者の心が相分として現象する]。他者の心を認識するとは、直接認識するのではない。[直接的な認識対象となるのは、自分の識の相分である]」〈以上、引用。〉

第八識には三種類の認識対象があるということ

 [第八阿頼耶識の対象となる三種類の認識対象とは、]
一、 種子
二、 五根(眼・耳・鼻・舌・身根)
三、 器界(環境世界)
[の三つである。]

 (一)初めの種子とは、あらゆる存在の種である。世界に有る所の穀・麦などの種は[第八識によって生み出される外種であって]実種ではない。実種とは、物質的存在と心のあらゆる存在の原因(色心諸法習気)である。第八識がこれを保持し、認識対象ともする。
 (二)次に五根とは、実際に認識作用を持つ認識器官(正根)のことである。聖教に説くところの眼耳鼻舌身である。眼に見える眼・耳などはいろや声や香りや感触[の対象]に摂められるもので、扶[塵]根と名づけられる。正根のすがたは極めて知り難い[ため、色法ではあるが五識の認識対象とはならない]。[地・水・火・風という]四種類の要素によって形成される、鏡のように対象を映し出す物質(四大所造清浄色法)である[1]。譬えば、宝珠の光[が自身の浄らかさによって対象を照らし出すこと]のようなものである。
 (三)次に器界とは、山河・大地・草木・舎宅・衣服など[の環境世界]である。上述するところの扶[塵]根も[他者や自身が見たり触れたりできる物質であるため]また器界に摂められる。また、[扶塵根はまた]五根にも摂められる〈後義が一般的な解釈か〉。

第八識が有為法の根本であること

 第八識[の種子]が三種類の認識対象となって変化して、三種類の認識対象の中にすべての現象の原因(一切有為諸法種)と、有情の体[である認識器官、]正根と扶[塵]根と、有情の住処である山河大地などをすべて摂めるから、第八識は現象世界(有為法)の根本なのである。

我法二空の事

我空

 先ず、我空について。「我」とは生物(有情)のことである。有情とは、五つの集まり(五蘊)を言う。五蘊とは、色・受・想・行・識のことである。

五蘊

 色とは、地・水・火・風[という四要素]、いろ・声・香り・味・感触[という五つの認識対象]、眼・耳・鼻・舌・身[という五つの認識器官]など[の物質的存在]である。
 受とは、八つの識と相応する受の心所である。つまり、さまざまな認識対象を[苦・楽・捨(どちらでもない)という感覚的感受と憂・喜・捨という感情的感受として]領納する心である。
 想とは、八つの識と相応する想の心所である。つまり、[感受した]対象の形を取って[言葉となる以前の]さまざまな言を起こす(概念化する)心である。
 行とは、上記の二つを除くその他全ての心所と、識と相応しない、心でも心作用でも物質でもない[心と色との差別によって仮に顕示される、生命や同一性、時間や数、音節や単語や文章などといった]法である。しかし、意思(思)の心所を以って主とする。
 識とは、八つの識、[心所に対する]心王である。つまり、眼識・耳識から[鼻識・舌識・身識・意識・末那識]阿頼耶識に至る[八つの識]のことである。
 今、この五蘊の外に有情のあり方は全く存在しないので、唯だ法のみ有って有情の本質(我)は無い。此の無我の道理を生空真如と名づける。[声聞・縁覚の]二乗はこの道理を証得して煩悩を断ち切り、[阿羅漢・独覚といった]果を証するのである〈以上、人無我〉。

法無我(法空)

(以下、存在一つ一つについて分析を進め、どんなものでも直接的原因(因)と間接的原因(縁)によって成立しており、本質がないという意味で空であること(析空観)に基づいて法無我を説明する。)

 次に、法無我とは、五蘊などの法[に本質が存在しないということ]である。[五蘊については]既に上述した通りである。
 [法無我について]仮に家を例に考えると、此の家のあり方は、草・木・土・鉄など[で形成されているもの]であるが、棟・梁・椽・柱などがそれを相扶けている。[それら]一つ一つについて思いを致せ[ば]、互いに縁となっている[ことがわかるだろう]。また、惣じては大地を縁として、また人の力も縁となっている[2]。惣といい、別といい、縁によって生じていないものは無い。縁によって生じているが故に自ら存在しているわけではない。自ら存在しているわけではないから、実在ではない。実在では無いが故に本来空寂である。どうして実在する家があろうか。[家が]破壊され終わって(無くなって)始めて空があるのでは無い。[つまり、有が無いという意味での空ではなく]、破壊されずとも、あり方や性質としてこのように空寂(自性空)なのである〈以上、空屋宅〉。

 次に、一本の梁木に付いて観察すると、この木のあり方は四塵四大[という極微、微細で眼に見えない物質の一セットが集まること]によって形成されている。四塵とは、[四大によって形成される]色・香・味・触であり、四大とは地・水・火・風[という四要素のことである][3]。一本の梁木の中にこれらが備わっている。[梁木の]一つ一つについて考察せよ。もし分析して行っても極微に至り、皆な四塵四大によって形成されていると分かるだろう。[そうすれば、]どうして家がさまざまな縁がより合って成立しているのと異なろうか。これによって[あり方としての]空という意味は知り易いだろう〈以上、空一梁木〉。

 次に、一つの色塵に付いて観察すると、この一つの塵には能造と所造と[の面]が有る。所造とはつまりこの一塵のことである。能造とは地・水・火・風のことである。故に所造の塵は能造の縁によって成立している。今この能造・所造、更に極微が[発生する]直接的原因であるものは種子であり、阿頼耶識によって保持される。
 [間接的原因である縁についていえば]増上縁はそのあり方としては[四縁の中で]最も広く、あるものが現象するにあたって間接的原因としての作用を持つもの(与力増上縁)と、その現象を妨げないという意味で間接的な条件となるもの(不障増上縁)はすべて増上縁となる。つまり、この一つの塵にも与力・不障増上縁となるすべてが縁となるのである。故に、一つの色塵を一つの色塵をとってもまた、さまざまな縁によって成立していることがわかる〈以上、空光〉。
 
 次に、一つの種子に付いて観察すると、今この種子は現行によって熏習(経験や行為の余勢が種子として阿頼耶識に熏じ付けられること)される。現行とは、[種子が縁に触れて現象する]有為の諸法、すなわち物質や心などである。これらの法が[一刹那の間に]滅する時、その気分(影響力)を留めるが、その気分を種子という。故に種子はまた縁によって生じているのである。[なぜならば]現行を縁として[熏習されて]いるからである。その現行もまた[種子を直接的原因として更に]縁によって生じているのである。
 色法[が現象するため]には[因縁と増上縁との]二縁を必要とし、心法には[因縁・等無間縁・所縁縁・増上縁という]四縁を必要とする。

四縁

 因縁とは、すなわち種子のことである。
 等無間縁とは、すなわち一刹那前[に滅した眼識ならば眼識の、同じ種類の]心(前念心)[が滅することによって次の刹那の心を招引すること]である。
 所縁縁とは、すなわち心の認識対象となるもの(境)のことである。
 増上縁とは、すなわち与力・不障となるすべての法である。
 
 故に、皆なさまざまな縁に依って生じているのである。どんなものでも法として[自性]空でないものはない。この[空である法の]中に自分が所有する物(我所境)という[誤った]認識が有る[が、これも]今ただ法に属するのみである。我所境とは[縁に依って生じているものを]自分の器である、[自分の]家である、自分の従僕である、自分の装身具である[などと考えることである]。
 これもまた皆なさまざまな縁に依って生じていること、上[の家などの喩え]に准じて知るべきである。故に一切は空である。

 この法空の道理を法空真如と名付ける。菩薩はこの道理を証得し、また兼ねて菩提を障げる、さまざまなもの(法)が実在するという執着(所知障)を断つ。[また]生空の理を観じて[有情の本質が実在するという]煩悩障も断つことは論じるまでもない。法すら猶お空であるのだから、法がより集まって形成される我[という執着の]相がどうして有ろうか。故に菩薩は[煩悩障・所知障の]二障を断ち、二転果を得るのである。

二転果(涅槃・菩提)

 二転果とは、菩提と涅槃である。
 菩提とは、四智[と相応する]心品(心王・心所)のことである。
 涅槃とは、四涅槃のことである。
 四智とは、大円鏡智などのことである。

四涅槃

四涅槃とは、
 一、本来自性清浄涅槃
 二、有余涅槃
 三、無余涅槃
 四、無住処涅槃
のことである。

 一、 本来自性清浄涅槃とは、一切法の実相としての真如である。[煩悩に纏われていても、纏われていなくても]すべての位に於いて不変であり、常に清浄である(於一切位如性常清浄)。始め無く終わりも無く、変化することがないからそのように名付ける。
 二、 有余涅槃とは、煩悩を出た真如のことである。煩悩を断ったけれども、苦の依り処[すなわち身体と有漏の第八識]が尽きていないからそのように名付ける。
 三、 無余涅槃とは、苦が尽きた状態に依って顕される。苦の依り処[である身体と有漏の第八識]が無いからそのように名付ける。
 四、 無住処涅槃とは、所知障を出た真如のことである。広大な慈悲と[二空の]智慧(般若)とが常に補佐して無余涅槃に入らず、また[輪廻の中に居て]生死輪廻とは説かない。ゆえに無住と名付けるのである。

 今、この菩提と[四]涅槃とを円満する者を仏と名付ける。[仏に備わる三十二相・八十種好という身体的特徴である]相好、光明、浄土、荘厳などは皆な四智の相分である。故に四智に摂められる。四智には各々四分が有り、其の名前としての意味では有漏の四分と同じであるが、但だ三通縁三(見分・自証分・証自証分が自分の働き以外と相分の三つを認識対象とすること。ただし直接認識するわけではなく、相分を映じて認識する)などの意味で有漏の四分に異なる。

四智(菩提)

 そもそも四智とは、無漏の八識と相応する智(別境の慧)のことである。無漏の位には智慧が強く、識が劣っているから、智という名を以って識やそれと相応する慧以外の心所をも皆な智の中に摂める。

 無漏の五識と相応する智を成所作智と名付ける。故に実を論ずれば、成所作智には五つある。眼識[と]相応[する智]から身識[と]相応[する智の五識]までそれぞれに一つ有るからである。
 無漏の第六識と相応する智を妙観察智と名付ける。
 無漏の第七識と相応する智を平等性智と名付ける。
 無漏の第八識と相応する智を大円鏡智と名付ける。

(以下、裏書)『心地観経』(『大乗本生心地観経』)に云く、

 「一には大円鏡智。異熟識(第八識)を転じてこの智慧を得る。[喩えば、磨かれて清らかな]大きな円鏡がもろもろの色像を現し出すように、如来も鏡智の中にそのように衆生のもろもろの善悪の行為を現し出す。この理由でこの智を大円鏡智と名付ける。大悲に依って恒に衆生を[教化利益の]対象とし、大智に依って恒に一切法の本来的な在り方(法性)そのままである。[大智によって]真と[大悲によって]俗とを双つながら観じ、間断有ることが無い。[大円鏡智によって]常に能く無漏の根身[4][である第八識と身体]を維持し、一切の功徳の依り所となる[心][5]である。

 二には平等性智。[阿頼耶識の見分を]自己の本質であると執着する[末那]識を転じてこの智慧を得る。この智慧が自己と他者・一切法とが平等であるという人無我・法無我を証する。このような[働きをする]智慧を平等性智と名付ける。

 三には妙観察智。分別識[である第六意識]を転じてこの智慧を得る。諸法の固有のすがた(自相)と共通のありかた(共相)とを観察し、[無礙に転じ、説法の]衆会の場でさまざまな深い教えを説き、[それを聴く]衆生に[修行の境地から退転することがないという]不退転の境地を得させる。この理由でこの智を妙観察智と名付ける[6]。

 四には成所作智。[眼識から身識までの]五種類の識を転じてこの智慧を得る。一切種々の分身(化身)を現じ、諸々の衆生の善き行い(善業)を成し遂げさせる(成就)。この理由で成所作智と名付ける。

 このような四智を筆頭にして、八万四千智の法門とこのような一切諸々の功徳法を備えるのである」〈以上、引用〉。〈以上、裏書。〉

問答(一)

 問う。もののあり方(法)には、現象・道理・真理(事・理・如)の三重があるが、いまの説明では真理という面を失うように似ている。[なぜなら]生空という道理と法空という道理とを真如と名付けるからである。これについてはどうか。
 答える。道理については二重がある。真実の道理を真如と名付け、[一切は]心[が]変[化したものであることによって顕される]道理を理と名付ける。故に、[事・理・如の]三重のうち、後の二つの中に仮と真との二つの側面がある。真実の道理とは、[現象として展開せず]凝然として生滅することが無い。故に真如と名付けるのである。

問答(二)

 問う。[唯識の五位百]法の中に、[実法の分位仮立である]仮法と[自らの種子から現象する]実法とがある。有為の諸法が[現象し]滅する時には[阿頼耶識の中に]種子を熏習するというが、仮法と実法は皆な熏習するのか。
 答える。実法は熏習するが、仮法は熏習しない。実法の中にも異熟無記である法[すなわち、善悪の果報としての阿頼耶識(真異熟)や眼識から意識までの六識(異熟生)のうち無記性のものと、それらと相応する心所]は熏習しない。その他の法は熏習する。


注釈

[1] 佐々木閑「五色根は透明か」(『 臨済宗妙心寺派教学研究紀要 第7号』、2018)に拠った。
[2] 「又則人力為縁」とあるが、あるいは「則」は「別」の誤りか。
[3] 『倶舎論』によれば、色法は最低でも地・水・火・風という四大と、それによって形成される色・香・味・触の四大所造色のうち一つずつを一組として、合計八種類二十個の極微が必ず一緒に現象し、無数の極微が寄り集まって物質を形成するという(佐々木閑『仏教は宇宙をどう見たか』化学同人、2018)。ここでは『倶舎論』の所説に依拠して説明している。
[4] 底本「無漏根力」とあるのを経典本文に基づき改めた。「身」の異体字は「力」とよく似ているため書き誤ったものか。
[5] 底本「所依心」。経典に「心」なし。
[6] 不退転にはさまざまな解釈があるが、いま『成唯識論』巻三の正義に依拠すれば、煩悩を永捨した三乗の無学位(阿羅漢、独覚、仏)と八地以上の菩薩とを指す。

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