貞慶『法相初心略要』現代語訳(六)五位百法について(上)

凡例

  • 底本としては『大日本仏教全書』第八〇巻(仏書刊行会、1915)を用い、訓点や文意の確認のため適宜京大所蔵本を参照した。

  • ()は補足、[]は文意を補うための補足で、いずれも筆者の挿入である。

  • 〈〉は原文中の注や割書を示す。


八識心所相応の事

 『枢要』略頌にいう。
「因八五数七十八、六皆五識三十四、果位諸識二十一」〈以上、引用〉。
[因位の第八阿頼耶識には五の心所、第七末那識には十八、第六意識は全て相応、前五識には三十四、果位の諸識は二十一] 

第八識相応の五遍行

 先ず、因位(仏果に対していう。後述)の第八識には、唯だ遍行[すなわち、遍く一切の識と必ず相応する五種類の心所]のみであるから五という。

[その遍行の心所とは、
一、作意(種子を警覚して心を起こさせ、認識対象に傾注させる作用)
二、触(根、認識器官・境、認識対象・識、認識が和合した時に発生し、心・心所を対象に触れさせる作用。続く受・想・思の拠り所となる)
三、受(対象を受け止めて、
① 身体的な苦しみ
② 精神的な憂い
③ 身体的・精神的な喜び
④ 精神的な楽しみ
⑤ どちらでもない(捨)
という五つの感受作用を起こし、それに応じて離れたい、近づきたいという感受を起こし、愛の拠り所となる作用)
四、想(対象のイメージを知覚し、概念化して言語の拠り所となる作用)
五、思(意思作用。善悪などの行為をさせ、業を作る拠り所となる)
の五つである。

第七識相応の心所

 次に、第七識には遍行の五と、別境のうち恵(慧)[すなわち対象について損得や正しい、正しくないなどと選り分ける働き。正邪どちらにも作用し、仏菩薩の智慧はこの心所の作用を主とする。初地以前の衆生の第七識と相応する慧はすべて我見となる]と、煩悩のうち、
一、我痴(無明のうち第七識と常に相応し、我法二空という智慧を起こさせない作用)
二、我見(悪見のうち第七識と常に相応し、常に第八識の見分を執着して自己の本体であると誤認する作用)
三、我慢(慢のうち第七識と常に相応し、執着された自己を誇って心を昂らせる作用)
四、我愛(貪のうち第七識と常に相応し、執着された自己に深い愛着を起こす作用)
の四惑と、随煩悩のうち、八大随惑[と相応するの]である。八大随惑とは、不信以下の八つ[の心所]である〈『百法明門論』の順番によって論じる〉。

[八大随惑とは、有覆無記・不善の心(染汚心)に必ず起こる(遍染)随煩悩で、
一、 不信
二、 懈怠
三、 放逸
四、 惛沈
五、 掉挙
六、 失念
七、 不正知
八、 心乱(散乱)
の八つである。]

第六識相応の心所

 次に、第六識には[遍行、別境、善、煩悩、随煩悩、不定の]五十一の心所全てが相応する。

前五識相応の心所

 次に、前五識には、各々三十四が相応する。三十四というのは、遍行の五、別境の五、善の十一[全て]、本惑(煩悩)のうち貪・瞋・痴の三つ、随惑(随煩悩)のうち、中随惑の二惑[すなわち不善の心に必ず起こる無慚・無愧]と八大随惑である。

仏果位相応の心所

 次に、果位には、八つ全ての識と二十一の心所が相応する。つまり、遍行の五、別境の五、善の十一である[後述の通り、説法などのために無漏の尋伺を伴う場合は二十三の心所となる]。
 因位というのは、[五十二位のうち妙覚すなわち仏果に次ぐ]等覚以前[の十地・十廻向・十行・十住・十信]乃至我ら凡夫のことである。果位というのは、仏果のことである。

已転依相応の心所

 已転依・未転依という時には、有漏の位を未転依と名付ける。無漏[の位]を已転依と名付ける。[因位・果位という分類とは異なり]設え仏果に至っていなくとも[たとえば見道を遂げた初地以上の菩薩や独覚・阿羅漢などの]已転依の識には二十一の心所が相応するのである。すなわち、無漏の第六・第七識の二識である。この[二識が]二十一の心所と相応するのである。
 〈裏書に云く、或る時には二十三[と相応する]。[説法の時には]無漏の尋伺を加えるからである。〉また、二乗の聖者の第六識中には、生空無漏智のみ現起する。すなわち、妙観察智の一分である。これもまた二十一の心所と相応するのである。

二乗聖者が生空真如を証得すること

 『燈』に云う。[二乗の人は真如の理体を証することができず]但だ能くこの真理(真如)の上の煩悩障という[智慧の]覆いを離れた[生空真如の一部]を悟る。〈以上、引用〉。

煩悩・所知二障のこと

煩悩障

 煩悩障というのは[概して言えば]六煩悩、[六煩悩のうち悪見を五種類に分けた]十煩悩[という根本的な煩悩と]、[根本煩悩に付随して起こる]二十随惑(随煩悩)のことである。その名前については、『百法明門論』の通りである。生き物(有情)の身心を悩ませるから煩悩と名付ける。身心を悩ませるというのは、[有情を]輪廻生死させることをいう。
 存在(諸法)の作用に迷う[我見の]心所の働きの増勝した分が、不変・自在(常一主宰)に似て実在するかのように現出し、常一主宰[である有情の実体]に迷い、実体が実在すると思うのであるが、これが実我[があるという執着、すなわち我執]である。
 [この我執によって]貪(むさぼり)や瞋(いかり)など[をはじめとする]すべての煩悩と随煩悩が起こるので、煩悩は薩迦耶見(有情に身体や実体が実在するという執着)を上首とするのである。

生空真如

 生空真如というのは、[有情の実体が実在するのではなく、因と縁とによって、心と身体などといったものが寄り集まって]我という存在が仮に現象しているあり方(仮我性)である。故に、これを証する智慧を生空智という。煩悩はこの生空智を妨げて起こらないようにするのである。[声聞・独覚といった]二乗は生空智を証得し、煩悩を断つのである。煩悩は生死輪廻の源であるが、生死を翻せば涅槃である。故に煩悩は涅槃に対する障碍なのである。二乗は専ら[完全なる]涅槃を欣ぶから、偏に煩悩障だけを断じて所知障を断たないのである。

六煩悩・十煩悩

一、 貪とは、対象を愛して執着する心の働き(心所)である。
二、 瞋とは、恚(怒り)の心所である。
三、 慢とは、己を恃んで他者に勝ると思う心所である。
四、 無明とは、愚痴(愚かさと無知)の心所である。
五、 疑とは、猶予(仏法を疑ってしりごみする)の心所である。
六、 不正見(悪見)とは、よこしまでかたよった見解の心所である。
この不正見を分けるとまた五つの[誤った]見解となる。
一、 薩迦耶見(我見)
有情の身体や実体(我)、[阿頼耶識によって現出されている法が]実在すると執着する心所である。
二、 辺見
我見の後で[因縁によって現象する自己を]全くない(断)と執着したり、不変・自在の自己が実在する(常)と執着する心所のことである。
三、 邪見
因果の理を否定する心所である。
四、 見取見
諸々の誤った見解やその誤った見解を起こす人を清浄(涅槃)への最も優れた道だと執着する心所である。
五、 戒禁取見
仏教以外の宗教(外道)が取り決めた宗教的禁戒やその禁戒を守る人を清浄(涅槃)への最も優れた道だと執着する心所である。
[以上、六煩悩と不正見を五つに分けた十煩悩についての解説終わる。]

随煩悩

 次に、随煩悩(二十随惑)のあり方について明かす。
一、 忿とは、[瞋の心所の一分であり]杖を執って人を打つ[などの身体的行為や罵詈などを起こす]心所である。
二、 恨とは、[瞋の心所の一分であり、必ず忿の後で起こり]怨みを抱く心所である。
三、 悩とは、[瞋の心所の一分であり、忿と恨とを先として起こる]かつての憎しみを思い、また今憎いと思ったことについて激しく苦悩する心所である。
四、 覆とは、[貪と瞋の心所の一分であり]自ら作った罪[によって名利を失うこと]を恐れ、隠蔽しようとする心所である。
五、 誑とは、[貪と無明の心所の一分であり、名利のために己を偽って他人を]誑惑する心所である。
六、 諂とは、[貪と無明の心所の一分であり、名利のために他人に]媚びへつらう心所である。
七、 僑とは、[貪の心の一分であり]自身の盛んなることに夢中になって驕り高ぶる心所である。
八、 害とは、[瞋の心の一分であり]諸々の生き物(有情)を損害する心所である。
九、 嫉とは、[瞋の心所の一分であり、他者の栄達に]嫉妬する心所である。
十、 慳とは、[貪の心所の一分であり、財と法とに執着して]物惜しみする心所である。
十一、 無慙とは、自ら[と法と]を恥じない心所である。
十二、 無愧とは、世間に対して恥じない心所である。
十三、 不信とは、[仏法僧という]三宝に対して信じることをしない心所である。
十四、 懈怠とは、懶惰の心所である。
十五、 放逸とは、[自らの心や身体的行為を]防修することができず、ほしいままに振る舞う心所である。
十六、 惛沈とは、対象について[の認識を]暗く重くさせる心所である。
十七、 掉挙とは、対象について心を昂らせ、動かして[静寂にさせない]心所である。
十八、 失念とは、[念と無明の心所の一分であり、対象において記憶できず]忘失する心所である。
十九、 不正知とは、[慧と無明の心所の一分であり、対象について]誤解する心所である。
二十、 心散(散乱)とは、さまざまな対象に心を馳せて[一つに集中させない]心所である。
[以上、二十随惑についての解説終わる。]

問答(一)

 問う。無明と惛沈とはどのような違いがあるのか。
 答える。無明は[道理と現象という]対象についての認識を暗くして迷わせる働きであり、暗く重くさせるものではない。惛沈は対象について[認識を]暗く重くさせる働きをいうのであって、迷わせる働きではない。
 問う。掉挙と散乱とはどのような違いがあるのか。
 答える。掉挙は[一つの対象において]認識(理解)を変えさせ、散乱は認識対象そのものを変えさせ[て集中させない]のである。
〈已上、煩悩障畢る。〉

所知障

次に所知障とは、上記に明かしたところの煩悩・随煩悩[が作用に迷うものであったのに対して]いちいちおのおのの根底としての法体に迷うもののことである[つまり、所知障が根底となって煩悩障が生ずるのである]。
 法体とは、五蘊などの法[すなわちあらゆるもの]のことである。
 法というのは、「軌持」という意味である。「軌」とは、軌範のことで、ものごとの軌範となって認識を生じさせるということ、「持」とは、ものとしての[固有の]特徴を[持して]捨てないということである。
 ところで、五蘊など[のもの(法)]は縁によって生じる幻のようなもので、仮に[現象として]有るが、実体としては存在していない。故に実の軌持ではないが、しかも仮の軌持に似た現象[として生起しているのである。それを実在すると]迷う心[を起こし]、幻のように[現象として]存在していることを悟らずに、相似[であって実在していないもの]を真の実在だと思い込む。これがものは実在している(法我)と思い込む執着の心(法執)である。この執着の心から一切の所知障が起こるのである。
 [所知障とは]、知るべき対象[の実相、すなわち真如](所知)に対して暗い所知障が起きるのである。したがって、この所知障は法という実体があるという誤った見解(法我見、薩迦耶見)を上首として起こるのである。

[以上を綜合すれば]知るべき対象[の実相]に暗いために[法我見が起き、その上に我見が起きる。我見によって生ずる]煩悩障を断じてはじめて涅槃を得、所知障を断じてはじめて菩提を獲得するのである。これを二転妙果と名付ける。この二転妙果を[成就した者を]無上覚者(仏)という。これをもって思うに、煩悩障と所知障とは同体であって別のものではない。しかし、菩提と涅槃との二つの果報を障碍する作用と、聖道(修行)によって[発生を抑えたり]断ち切る分限が別であるから、二障に分けるのである。

心所の六つのカテゴリーのあり方について

[心所の六つのカテゴリーとは、
一、 遍行
二、 別境
三、 善
四、 煩悩
五、 随煩悩
六、 不定
の六つである。]

遍行

 遍行には五つある。
〈[善・不善・無記の]三性に通じる。先ず遍行というのは、すべての心[すなわち第八識乃至前五識]が起こるとき、必ずこの五[つの心所]が[倶に]有るから、遍行と名付ける。〉

一、 作意…[種子として働き]心[法の種子]を驚かせて[現行させる]作用である。
二、 触…心を[認識器官によって]認識対象に触れ[和合]させる作用である。[受・想・思などの心所の拠り所となる働きをもつ]
三、 受…[自分にとって]良い、良くない、どちらでもない[という価値判断を伴って]対象を領納する作用である。良いという価値判断を伴って対象を領納する作用を楽受といい、良くないという価値判断を伴って対象を領納する作用を苦受といい、どちらでもないという価値判断を伴って領納する作用を捨受という。
 これを苦・楽・捨の三受と名付ける。あるいは、[三受を]分けて五受とする。[すなわち]苦受を分けて憂とし、楽を分けて喜とすれば五[受]である。
 楽は身体的な満足や喜びを言い、喜は、精神的な満足や喜びを言って身体的な適悦について言わない。これが楽と喜との違いである。次に、苦は身体的な逼迫を言い、憂は精神的な逼迫を言って身体的な苦しみについては言わない。これが憂と苦との違いである。

[まとめると、以下のようになる。
1. 楽受…前五識と相応する身体的な満足や喜び
2. 喜受…第六意識と相応する精神的な満足や喜び3. 苦受…前五識と相応する身体的な苦しみ
4. 憂受…第六意識と相応する精神的な苦しみ
5. 捨受…全ての識と相応する、苦楽どちらでもない価値判断]

四、 想…対象において像を写し取り、概念化・言語作用を起こす心所である。
五、 思…心を動かして善・悪・どちらでもない(無記)の行為(業)を作らせる心所である。
〈已上、遍行の五畢る。〉

別境

 次に別境に五つある。〈善・悪・無記のいずれにも通じる。〉
一、 欲…対象を願い求める心所である。
二、 勝解…[教えや、禅定などによって現れた]対象に対して[これはこうであると]確定させる心所である。
三、 念…昔[に経験した]事を[忘れさせず]心に明記させる心所である。
四、 三摩地(定)…心を一つの対象に専注させる心所である。
五、 慧…[対象の]得失を簡撰する心所である。〈別してこれは智である。已上、別境畢る。〉

 次に、善には十一の心所がある。〈唯だ善のみであり、他の[悪・無記という]性質には通じない。〉
一、 信…三宝・有無等を承認(印可)する清浄な心所である。
二、 精進(勤)…善において勇猛なる心所である。
三、 慚…自ら[を]慙ぢ[悪行を防ぐ]心所である。
四、 愧…他[の力によって]愧ぢ[悪行を防ぐ]心所である。
五、 無貪…対象において執着(愛著)の無い心所である。
六、 無瞋…対象において瞋恚の無い心所である。
七、 無癡…[教えや現象世界といった]対象において明了なる心所である。
八、 軽安…[禅定中に身体や心の]重苦しさを離れて心身が伸びやか(調暢)である心所である〈定を得た後で起こすものである〉。
九、 不放逸…心を防護して善を修させる心所である。
十、 行捨…[心を]平等・正直にさせる心所である。
十一、 不害…[有情に対して]悲しみ、愍れむ心所である。

問答(二)

 問う。慈悲とはどの心所なのか。
 答える。無瞋の心所が慈である。与楽を働きとする。[また]不害が悲である。済苦を働きとする。
〈已上、善の十一畢る。〉

不定

 次に、不定に四つの心所がある。〈三性に通ずる。〉
一、 睡眠…[眠るとき]身体の自由を失わせ、心をぼやっと(昧略)させる心所である。
二、 悪作(悔)…[前に]行った[または行わなかった]行為を厭う心所の事である。
三、 尋…[意識の対象を麁く]推しはかり、尋ね求め[言語の直接的原因とな]る心所である。
四、 伺…[意識の対象を細かく]推しはかり、推察を起こす[言語の直接的原因となる]心所である。〈不定の四畢る。〉

五法の事理とは

一、 心法。八識心王のことである。
二、 心所。[上記の]五十一種類の心所のことである。
三、 色法。十一種類の物質的存在である。
四、 不相応。二十四種類の、心と相応しない存在(法)である。
五、 無為。六種類の、因縁によって作られていない存在(無為法)である。
〈已上が百法である。〉

八識

 まず、八識とは、
一、 眼識〈[眼識から意識まで]三性に通ずる〉。青・黄[赤・白]といったいろを対象とする心である。
二、 耳識。音(声)を認識する心である。
三、 鼻識。におい(香)を認識する心である。
四、 舌識。味を認識する心である。
五、 身識。身体的感覚(触)を認識する心である。
〈已上〉これらを五識と名づける。
 今[1]この五識は現量無分別である。現量無分別とは、対象をそのまま知覚するということで、言語を伴った概念化作用(分別)が無い、という意味である。[五識は]唯だ現在だけを対象として、過去・未来を対象とはしない。

六、 意識。すべてのもの(一切法)を認識する心である。今この識のすがたや働き(行相)はもっとも広い。[認識の性格としては]或いは現量・或いは比量・或いは非量である。
 今この現・比・非の三つを三量と名づける。意識が現量[2]の時は、五識と同時に働く時である。比量とは、正しい[論]理に基づいて対象を推知することである。非量とは、よこしまな知(邪知)のことである。邪知の中に、邪推知と邪現知がある。
  (ア) 邪現知とは[喩えば]、白雲が西に行くさまを見て、明月が東に流れるように思うといった[誤った知覚の]ことである。
 (イ) 邪推知とは、煙を見て水だと判断し、水煙を見て焔や火だと判断するような[誤った推論を伴った認識]である。
 こうした[誤った認識の]心は、すべて非量と名づける。我ら凡夫は[無始の輪廻の]長時の心の働きの中で、常にいろや音といった対象を概念化して判断しているが、その多くは非量の心である。非量の心の中に邪現知の類いは、現に見たり聞いたりすることに対して、常に心外の思いをなす[ようなものである]が、これらはどうして邪現知で無いことがあろうか。

七、 末那識。阿頼耶識の見分を認識対象とする心である。
 今、この識は但だ非量のみである。阿頼耶識の見分を対象として、長時に自己の本体(我)だと執着して、我だという執着が止む時が無い。故に唯だ非量のみである。この識のすがたや働きはもっとも微細であ[って知り難いのであ]る。
八、 第八識(阿頼耶識)。三種類の対象を認識する心である。三種類の認識対象については、上に述べた通り[種子・五根・器界の三つ]である。
 この識は現量である。三種類の認識対象は業因の力に従って、無作為(任運)に対象を現出させる。[第八識の]すがたや働きは極めて微細であり、その淵源は知り難いのである。全ての存在の原因(一切諸法種子)がすべてこの識の中にある。故に全ての存在はこの識から発生するのである。

種子の事

 種子には二種類ある。

本有種子

一、 本有種子。第八識の中に無始から本来的に備わっていて、法爾条然(あるがまま)にさまざまな存在を発生させる能力を持つ直接的原因があるが、これを本有種子と名づけ、また法爾の種子とも名づける。これにまた二種類ある。
 (ア) 一つには、有漏本有種子である。煩悩を伴ったり、煩悩の対象となる[無漏法以外の]存在(有漏諸法)を発生させる能力を持つ、法爾の直接的原因のことである。
 (イ) 二つには、無漏本有種子である。煩悩を伴わず、有漏を滅する作用を持つ存在を発生させる能力を持つ、法爾の直接的原因のことである。これを法爾無漏種子と名づける。今、この法爾無漏種子は、三乗の先天的な家柄や能力(種姓)の別である。[三乗の法爾種子とは、]

① 一、菩薩乗法爾種子
② 二、独覚乗法爾種子
③ 三、声聞乗法爾種子

[のことである。]今、この三乗の種子を皆欠く有情を、無姓有情という。唯だ菩薩法爾種子のみを備えた有情を、定性大乗と名づけ、また、頓悟大乗とも名づける。
 唯だ独覚法爾種子のみを備える有情と、唯だ声聞法爾種子のみを備える有情と、独覚・声聞の二つの種子を備えている有情を、定姓二乗と名づける。
 また、[独覚・声聞の種子に加えて]菩薩等の三乗[全ての]種子を兼ねる有情を、不定姓と名づける。また、独覚・菩薩の二姓を備える有情や、声聞・菩薩の二姓を備える有情も居るが、これらも不定姓に摂められる。〈已上〉法爾種子について畢る。

新熏種子

二、 新熏種子。有為法の中で、[自らの種子から現象する]実法がそれぞれ[現象した時に]留める、自らの気分(余勢)のことである。これにもまた有漏無漏の二種類がある。
 (ア) 有漏新熏種子とは、無始以来、凡夫が瞬間瞬間(念々)に熏習する種子のことである。
 (イ) 無漏新熏種子とは、三乗の種姓を備える有情の不定姓でも定姓でも、見道已上[仏位未満の聖者]の無漏の心中に熏習される習気(気分)のことである。
〈已上、八識畢る。〉

心所法

 次に、五十一種類の心所とは、遍行・別境[・善・煩悩・随煩悩・不定]等のことである。〈上の如し。〉

色法

 次に、十一種類の色とは、
一、 眼根。眼識の依り所となる器官のことである。
二、 耳根。耳識の依り所となる器官のことである。
三、 鼻根。鼻識の依り所となる器官のことである。
四、 舌根。舌識の依り所となる器官のことである。
五、 身根。身識の依り所となる器官のことである。
 今、この五根は、四要素(四大種)によって形成された、鏡のように対象を映し出す[不可視の]物質(大種所造清浄色)を本体とする。〈上の如し。〉
六、 色境。眼識が眼根に依拠して認識する、対象(いろ)のことである。
七、 声境。耳識が耳根に依拠して認識する、対象(音)のことである。
八、 香境。鼻識が鼻根に依拠して認識する、対象(におい)のことである。
九、 味境。舌識が舌根に依拠して認識する、対象(味)のことである。
十、 触境。身識が身根に依拠して認識する、対象(身体的感覚)のことである。
十一、 法処所摂色。意識が意根に依拠して認識する、物質的存在のことである。

これ(法処所摂色)に五つがある。

 (ア) 一、極略。極略とは、極微のことである。すなわち、瞑想修行者が物質を粗大なものから観念し、次第に分解していって遂にこれ以上分解できない所に至る。そのこれ以上分解できないものを極微と名づけるのである。
 (イ) 二、極逈。極逈とは、物の隙間や明暗といった色のことである。
 (ウ) 三、定所引。定所引とは、瞑想状態(定)を得た人が、瞑想の力によって変現させる、いろや音声といったもののことである。
 (エ) 四、受所引。受所引とは、無表色[すなわち、受戒や習慣的行為によって獲得されるもの]である。[第六意識相応の善もしくは悪の]思の心所の種子が[悪または善の行為を]防ぐ働きに対して[仮に]立てたものである。
 (オ) 五、遍計所起色。遍計所執色とは、水[に映る]月や鏡[に映る]像といった[分別によって起こされた、本質のない]もののことである。

問答(三)

 尋ねる。明暗の色とはどのようなものか。
 答える。空間(虚空)に現れる、明るさと暗さのことである。
 尋ねる。極逈とはどのようなものか。
 答える。明暗といった色を逈色と名づける。
 尋ねる。すべての明暗の色がみな逈色なのか。
 答える。そうではない。明暗の色には二種類がある。一つには空一顕色、すなわち上(空)にある明暗である。空間(大虚)に現ずる明暗である。二つには逈色、すなわち下にある明暗である。屋宅などの間に現れるものである。
 尋ねる。すべての逈色がみな極逈なのか。
 答える。そうではない。逈色と極略が極逈色である。
 これらを法処所摂の五種類の色と名付けるのである。〈已上、色法の十一畢る。〉

以上、上巻終わる。


脚注

[1] 底本「會」を京大所蔵本に従って「今」に改めた。
[2] 底本「現重」を京大所蔵本に従って「現量」に改めた。

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