見出し画像

金持ち大大名 前田利家

槍の又左、傾奇者、人生プランの算盤弾きの達人といえば加賀百万石の藩祖、前田利家であろう。
前田利家は若い頃は短気で今でいうヤンキーとも言えるような風態の傾奇者として周りの大人達からやや冷たい目で見られた。
それを面白い奴と拾い上げたのが織田信長である、勿論、当時の織田信長はまだ、織田家当主でも後継者としても見られていなかったので、拾い上げたといっても今でいうとこの隣町の生意気なヤンキーグループと喧嘩するからお前も来い!的なノリなのである。

とはいえ、利家も流石、槍の又左の異名を後の世に流布されるだけあって元々腕ぷしには相当なものがあったのである。
利家の槍は三間半柄の長く派手な槍を持ちとありこの三間半柄の長さは今のメートル法に直すと6m30cmの槍を常に持ち歩き、初陣から数々の戦働きで功をたてた豪腕の強者である。
しかも派手好き、祭りと喧嘩が大好きて派手好き、そんな人は今でもいるが周りの大人達は若い頃の利家をとても苦々しくみていたのであろうが実力は本物だったので認めざる負えなかった利家を見る周りの大人達の顔が容易に想像出来る。
織田信長による尾張国統一戦、激戦の浮野の戦いでは敵の矢が顔に刺さったまま敵陣に飛び込み敵を倒し、姉川の浅井攻めでの功績で信長に今に始まらず比類なき槍と誉められ、大坂本願寺攻めでは撤退する味方の後攻を務め1人踏みとどまり味方を逃したことから『日本無双の槍』とまで世の武将達に言わしめた天下無双の武将であった。

             算盤弾きの頭脳明晰大名

前田利家の強さは何も腕力だけではない、恐らく、戦国最強の武士となると中国の呂布と同等以上だったと言われているのは前田利家の伯父貴的存在の柴田勝家であるからである。
前田利家の晩年の趣味が算盤弾きだったが人生のココぞという時の対人関係のココが引き時、誰についていくかの線引きまでの計算が非常に長けた武将であった。
故に前田利家が古今無双と呼ばれ続けた真の強さ、強みにあるのではないか!と私は思うのである。

現在、金箔文化の町として挙げられるのが前田利家が作った石川県金沢市の城下町であるが実は元々、金箔生産技術というのは金沢の伝統芸能ではなく、石川県七尾市の技術であった。
七尾市から金沢市に当時最高峰の技術を移した理由は金の産出地であった宝達山の近隣であって北陸における本願寺勢の拠点が金沢にあれ金沢御坊だったのでこの地に城を置くことで北陸に置ける本願寺勢の心根を完全に断ち切るという壮大な計算があってのものだった。
彼の読みは確実にヒットし加賀百万石の基礎を確実に形作ったのである。

      後の天下人、家康に引けを取らぬ強さ

今年の大河ドラマ、どうする家康でも見所になってくるのではないか?と推測されるのか度々、起こる徳川家康と前田利家の衝突である。
織田信長存命の時代には然程、表立って衝突しなかった前田利家も豊臣家の五大老という重責を担う事になると文禄、慶長の役という朝鮮出兵の戦いを豊臣秀吉が起こすと徳川、前田両名は肥前名護屋城に入城、あろう事か徳川と前田の本陣は隣同志であったのである。
徳川の家臣が前田の本陣から水を取ったといういざこざが起きた時、前田利家は豊臣政権の五大老筆頭の徳川家康に対して一歩も引かずに徹底抗議を繰り返した。
最終的にはお互いの意見の落ち着く、水の権利、井戸の使用権利は半分ずつ両家でもつ事に落ち着くのであるがコレが始まりか前田利家は生涯無くなるまでに後の天下人となる徳川家康に対して負けることなく、徹底交戦を続けた…

そんな派手好きで頭脳明晰で天下無双の槍の使い手剛腕の猛将、前田利家の鎧が着れるのは
ココ!

                          アクセス
三重県伊賀市上野丸之内28 ラフォーレビル2階
伊賀の鎧屋NOTORIOUS
℡090-7824-9617
担当 中村宙史
ご来店前に電話を下さい^ ^

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?