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最強の武人!北畠具教

           戦国大名 北畠具教  誕生

  1528年に伊勢村上源氏 北畠家 8代当主として誕生した伊勢国の大名が北畠具教である。
そもそも北畠家は村上天皇の子が臣籍降下する事で生まれた村上源氏の一族で名門中の名門で本拠地となった三瀬館のあった領地も伊勢国の京都として大変栄えた場所であった。
故に具教は青年時代までに従三位権中納言という位を朝廷に絶大な信頼を寄せて賜っているのだがその英才教育は緻密であったのだと思う。
25歳の時には父、北畠晴具が隠居し正当な当主として着任した。
時代背景として世は戦国時代真っ只中であった
具教の母は足利将軍を傀儡とした管領 細川高国の娘であったので北畠と細川家のバランスはとても良好であったのであるが1526年に阿波の武将、三好元長が前管領で細川高国が倒した細川澄元の子、細川晴元を担ぎ上げ、挙兵
具教が生まれる一年前の1527年には細川高国が細川晴元に敗北し都落ちして近江へ逃亡、
高国政権がなくなると堺に足利義晴の弟、足利義維を擁立した堺幕府を開いてしまった。
1531年には細川高国は三好勢に捕らえられ細川晴元の命で尼崎広徳寺で自害させられた…
そんな天下の政権を握っていた細川高国の後ろ盾が消えた1553年の騒乱の嵐が駆け抜け駆け巡る戦国時代に正当な最期の北畠家当主として北畠具教は25歳の若さで就任したのである。

                  戦略家 北畠具教 

   1555年、北畠家8代当主に就任した2年後
伊勢国安濃郡を支配していた長野工藤家と
交戦し具教の次男、具藤を養子に入れる事で
長野工藤家の軍事力や領土をそのまま有利に
得た。
長野工藤家が弱いわけでは無い、そもそも長野工藤家とは鎌倉時代に富士の鷹狩りで起きた曽我兄弟の襲撃事件で殺された工藤祐経の三男、祐長が平清盛の一派、伊勢平氏残党を討伐するべく伊勢国長野の地頭職に就任した一族で北畠家には室町幕府初代足利尊氏と徹底抗戦した勇将、北畠顕家を初め室町幕府時代に入ってからも長野工藤家と北畠家の一進一退の戦は続き
北畠満雅という、室町時代中期の北畠家3代当主を倒して幕府より北畠の一領地、一志郡(現在の津市美杉町太郎生あたり)を授かっている。
それほど、強敵であった北畠家にとっては目の上のタンコブどころか蛇に睨まれた蛙の蛇的存在、、それが長野工藤家という存在であったのである。
北畠具教はその長年の強敵、長野工藤家に戦は3年かかってしまったがとても有利な条件で和睦し…つまりは勝利したのである。
ただ打ち倒すのではなく相手の力をそのまま手に入れた…蛇に睨まれていた蛙が蛇を飲み込んだ瞬間であった。
1562年には臣従していた長野種藤、長野藤定が同時に亡くなった……
恐らく北畠具教による暗殺と推察する。
完全に長野工藤家を掌握した北畠具教は伊勢志摩の後に海賊大名とされる九鬼義隆の兄、九鬼浄隆の居城、田城を同じく海賊で北畠家の家臣であった小浜景隆をぶつけることで伊勢志摩を完全掌握、そのままの勢いに乗って何と!
北畠具教は大和国神楽岡城まで進軍し城主、秋山教家の父、秋山宗丹を人質に取る事で大和国の一部までも掌握したのである。


               天下一の剣豪 北畠具教

   伝承では1569年になると織田信長が伊勢や伊賀に侵攻してくると栄華を極めていた北畠具教は圧倒的な全力を前に膝をつき、敗北を味わう事になる
そして自身が長野工藤家にした事を織田信長に全く同じ事をされ北畠の実権を掌握されてしまう。
織田信長の息子、後の織田信雄は北畠家の養子にする形で織田有利のまま北畠家は和睦せざるを得なくなる。
養子の条件は具教の娘、雪姫を嫁とすること。

第一次天正伊賀の乱は織田、北畠両軍優勢に終結すると北畠具教は現在、伊賀上野城がある平楽寺攻略の為、伊賀丸山城の築城を初める。
その最中、急に織田と不仲になり北畠具教が武田信玄の上洛戦を利用して織田信長を挟撃して討伐する計画を掲げそれに怒った信長が北畠の旧臣を使って北畠の本拠地、三瀬館を襲撃して正当、北畠を滅ぼしたという説がある。
三瀬館襲撃事件の際、咄嗟とはいえ、刀の先を故意に丸められていた刀とは到底いえぬ刀を持って北畠具教はおよそ、100人に刀傷を負わせ
19人を一刀の元に切り伏しているのである。
何故、これほどまでの事が彼に実現できたか?というと、戦国時代最強と謳われた2つの剣術を習得していたからだと言われています。
一つの流派は柳生新陰流の元になった上泉信綱が考案した新陰流これはカウンター技が基本で
筆者である私も奥義が使えるのですが刀を持っていなくても相手の刀を奪って斬る無刀取り、恐らく北畠具教はこの無刀取りは習得していたと思われます。
故に刃の先が丸まった刀は捨て、相手の刀を奪ったと推察できます。
そして、鹿島新当流の塚原卜伝から伝授された
一之太刀、これは高等な弟子のみ教えられた奥義とされているので調べましたが現在、どういう類の技なのか皆目見当がつきませんでした。
他に足利義輝が一之太刀を伝承されたと伝わりますがこれは恐らく、金にものを言わせたただの伝承でしょう…
何故なら足利義輝は政権を三好長慶に奪われ京、近江を往復していたのでそんな師事する時間はなかったはずですからね……
となると、この時代、織田からの謀略とはいえ襲撃で勇猛果敢に戦え勝ち続けた体力、武力が発揮できた強さが具教にあったという事です。

                       

                       名門 北畠家


    北畠具教がというよりも北畠家が用いた家紋の話である。
北畠家は村上天皇の子が臣籍降下、、つまりは皇族からは離れる事をいうのだが、その臣籍降下した村上源氏の血筋で公家、武家の一族である。
北畠家の始祖となる源雅家が京都御苑、洛北の北畠という土地に移住したことがは北畠姓を名乗る事になった。
村上源氏である事から世に伝わる北畠家の家紋は笹竜胆であり恐らく、武田菱とされる全く同じ家紋と区別する為であろうが、現在、北畠家の拠点となり北畠具教最期の地ともなった三瀬館があった北畠神社の神紋は割菱であるため。
武田菱と同じく、北畠家が家紋として正式に使用していたのは間違いなく割菱の方であろう。
それも武田が使う前から北畠顕家の時代から北畠家の家紋が割菱を使用していたとなれば北畠菱と言っても過言ではなかろう。
北畠家が滅んだのは奇しくも武田信玄と共闘して織田信長を討伐しようとしていた時と同じで
武田信玄も三方ヶ原の戦いで徳川織田連合軍を叩き潰した野田合戦中に病死(毒殺とも)している。
武田はその後、家としては暫くは続くが天目山の戦いで織田に滅ぼされ戦国時代という中で2つの名門家がことごとく時代から消されてしまったのである。

そんな、戦略家で最強の北畠具教の甲冑が着れるのはココだけです


                       アクセス
三重県伊賀市上野丸之内28 ラフォーレビル2階
伊賀の鎧屋NOTORIOUS
℡090-7824-9617
担当 中村宙史
ご来店前に電話を下さい^ ^


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