沼の主

 

沼の主は、腹の底でぐっと堪えた。沼の底には時折、激流と呼べるほど強い水流が噴き出る。沼に棲みついて日が浅い魚の大半は、見るも無残に流されてしまう。沼の主は、その様子を義務的に視界に収める。一所に留まる魚にとって、流され行く魚はただの経過物である。視界を横切るそれらに対して惜別の言葉をかけていたら、とてもではないが身が持たない。沼の主は、自己防衛のために沈黙を貫いているのである。

ただ、激流にしても「その到来を予期することは到底不可能」というわけではない。激流はほぼ等間隔で押し寄せるため、その事実をしっかりと把握していれば、対策を講じることによってやり過ごすことができる。沼の主のように、周囲を絶えず見張っていれば、なんら難しいことではない。特定の事象を底上げして、必要以上に困難なものにしているのは、他ならぬ自身の所業である。決して長くはない生命の途上において、わざわざ剣呑さを好む理由はない。まぁそれも好き好きではあるのだが。

沼の水面には、絶え間なく吹きすさぶ寒風によって、ばらばらに朽ち果てた水草がぽっかりと浮いている。その様子はまるで、洋上に浮かぶ漂流者のようだ。所在なさげなその挙動は、見る者の心に諦観の情をもたらす。悟りの後に訪れる超然とした態度が、自然とその身に植え付けられるのである。岸の浅瀬は、これ以上ないほどに濁っている。もしも「濁りの最果て」というものがあるのであれば、とうにそれを超越している状態である。濁り尽くした沼には、もはやなんの感慨も見出すことはできなかった。

現状では汚泥を押し込めたような景観の沼だが、かつてはそこに確かな華やぎが存在していた。しとやかな水色に覆われた沼は、天上から降り注ぐ清廉な雫を余すことなく抱き留めたかのようであり、その周辺にも多種多様な水生植物が明るい陽射しを受けて群生していた。水面には、アメンボやタガメなどが何の憂いもなく舞泳いでいる。この地においては、瞬きをせずに眼前の光景を視界に収めることが最も正しいことのように思えた。

どれほどの情熱を抱いて「在りし日の姿」を思い描いたところで、現状が好転するわけではない。ただそれでも、歴史の連なりに身を委ねることは、無為な所業ではない。「それ以前のこと」に思いを馳せる行為を無益と断じることはできないのだ。昔日の輝きは失われて久しい沼だが、現今においても、その存在の質量は微塵も減じていない。



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