落下猿・名高いハム


逆さまに落ちてゆく猿がいた。猿の表情は険しく、その顔を覆う表情筋の一切は強張っていた。猿は、敵の姦計に陥って、そのような危機的な状況に瀕しているのだが、怒気をあらわにしなかった。そもそも猿が怒り心頭に発したからといって、事態が好転するわけではない。猿は、自身が落下する過程において、怒りの感情が消失する様子を見た。正面からまじまじと見たのではなく、横目でちらりと見ただけなのだが、見たということには変わりない。自身の内に次々と湧き起こる感情を注視して、その一切を丁寧に検分する余裕など、猿にはありはしない。よしんば余裕があったとしても、猿はそうしないだろう。猿には猿の道理というものがあるのだ。

ややあって、猿は「そういえば、もう長いこと毛づくろいをしていないな」と呟いた。その声量は独り言としてはかなり大きなものだったが、周囲の種々雑多な音に掻き消されて、誰の耳にも届かなかった。宛先不明で荷物が返送されるように、猿が発した言葉は自身の耳に送り返された。落ちてゆく身であり、四肢の大部分が機能不全に陥っていても、耳の機能は十分に働いていたのである。猿は思わず「やるじゃないか、耳よ!」と叫んだ。その叫びは、先程の呟きとは違って、周囲の雑音を遥かに上回り、四方八方に飛び散った。猿はその様子を満足げな表情で眺めていた。

しかしながら、事態は依然として深刻である。猿の身体は、相も変わらず落ち続けている。落下の途にあるわが身のことを思う度に、猿の精神はギリギリと万力のように締め上げられた。だが猿とて、このまま何もせずに「その時」を迎え入れるつもりはない。猿は、自身の肉体に対して「いつまでも硬直しているんじゃないぞ!」と発破をかけた。肉体は、自らを標的として発せられた言葉にたじろいだ。

その瞬間、肉体に過剰な制限を加えていた緊張が緩んだ。機を見るに敏とばかりに、猿は自身の肉体に指令を発した。乾地に降り注ぐ驟雨のように、指令はぎゅんぎゅんと音を立てて肉体に沁み込んでいった。肉体は、指令が滞りなく伝わったことを高らかに告げたが、猿はそのことに気づかないふりをした。手持ち無沙汰になった指令は、しばらくの間、辺りをきょろきょろと見渡していたが、やがてひっそりと消滅した。猿はその様子を横目ではなく、正面からきっちりと見届けた。



名高いハムは、日がな一日その身を陽光にさらしていた。起き抜けに「ハムなんてものは、お前以外にもごまんといるのだ」と買主に言われたので、不貞腐れているのである。名高いハムに同情する者は誰もいない。それもそのはず、そのハムは手間暇を最大限にかけて作られた至極上等なハムなのだから。名高いハムを一個作るのにかかる費用は、名も無いハムを百個作るのにかかる費用に相当する。言うなれば、名高いハムの足元には、百個の同類の屍が横たわっているのだ。時折、名高いハムは、朽ち果てた無数のハムに対して瞑目して祈った。同じ臭みを持つもの同士、相通じるものが確かにあるのだ。

名高いハムの心中を察すると、なんともやるせない気持ちになる。名高いハムというのは、傑出した存在であり、ハムという分類の内部においては中心的な役割を担っている。たとえるならば、頂花蕾のような存在である。頂花蕾というのは、ブロッコリーの頂点に位置する花蕾のことだ。それに対して、側枝に位置する花蕾のことを側枝花蕾と呼ぶ。頂花蕾が主人ならば、側枝花蕾が従者である。ただ、その関係性は永久不変のものではない。一度、他の生物の体内に取り込まれれば、主人だろうが従者だろうが関係なくなる。「死なばもろとも」これが側枝花蕾に通底している普遍的な理念なのである。

もちろん、名高いハムとて、ただ消化されるだけという無抵抗を良しとはしない。消化されるという行為自体を回避することは不可能だが、反乱の機運を高めることによって、一連の流れに楔を打ち込むことは可能だ。その行い自体は大変な困難を極めるが、やってやれないことはない。茫然自失の体で終焉を迎えるハムもいれば、獅子奮迅の働きで玉砕に向かうハムもいるのだ。その場においては、思慮も分別も詠嘆も諦念もない。「一個のハムがどう動いたか」という、なんの意図も介在しない無機質な痕跡が残るだけだ。


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