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妾の爪切り


その妾は、少しばかり珍妙な特技を持っていた。爪をぱちんぱちんと切る際に、切った爪を意のままの方向に飛ばすことができるのである。もちろん、その特技が実際に役立ったことはない。役立たないどころか、切った爪は四方八方に飛び散るので、片付けるのがより一層面倒になるだけだ。それでもなお、妾はその特技の実行をやめない。特技というのものは、その者の特性を外部の者にもわかりやすい形で表出するものである。そのため、特技の実行をやめるということは、取りも直さず、その者で在ることをやめるということに他ならない。爪を切るのは容易だが、命を絶つのは困難なのだ。

以前、爪を切るのにあまりにも熱中していたので、背後に人が立っているのに気が付かなかったことがある。妾の背後にいたのは、老齢の女中だった。その女中は、てんでばらばらの方向に散らばった爪の数々を見やって、奇々怪々な表情を浮かべていた。「こんなに妙ちきりんな光景は、生まれてこのかた一度たりとも見たことがない」といった風情である。その様子はどことなく哀れで、途方もなく滑稽だった。女中の表情筋は「まっとうな像」を結実させようともがいてたが、奮闘むなしく、その表情は無残に崩壊していた。

「この女中は麩菓子よりも口が軽いので、この場面でしっかりと弁解しておかないと、この光景を尾ひれを最大に付け加えた上で周囲に言いふらすに違いない」と判断した妾は、即座に言い訳を始めた。「下手に嘘をついても、ぼろを出すだけだ」と考えたので、私にはこういう特技があるということを淡々と語った後に、その実演を粛々と行った。女中と妾の二人だけがいる空間に、ぱちんぱちんという爪を切る音が響いた。その音は、堂宇に響く鈴の音のように、どこまでも静謐だった。その静けさには、妾の「爪を切るという物事に対する取り組み方」と相通じるものがあった。

爪を切るという行為に没頭していた妾は、女中の姿が消えていたことにようやく気が付いた。どの時点でこの部屋を去ったのかは判然としないが、直近までここにいたことは確かである。妾は、つい先ほどまで女中が立っていた場所を未練がましく眺めていた。その視線は、欲しくてたまらず、どうしても諦めきれない玩具に対して注ぐ童子のそれと酷似していた。爪を切るという無心の行為に身を置いていた影響によって、妾の精神世界は著しく退行していたのである。妾は、納得のいかないような、どこまでも不真面目そうな表情を浮かべながら、爪切りを無造作に放った。


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