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一人の老人


遥かな昔、一人の老人が傾いだ木の根元に住んでいました。老人は、生まれてから今の今まで、その木と共に暮らしてきました。村の子供たちは、その老人のことを「木の老人」と呼んで、からかったり、はやしたてたりしましたが、老人は全く気にしませんでした。老人が気になるのは、目の前にある大きな木だけです。大きな木はとても美しく、枝からスクスクと生えた葉っぱに太陽の光があたると、きらきらと光り輝きました。老人は、葉っぱが輝く様子を見て、眩しそうに目を細めました。葉っぱの輝きは、老人の生きる希望になっていたのです。

そんなある日のことです。朝の陽ざしに照らされて老人が目を覚ますと、頭上から子供の声がしました。老人が顔を上げると、大きな木の枝にぶら下がって、わんわんと泣いている小さな男の子がいました。老人は驚き、「そんなところでなにをしているんだ。危ないじゃないか」と声をかけましたが、男の子はただひたすら泣くばかりです。老人は男の子を助けるために、あらんかぎりの力を振り絞って、木に登り始めました。

若い頃とは違い、老人の体はかなり弱っています。昔はスイスイと楽に木のてっぺんまで登れたのですが、今では、木の真ん中まで登るのがやっとです。幸いなことに、男の子は、木のちょうど真ん中にある枝にぶら下がっていました。老人は、息をゼイゼイと切らせながら、なんとか男の子の近くまでたどり着きました。その時です。突然、勢いの良い風がビュウと吹き荒れました。老人がアッという叫び声を発したときには、男の子はすでに木の枝から振り落とされて、地面に叩きつけられていました。

男の子の体は、地面の土でおおわれて、すっかり茶色くなっています。ついさっきまで、わんわんと泣きわめいていた男の子が今では一言も発しません。老人は急いで木から降りて、男の子の近くに駆け寄りました。「おい!大丈夫か!」と老人が声をかけると、男の子はとても小さな声で「うん。あのね、僕ね、この木の葉っぱが欲しかったの」とつぶやきました。

太陽の光にキラキラと照らされた葉っぱがあまりにもきれいだったので、木に登って、自分のものにしたかったようです。老人は「そうか。そうだったのか」と言って男の子の体を抱きかかえました。老人は、男の子の体についた泥砂を丁寧に払い落としてから、ゆっくりと背中におんぶして、村のはずれにある病院まで連れていきました。

それから数か月が経って、男の子はすっかり元気になりました。男の子は、助けてくれた老人にお礼を言うために、大きな木に向かいました。太陽の光が降り注ぐ中を、ほくほくとした笑顔を浮かべながら、一歩また一歩と、軽やかに歩いていきました。しかしながら、突然に、男の子の足はピタリと止まりました。男の子の顔は、晴れ渡った空のように、真っ青になりました。それもそのはず、本当なら、あの大きな木が生えている場所が、すっかりそのまま平らになっていたのです。

男の子は、自分が目にしたものは、きっと嘘に違いないと思いました。なぜなら、ほんの少し前まで、大きな木と老人がその場所にいたのですから。男の子はなおも、その場所にぼうっと立っていました。すると、たまたま通りかかったおばあさんが「坊や、そんなところで立ち尽くして、いったいどうしたんだね?」と声をかけてきました。男の子は、ぼんやりとした頭をなんとか働かせて、「・・・・だって、ここにあった木がなくなってる・・・」と答えました。男の子の体は、か細く震えています。

おばあさんは納得した様子で「あぁ、少し前までここにあった木のことだね。あの木はね、何か月か前に、村の役人たちがやって来て、綺麗さっぱり切り取ったのさ」と答えました。男の子の体は、何か重いものでのせられたように、ピクリとも動きません。なおも、おばあさんは続けます。「わたしは知らない子なんだけどね、男の子が木に登って落ちて、大けがをしたのさ。だから、この木は危ないってことで、切られちまったんだよ。ケガをした子供もかわいそうだけど、そのせいで切られた木もたいそう気の毒なことだねぇ」おばあさんはそう言うと、かつて木が生えていた場所を懐かしそうに眺めました。

男の子の顔はもはや、色を失っていました。まるで、大きな木といっしょに、男の子の心も切り取られてしまったかのようです。おばあさんは、男の子の様子をじっと見守っていましたが、「なくなっちまったものはしょうがないさ。今すぐには無理だろうが、そのうち元気になるだろうよ」と言って、去っていきました。男の子は、太陽が沈んで、辺りがすっかり暗くなるまで、その場所に立ち尽くしていました

そらから長い年月が経ち、かつての男の子は、すっかり老人になりました。そうです。昔、大きな木の根元に住んでいた老人と同じぐらいの年齢になったのです。老人は今、森の奥深くの小屋で暮らしています。あたりは木々に囲まれていて、風が吹くと、葉っぱがサワサワと音をたてます。老人は、その音を聞くたびに、あの大きな木のことを思い出します。

もちろん、大きな木は老人が子供の頃に切り取られてしまったので、今はありません。ですが、かつて子供だった老人の心には、今でも大きな木がしっかりと根を下ろしているのです。老人は、古びたロッキングチェアに深々と腰を下ろしてから、ゆっくりと静かに目を閉じました。どこか遠くの方から、サワサワという葉っぱの音がかすかに聞こえてきました。


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