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石のような男


石のように微動だにしない男がそこにいた。その男は、よほど久しく長らくの間、その場所を動いていない。なぜそのことがわかるのか。それは私が根気強くその男に視線を向け続けたからに他ならない。私は、所持している時間の最大限をその男の観察に費やしてきたのだ。もちろん、私の行動それ自体に賛辞を贈る者など誰一人としていない。私は賛意も称揚も礼賛も求めていない。ただ一つ「自らの意思によって策定した視点の固定」のみを求めていた。その求めに応じることは容易ではないが、やってできないことはない。希求するものの範囲と精度にこだわらなければ、大抵のことはなんとかなるのだ。

一見、石のような男は世間に拘泥しているかのように見えるが、実際はそうではない。男はただその場所に固着しているだけであり、固執しているわけではない。世間に縋りつくようなそぶりは見せないし、取り繕うような仕草も見せない。その場所にしても、男が居続けることを拒絶してはいない。男が居続けようが、居続けまいが、その場所の根幹が揺らぐような事態には発展しないのである。もちろん、これはただの展望に過ぎない。私の見通しが甘く、その場所に付随する一切合切が突発的に瓦解する可能性も十二分にある。行く末を見渡す際には「いつ何時どのように変化するかは不明瞭である」という自覚を持たなければならないのだ。

よくよく観察していると、男が居る場所を定期的に訪れる老婆がいることがわかった。その老婆は毎日、日暮れと共にやってくる。男の前で立ち止まり、口内でなにがしかの文言を呟きながら、男に向かって手を合わるのだ。しばらく瞑目した後、太陽が地平線に沈んでいくような極めて緩慢なお辞儀をしてから、男の前を離れる。男に背を向けて歩き出す老婆の背中には、憎悪の気配が僅かに滲んでいた。

私には、老婆が抱える憎悪の根源を探りたいという欲求は微塵もない。それがどのような性質のものであれ、憎しみに接近することが良い結果をもたらすことはほとんどないのだ。私は、長いとは言えない人生において、憎悪の感情に絡めとられて、今生から崩落した人間を幾人か見てきた。それだから私は、老婆が内包する憎悪に執着しない。歪な形状を保ちながら、いつの日か地べたに投棄されるであろうことをぼんやりと思い描くだけだ。 




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