些細な邂逅


小雨そぼ降る昼下がりのこと。私は、自室において半睡半醒の状態に耽溺していた。すると出し抜けに「いやはや、懇ろな関係になりたいなぁ」という声が襖の奥から聞こえてきた。その声には切迫感がまるでなく、これ以上ないほど弛緩しきっていた。
「あなたには大変に気の毒な話なのですが、ここに居る私という存在は、そこに居るあなたという存在とお近づきになりたいのです」
私は、襖の奥から聞こえてくる台詞の内容を検分してみた。どうやら、こちらに害意があるわけではないらしい。私は逡巡することなく、襖を勢いよく開けた。

「いきなり襖を開けるとは、いやはや、なんともせっかちなお方だ。あたなのような性格では、かたつむりとして生きるためには大変な困難を伴うでしょうなぁ。なんともはや」
私は目の前に横たわるかたつむりの姿を見下ろしながら、思考の隘路に迷い込んでいた。なぜ眼前にかたつむりが鎮座しているのか。どのような方法を用いて人間の言語を操っているのか。いかなる考えを持って私をかたつむりに見立てているのか。尽きぬ疑問を保留したまま、私は言葉を発した。

「そもそも私はかたつむりとして生きる手段を持たないし、仮にそのようなものを有していたとしても、それを行使するつもりは毛頭ない。たとえかたつむりとしての生活が絢爛華麗なものだったとしても、私はそれを望まないだろう。かたつむりに与えられるあらゆる権利は、私にとって無用の長物なのだ。そのことを今、目の前にいるお前に伝えておく。人間としての私が、かたつむりとしてのお前に告げ知らせるのだ」

かたつむりは、左右両方の目をしばたたかせながら、私の話を黙って聞いていた。その様子を形容するならば「聞くに堪えない話が終わるのをただ茫然と待っている」といった具合である。かたつむりはしばらくの間、沈黙の中に身を浸していた。そして、なにやら呻き声のようなものを絞り出してから「いやはや、なにもお構いできずに」とはっきり口にして、その姿を消した。私は、かたつむりが消え入る様子を眺めながら、「お生憎様」と呟いた。なんのことはない。

横たわるマクラには、なんの策略もない。ただひたすらその空間に「ドデン」と突っ伏しているだけであり、情緒もなければ長所もない。マクラは、空間のひずみにスッポリと収まるような形で留まっている。マクラはどうやらご満悦のようだが、果たして周囲の空間はどう思っているのだろうか。マクラの襲来を疎ましく思っている空間もあれば、快く思っている空間もあるのだろう。マクラは、それらの空間に対して一顧だにしない。マクラが抱く関心は、自身の沈下具合だけだ。「自分という個がどのように沈んでいくか」ということにしか、マクラの関心は向かわないのである。

周囲の空間は皆一様に、マクラに対して一定の距離を保っている。それもそのはずだ。凡百の空間は、マクラという「沈みゆくことにのみ心血を注いでいる特殊な存在」を歓迎しない。だが、その事実はマクラ自身の居心地を微塵も悪くしない。それどころか、空間との関係性が薄くなればなるほど、マクラは自身の精神領域に耽溺するようになる。それこそが、マクラの最も望むところなのだ。マクラという存在は、ただ沈み、ただ横たわっているのである。その立ち居振る舞いには、遠慮会釈は一切ない。空間にできることは、沈みゆくマクラを見守ることだけだ。マクラを見守り続けることが、空間の唯一の存在意義なのである。


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