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ペシミスティック


シオランという人物を御存知でしょうか。シオランはルーマニアの作家で「ペシミストの大家」として知られています。ペシミストというのは、厭世主義や悲観主義を意味するように、この世界や人生や事象をネガティブなものとして捉える態度を表明する人のことを指します。

例えば「この世には無数の悪が存在する。悪を根絶することは原理的に不可能なので、この世は生きるに値しない」というのもペシミスト的な考え方です。なんというか、倒しても倒しても復活を繰り返して悪事を働くばいきんまんを前にして、諦念の表情を浮かべているアンパンマンの姿が思い浮かびます。「永遠性に打ちのめされた挫折パン」といった有り様ですね。

シオランの生涯を要約すると「数十年に渡ってパートナーに寄生しながら多くの本を書き、ところどころで不倫もしつつ天寿を全うした」となります。この説明だけだと「ただのヒモじゃないか」と思われるかもしれません。ただ、シオランは本を書き続けていくうちに人気作家になったので、そんじょそこらのヒモとは一線を画しています。

シオランは「パラサイトの人生というのは、楽園のように素晴らしい人生である」という、全てのヒモの金科玉条になり得る名言も残しています。清々しいほどの純粋性の発露ですね。持つべきものは金づるです。ちなみに、シオランのルーマニア語読みは「チョラン」です。なんとも登り甲斐がありそうな名前ですね。人生という険山に独特な方法で挑み続けた彼にぴったりです。

また、シオランは「世間の人間というのは、怠惰な人間よりも殺人者に寛容である」という言葉も残しています。これには少し説明が必要かもしれません。「怠惰な人間」というのは、社会に向けてエネルギーを発散しない人のことです。「ゼロ状態で固着している」というわけですね。それに対して「殺人者」というのは、社会に向けてマイナスのエネルギーを発散している人のことです。指向性は良くない(法律に抵触する)ものの、社会にエネルギーを発散しているという点で怠惰な人間とは異なります。要は「動きがあるかどうか」ということです。

怠惰な人間が「無」ならば、殺人者は「有」です。なので、「有」の存在である生きた人間が殺人者に共感を抱くのは至極当然のことなのです。 殺人という行為の背景には、殺人という行為を遂行するための感情や動機や計画が存在します。その「存在するという共通項」に対して、世間の人の関心が向けられるわけです。殺人というのは「動作」であり、動作というのは生命活動の根幹をなすものです。そのため、世間の人は殺人者に対して、全面的ではないにしろ、部分的には殺人という行為の背景に共感することができるのです。

もちろん、シオランは殺人者を肯定しているわけではありません。殺人者に対して世間の人が抱く心情について論じているだけです。 そもそも「動く」ということは「乱す」ということです。どこの誰であろうが、何らかの社会的な動作を行えば、その場には「乱れ」が生じます。その一方で、何の動作も行わなければ、その場が乱れることはありません。周囲は静謐そのものです。

ただ、動作を行わないことによって、その場を搔き乱すというケースもあります。メルヴィルの『バートルビー』は好個の礼です。バートルビーは「絶対的に動かない」という行為を選択することによって、その周辺を大いに乱すことになりました。 バートルビーの結末というのは、なんとも切ないものです。彼が自らの意志に基づいて「選び取った静」は「社会的な動」に変容した後に「押し付けられた静」になりました。

読者がバートルビーの境遇に関心を抱くのは、それがそっくりそのまま私達の人生を反映しているからです。「静→動→静」という宿痾からは決して逃れられない私達は、バートルビーの挙動と自身の振る舞いを重ね合わせて慨嘆せずにはいられません。「俺は人間に戻りたいんだ!」と叫ぶ野獣は実直そのものですが、獣性の発露を躊躇するのも人間の一側面なのです。


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